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第39話 「39(さんきゅー)エピローグ」

旧西棟の前に立つと、朝の光が壁面に薄く反射していた。

 かつては一般病棟として使われていた場所。

今は立ち入り禁止札だけが、空白の時間を証明している。


「では、確認を始めましょう」


 院長が鍵を回し、扉を押す。

 空気はひやりと乾いていた。長く人の出入りがなかった建物に特有の、温度のない静けさ。


 須志次長はタブレットを手に、黙々と動線を確認していく。

 芽瑠は壁面の換気口、陰圧切替装置の残存部品を見て表情を引き締めた。

 唯は普段より口数が少なく、距離を空けつつ全体を眺めていた。

 あいかは腕を組み、眉間のしわをほどこうとしない。


 その後ろを、お美々は静かに歩いた。

 視界の片隅に、昨夜の断片がじわりと滲む。


(……私の判断、軽率だったのかもしれない)


 公園のトイレ。

 コンビニの個室。

 自販機の裏。

 そして、自宅。


 回数の線引きが溶けて消え、時間の境目も曖昧だった。

 排液処置という定義そのものが崩れた感覚

 ――あれを、医学的に説明できる言葉を、まだ持っていない。


 だが、昨夜の出来事が“異常の出発点”になっている可能性は高い。


(私が疲れを感じないことも……もしかして)


 それを今この場で口にするべきか迷った。

 だが、事実を隠すのは医療従事者として本末転倒だ。


 須志が配管図を確認しながら言った。


「動線は完全に分離できます。外来からの接触はゼロにできる。

 陰圧管理が動けば、隔離病棟として最低ラインは確保できます」


「最低ラインでいい」

 院長の声は静かだが、揺るぎがなかった。

「今必要なのは“場所”だけです。設備は後から整える」


「五名は、いつでもこちらに移せます」

 芽瑠が淡々と言う。

「彼らの挙動に政府が気づく前に動くべきです。……時間は、もうあまりありません」


 あいかが小さく息を呑む。

 唯はその肩を軽く叩いたが、声をかけなかった。


 廊下の奥へ進むと、空室が並んでいた。

 カーテンのない窓から光が差し込み、床を白く照らす。


「ここを処置室に」

 須志が示す。

「奥の二部屋は高負荷症状の観察室に使える。看護ステーションは中央の区画に移せます」


 お美々は黙って頷いた。

 胸の奥が、小さく痛んだ。


(……責任は、逃げられない)


 昨夜、自分は一線を越えた。

 医療者でありながら、患者と関係を結んだ。

 その結果、自分の身体にも“何か”が起こっている。


 後悔はある。

 だが、逃げ出したいとは思わなかった。


(私が答えなきゃいけない。あの夜の“結果”に)


 旧西棟の奥に差し込む光を見つめながら、お美々は胸元のIDカードを握りしめた。


「……私が担当します」


 気づけば、声に出していた。

 院長が一瞬だけ目を細める。


「お美々さん。負担になるぞ」


「承知しています」


 お美々は静かに頭を下げた。

 逃げるための言葉ではなく、覚悟を固めるように。


「彼らの変化を、一番近くで見てきたのは私です。

 だから――私が最初に向き合います」


 誰よりも早く知った異常。

 誰よりも早く気づいた“第二波の影”。

 その最前線に立つのは、自分しかいない。


 芽瑠が頷いた。

 唯は珍しく真面目な表情のまま、お美々の肩に手を置いた。

 あいかは、何か言いたげに口を開きかけて閉じた。


 院長は短く言った。


「では、ここを――隔離病棟として“運用開始”する準備に入る」


 その瞬間だった。

 お美々は胸のどこかが冷えるのを感じた。


 第二波の本当の姿を知るのは――

 誰よりも先に、彼らになる。


 その確信が、旧西棟の静けさの中で、ひどく鮮明だった。



 ◇

 

 隔離病棟としての旧西棟は、その日の午前中だけで最低限の区画整理が完了した。

 設備は古いままだが、動線は確保され、観察室は形になった。

 あとは、患者を迎えれば運用が始まる。


 だが――その“迎える”という行為こそが、最も重かった。


 ヘブンズゲート科に戻ると、診療フロアには普段通りの人の往来があった。

 ストレッチャーの車輪音、電子カルテの操作音、医療スタッフの短い会話。

 そのすべてが、隔離病棟での緊迫感とはまるで違う世界に見える。


 お美々はナースステーションに立ち、ゆっくり息を吐いた。


(第二波の本当の姿……あれは、もう始まっているのかもしれない)


 昨夜から今朝まで、何度も連続して続いた排液処置――

 いや、排液処置の形を“借りたもの”。

 医療行為としての枠から外れた行為が、佐久間の身体を狂ったように持ち上げていく感触。

 そして、自分自身にも疲労が残らないという異常。


 それらは、ひとつの方向へ収束していた。


(……あの五人。必ず、どこかで“境界”を越える)


 その予感は言葉にできないが、根拠だけは確かに積み上がっている。


 そこへ、あいかが歩み寄ってくる。

 迷いを含んだ眼差しだった。


「お美々……大丈夫よね?」


「平気。眠ってないだけ」


「それが“平気”じゃないんだけど!」


 珍しく語気を荒げるあいかに、お美々は少し目を丸くした。

 唯も後ろから現れ、肩をすくめた。


「まあまあ。

 でも……ねぇ、お美々ちゃん。“寝なくても疲れが出ない”って、普通じゃないわよ」


「……分かってます」


「あえて言うけど」

 唯の声がいつになく静かになった。

「あなたが一番、最前線に立つことになる。冗談じゃなくてね」


 それは叱責でも励ましでもなく、事実の通告だった。

 お美々はまっすぐに頷いた。


「分かってます。

 ……責任を放り出す気はありません」


 あいかは胸元をぎゅっと握る。


「じゃあ……じゃあ私も、あなたを支えるから。変な心配させないでよ」


 その“変な心配”という言葉に、お美々は小さく微笑んだ。

 不安も、恐れもある。

 だが――仲間がいる。それだけで足が止まらない。


 その時、院長室のドアが静かに開き、須志が姿を見せた。


「準備が整いました。

 旧西棟――隔離病棟は、本日をもって“仮運用開始”とします」


 その言葉は淡々としていたが、確実に章の幕を引く合図になった。


 お美々は胸の奥で小さく、息を整えた。


(ここから先は……後戻りできない)


 あの夜。

 自分が越えた境界。

 そこから始まったすべてが、今、病院全体を巻き込み始めている。


 そして――


 第二波の核心に最初に触れるのは、

 医療者でも研究者でもなく、

 あの五人の自衛官たちだ。


 その未来が、静かに、確実に迫っていた。


後書き(お美々より)


佐久間くん……その、すっごかったです。

正直に言えば、私もつい流されてしまいました。あんなに何度も回復して、何度も……。

でも、もう大丈夫。私には唯先輩もあいか先輩も、みんながいます。

支えてくれる人がいるって、本当に強いんですね。


こうして、第2章・39さんきゅーで一区切りです。

読んでくださった皆さん、本当にありがとうございます。


次の第3章のテーマは「隔離」。

五名の未来も、私たちの決断も、ここから大きく動きます。

どうか、これからも見守ってください。

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