~高坂あおはるー①~ ※挿絵あり
相馬原駐屯地の医務区画は、夕方前の乾いた空気をそのまま閉じ込めていた。
ヘブンズルーム1号車の内部は、機器が静かに脈打つような一定音を刻み、
準備の整い具合を淡々と示している。
あいかは端末を確認し、患者識別コードを読み上げる。
「相馬原駐屯地医療支援、担当ナースの五鈴あいかです。今日は排液処置を三段階で行いますね」
ベッド脇に立っていた高坂隆は、背筋を伸ばしたまま、どこか落ち着かない表情を浮かべていた。
「……高坂です。よろしくお願いします。あの、僕……あいかさんが担当で、ありがとうございます!!」
その声の端に、緊張と期待の混じった揺れがあった。
隊内で広まっている“あいかさんはやさしい”“説明が丁寧で、
安心する”という噂を、彼も耳にしているのだろう。
視線が合った瞬間、胸元へ落ちそうになる目線を慌てて戻す仕草が、正直すぎて分かりやすい。
「大丈夫ですよ。今日は状態が軽度のまま続いていたので、早めに処置しておきますね。
では、仰臥位で横になってください。呼吸は普段どおりで大丈夫」
高坂が横たわる。あいかは体位保持具を調整し、骨盤角度を微修正。
胸郭の動きを確認しながら、呼吸と脈の同期を読む。
脈拍63、呼吸数15、血圧118/72。軽症域、処置適応。
「起点部、触れますね。痛みがあれば教えてください」
あいかの指先が処置部へ触れた瞬間、高坂の呼吸がわずかに跳ねた。緊張反応。痛みではない。
「問題なし。局所の皮膚温も正常。圧痛もなし。では、消毒します」
無香性の消毒液をコットンに含ませ、外周から中心へ向けて静かに拭う。
皮膚の薄い部位だが、あいかの手つきは迷いがなく、高坂の体が強張る隙を与えない。
「はい、きれいになりました。ここからジェルを導入します。
血流反応が出ても正常範囲なので、安心してくださいね」
シリンジ型ジェルの量を確認。基準量、気泡なし。導入口の角度を整え、呼吸リズムと合わせる。
「息を吸って……はい、吐いて。いきますよ」
薬液が静かに流れ込む。モニターの脈拍が62へ低下し、血圧が緩やかに落ちる。
反応は教科書どおりで、一切の乱れがない。
「あいかさん、すごい……丁寧ですね」
高坂の声は震えていた。照れと安堵が混ざった、若い兵士らしい声だ。
「あくまで医療ですから。丁寧じゃないと困りますよ」
優しい言葉だが、手つきは職人のように正確だった。
「では、排液に移ります。力まないように。呼吸は私に合わせてくださいね」
あいかの右手が起点部へ添えられ、一定角度で保持する。
そのわずかな沈み込みと反発を指先で受け取り、呼吸と数値を同時に監視する。
「……だ、大丈夫です……」
肩が揺れ、声が漏れる。それでもモニターは安定していた。
「反応良好。排液量、基準ライン。痛みの兆候なし。はい、そのまま保ってください」
トレイに落ちる排液。色、量、粘度、生理域。あいかは手袋を替え、再度触診。
処置中の全情報を数値と合わせて読み取る。
「呼吸、上手です。あと少しで1回目終わります。はい、そう……大丈夫」
高坂の視線が、あいかのくびれへ、胸元へ、横顔へ、行ったり来たりして戻ってこない。
本人は気づかれていないと思っているが、呼吸の浅さと脈の揺れで丸分かりだ。
それでも、あいかは優しい声だけを返し続けた。
「終了です。負荷の低下、良好。きれいに整っていますね」
新品の手袋へ交換し、記録をまとめる。
動きの一つひとつが、安心感そのものだった。
「高坂さん、とても上手にできました。次へ進む前に、少し休んでくださいね」
「……はい。あの……本当に、優しいですね」
あいかは笑った。感情を乗せすぎず、しかし温かさは失わない笑み。
その静かな微笑みだけで、高坂の鼓動は数値以上に跳ねていた。
◇
1回目の処置を終えてから、まだ十分も経っていない。
それなのに、高坂のモニターは“戻り”の兆しを見せていた。
脈拍は62から67へ、血圧は114/70から118/72へ。
いずれも軽症域だが、立ち上がりの早さは顕著だった。
「あいかさん……もう、戻ってきてますか?」
高坂が不安げに視線を向ける。あいかは端末を確認しながら、迷いなく答えた。
「はい。第二波の典型的な反応ですね。問題ありません。
では、2回目に入ります。呼吸は先ほどと同じで」
その落ち着いた声が、医務車内の空気を整える。
高坂は深く息を吸い、横たわる姿勢を正した。
彼の胸郭は規則正しく上下しているはずなのに、
視界の端ではあいかの白衣の揺れがどうしても気になってしまう。
(……本当にきれいな人だな)
そう思う自分に驚きながらも、呼吸は合っている。
数値には影響させないのが高坂の誠実さだった。
「では、消毒しますね」
あいかの指先が触れた瞬間、脈拍が67から69へ微増した。
あいかは気づいていたが、指摘はしない。
ただ、医療として確認すべき項目だけを淡々と読み上げた。
「皮膚温、正常。圧痛なし。血流量、基準上限寄り」
ジェル量を再確認し、シリンジを操作する。
「投与します。吸って……はい、吐いて」
薬液が流れ込むと、脈拍は69から64へ、血圧も112台へ落ち着いた。
高坂はその変化を体感しながら、あいかの横顔をちらりと見る。
プロの顔。柔らかいのに厳密で、優しいのに揺れがない。
(……この人、本当にすごい)
「排液に移ります。力まないように」
あいかの右手が処置位置に入り、一定の角度へ固定した瞬間、モニターが静かな曲線を描き始める。
排液量、開始5秒で基準量の13%。匂い、正常。粘度、正常。
あいかはそのすべてを視覚と触覚で同時に追っていた。
「痛み、なし。反応、良好。はい、そのまま」
「……は、はい……」
高坂の声が震える。苦痛の震えではない。
胸の奥がくすぐられるような不思議な感覚と、あいかの近さによる緊張が入り混じっていた。
排液量は1分で45%、終盤に入り、波形が安定していく。
「終了です。負荷の低下、良好。戻り方も整っています」
あいかは手袋を替え、端末に記録する。
高坂は息を吐き、気恥ずかしさと安心が混ざった笑顔を見せた。
「……なんか、あいかさんに褒められると安心します」
「安心してくれるなら、私は嬉しいですよ。では、少しだけ休んでください。3回目に入りますから」
その言葉に高坂の胸が跳ねた。脈拍が64から68へ上昇する。
あいかは画面を見ただけで心の動きを読み取る。
「緊張、してますね?」
「えっ、あ……その……」
「大丈夫ですよ。数値で全部分かりますから」
淡々としているのに優しい。
高坂は照れを隠せず、目を逸らしたが、その視線はどうしてもあいかのくびれへ吸い寄せられる。
柔らかな丸みと、白衣のライン。その度に胸が熱くなる。
そして3回目。
「では、仕上げとして3回目に入ります。これでしっかり整えるので、安心してください」
消毒、触診、反応確認。
すべてが丁寧で、一切の乱れがない。
ジェル導入直前、脈拍は67。呼吸数は15。
緊張と期待の混ざった数値だった。
「吸って……吐いて。はい、導入します」
薬液が広がると同時に、脈拍は63へ下降。血圧、109台。
排液開始10秒で基準量の20%を超え、波形が美しく整っていく。
「いい反応です。戻りも抑えられています」
あいかの声は常に一定で、プロそのものだった。
しかし高坂にとっては、その声が胸に届くたびに鼓動が揺れる。
モニターはその揺れを忠実に数値へ変換していた。
排液量、80%。
あいかの右手が角度を微調整し、波形を読み取る。
「終了します。……はい、整いました。負荷、安定。呼吸もきれいです」
手袋を替え、記録を閉じる。
「高坂さん、とても上手でした。第二波特有の戻りも、今日は抑えられています」
その言葉に胸が熱くなる。
「あいかさん……本当に、ありがとうございます」
あいかは微笑んだ。それだけで、脈拍が63から69へ跳ねた。
「また必要なときは言ってくださいね。私はちゃんと支えますから」
医務車は静まり返っていたが、高坂の心の中だけは、静かに熱を帯びていた。
◇
処置がすべて終わる頃には、ヘブンズルーム1号車の空気はすっかり落ち着きを取り戻していた。
高坂は更衣スペースへ移動し、自衛官制服へ袖を通していた。
汗を吸ったインナーを替え、ジッパーを上げる。
その動作ひとつひとつが、処置中とは違う緊張を含んでいる。
(……終わった。いや、終わったけど……なんか、胸がざわざわする)
胸郭の動きは安定しているが、心の動きはまだ整っていなかった。
あいかが近くにいた時の匂い、声、触れるか触れないかの距離感。
それが高坂の鼓動をまだ支配していた。
「高坂さん、着替え終わりましたか?」
あいかの声がカーテン越しに聞こえる。
処置中の淡々とした医療口調ではない、仕事を終えたあとの柔らかい声。
高坂は慌てて前を整え、カーテンを開けた。
「はい、終わりました。あの……ありがとうございました」
制服の上着を軽く整えながら頭を下げると、あいかはふわりと笑った。
医療の場では見せない、年上のお姉さんらしい柔らかい表情だった。
「やっぱり、自衛隊勤務って……身体、すごく仕上がるんですねぇ」
その言い方は、どこか感心していて、どこか誇らしげに聞こえた。
さっきまで冷静な医療者だった人が、急に柔らかい“素のあいか”になる。
その落差が、高坂には耐えられないほど眩しかった。
「い、いや……あの……そんな、すごくは……」
高坂は耳の後ろまで真っ赤になった。
鍛えている自覚はある。でも、女性に、ましてあいかに言われると話は別だ。
「あいかさんのほうが……その……スタイル良すぎというか……すごいっすね」
言った瞬間、自分で自分の言葉に驚いた。
口に出すつもりではなかったのに、言葉が勝手に滑り出た。
あいかはほんの一秒だけ瞬きをして、それから優しく笑った。
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいですよ」
その笑顔は、処置中に見せる“職務の笑み”とは違った。
緊張をほどく柔らかい笑みで、どこか女の人としての自然な優しさが滲んでいた。
高坂の胸が、一瞬で跳ねた。
(……あ、駄目だ。これ、やられるやつだ)
ほんの少し俯いているあいかの視線の角度のせいで、白衣の襟元がかすかに開き、
そこから覗く深い影が目に入る。
くびれも、処置中には見えなかったラインが制服の下で自然に形づくられて、
どうしても意識が吸い寄せられてしまう。
(あの顔で、あの谷間って……反則なんだけど)
(しかも、あのくびれ。近くに立たれたら、男で意識しないやついないって……絶対)
心の中だけで暴走しているのに、顔はなんとか平静を保とうとしていた。
しかし脈拍は正直で、処置後の安定値からじわりと上昇している。
「高坂さん?」
「あ、はいっ!」
声が裏返る。
「まだ少し脈が高いですね。緊張してます?」
あいかは端末を確認しながら、ふふ、と控えめに笑った。
その小さな仕草だけで高坂の胸がぐらりと揺れた。
(いや……そんな優しく笑われたら、落ち着くわけないだろ……)
心の声は叫びに近かった。
だが、もちろん言うわけにはいかない。
「大丈夫ですよ。今日の反応なら、第二波としてはとても安定しています。
必要以上に無理しなければ問題ありませんから」
医療者としての優しさと、素の女性としての柔らかさが同時に混じる声。
その響きが、高坂の心に妙な色をつけて染み込んでいく。
(……なんだよ、この感じ。たまんねぇじゃんか)
言葉にはしない。
けれど胸の奥では、若い男らしいどうしようもない熱がゆっくり渦を巻いていた。
あいかは気づかないふりをして、でもきっと分かっているのだろう。
白衣の端を軽く整えながら言った。
「今日はお疲れさまでした。また必要なときは、呼んでくださいね。ちゃんと支えますから」
その一言で、さらに鼓動が跳ねた。
「……はい。ぜひ、お願いします」
高坂の声は、処置中よりずっと小さく、そして素直だった。
医務車を出た空気はひんやりしていたが、胸の奥は妙に熱いままだった。
~おまけ♪~
自衛官の二十三歳という年齢は、身体がいちばん素直に進化する時期だ。
常に走り、担ぎ、踏ん張り、鍛え続ける生活は、筋肉と循環を“効率化された回路”へ変えてしまう。
もし彼らの体力を何かに例えるなら――
〈動くほど勝手に自己充電される最新型アウトドアギア〉
休むと満タン、動くとさらに増える。
一般男性の回復速度を100%とすると、
一般男性(20代):100%
活動的な人:80%
自衛官(23歳):45〜55%
つまり回復に必要な時間は半分以下。
これだけで十分異常なのに、ここへ“第二波”が乗ると曲線はさらに狂う。
〈止まった瞬間、体内の回復スイッチが勝手にONになる身体〉
第二波軽症者の特徴は「回復の立ち上がりが異常に早い」ことだ。
実測値だと、
行動直後の脈拍 92 → 休止10秒で 78
呼吸数 22 → 20秒で 15
乳酸クリアランスは一般比の 1.8〜2.2倍
つまり、疲労が“溜まりにくい”のではなく、
溜まった瞬間から勝手に抜けていく身体 になっている。
もしこれを自衛官の訓練に当てはめるなら――
〈踏めば踏むほど足にバネが生えるスプリングブーツ〉
疲れる前に軽くなる。
休む前に体力が戻る。
だから活動量が跳ね上がる。
一日の活動値で比較すると、
一般男性:100
自衛官(通常):140〜160
第二波反応あり:180〜210
これは“倍になる強化”ではなく、
“疲労が翌日に残らない”という一点が全てを押し上げている。
そしてここに、あいかがよく呟く“コミカルな観察”がひとつ乗る。
〈若い隊員さんって……体力ゲージがチョコボみたいに勝手に回復するのよね〉
そう。ゲームキャラのように、ダメージを受けても
画面の隅でピロピロッとゲージが戻る、あの現象だ。
しかも第二波の影響で、
その回復ゲージが“黄色→緑”へ変わる速度が速すぎる。
自衛官本人は、
「なんか今日、まだ行けるっす」「疲れてる気がしないっす」
と軽く言うが、医療者側から見ると、
(……いや、回復しすぎ。むしろ異常)
としか言いようがない。
本来なら「疲れの自覚」と「血中データ」が一致するのが普通。
だが第二波では、
主観疲労 3/10
客観データ 9/10
という、完全なミスマッチが起きる。
つまり――
隊員本人は“まだ行ける”と思い続け、実際身体も行けてしまう。
これが、第二波軽症群の最大の特徴であり、最大の危険性でもある。




