第8話 「泣き声の向こうで」
夜勤の中盤、モニター室に響いたのは、甲高い緊急チャイムだった。
《救急搬送、男性ステージ4、呼吸停止間際》
搬送元は繁華街近くの救急隊。現場で発症し、心肺蘇生を続けながらこちらへ向かっているという。
「搬入、あと三分!」
通信を終えた私は、処置室へ駆け込んだ。
ゆぃゆぃ先輩は既にB-9のボトルと測定器を準備している。
その横で、お美々が手袋を引きちぎるような勢いで装着していた。
だが――患者が運び込まれた瞬間、お美々の動きが止まった。
ストレッチャーの上、酸素マスクをつけられた男の顔を見て、彼女は凍りつく。
「……た、拓真……?」
ゆぃゆぃ先輩と私は顔を見合わせる。
「知り合い?」
お美々は震える声で答えた。
「……元、彼氏……」
救急隊員が状況を報告する。
「発症から三十七分。内圧3.8リットル、心拍150、呼吸浅く、血中酸素65%」
私はモニターを見て息を呑む。これはギリギリだ。
B-9を使わなければ確実に死ぬ。だが、カルテの電子照会で判明した――彼は重度の腎疾患を持っていた。
副作用の急性腎不全リスクが跳ね上がる。
処置は一瞬で生死を分ける博打になる。
「ダメ!B-9は使わないで!」
お美々が叫んだ。
「彼、腎臓弱いの!そんなの打ったら……!」
ゆぃゆぃ先輩が低く言う。
「お美々、使わなければ今ここで止まる」
「でも……でも……! 副作用が……!」
お美々は彼の手を握り、泣きながら繰り返す。
「死ぬかもしれない処置なんて……お願いだからやめて……!」
私は彼女の肩を掴んだ。
「お美々さん、今はあなたの気持ちもわかる。でも……」
声が震えるのを必死で抑える。
「B-9は、量とタイミングを間違えなければ、助かる可能性がある。ゼロじゃない」
「でも、もし失敗したら……!」
お美々の涙が頬を伝う。
ゆぃゆぃ先輩が前に出た。
「お美々、あなたは救命士よね。現場の人間は“もし”じゃ動けないの。今は、可能性が一番高い方法を選ぶしかない」
「……でも……!」
「大事なのは、あとで“やればよかった”って後悔しないこと」
ゆぃゆぃ先輩の声は冷静だったが、その奥にはかすかな震えがあった。
「私は昔、何もしないで患者を死なせた。その人の顔は、今でも夢に出てくる」
お美々は、はっとしたように先輩を見た。
処置室のモニターが、心拍の落ち込みを警告する。
あと二分で取り返しがつかなくなる。
「……わかった。あんたたちを信じる」
お美々は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
「でも……お願い……拓真を、絶対に生かして」
「約束はできない。でも、全力は尽くす」
ゆぃゆぃ先輩が短く答えると、私に視線を送った。
「半量。腎臓を守る時間を稼ぐ」
「了解!」
B-9を患部に塗布する。
数秒後、全身に痙攣が走り、酸素マスクの奥から短い悲鳴のような声が漏れる。
血圧は急降下、同時に心拍が一時停止――アドレナリン注入!
同時に、私たちは物理的補助を開始する。
胸骨圧迫は1分間に110回、深さ5cm。肋骨損傷を避けつつ冠動脈灌流圧を稼ぐ。
お美々がジャクソンリールで補助換気、1秒吸気・4秒呼気。肺過膨張を避けるための精密なリズム。
B-9の浸透による末梢血管払張が顕著で、末梢冷却が急速に進む。
ゆぃゆぃ先輩は即座に昇圧薬を用意し、点滴速度を微調整。
「乳酸値上昇。代謝性アシドーシス進行。重炭酸投与、少量からいく」
心電図モニターでは、微弱な電位変化が見え隠れする。心筋の再分極が、
かろうじて生命を繋ぐサイン。
私は吸引器の負圧を段階的に落とし、過剰な排液誘導で循環崩壊が進まないよう、
手技きで圧バランスを取る。
「血中カリウム、まだ上昇幅以内。腎保護に利尿薬、微量投与」
薬液バッグを手で温め、血管刺激を和らげる。少しでも体の負担を減らすため。
数十秒の沈黙。
処置室の全員が、機械音だけを聞いている。
やがて、心電図の波形が小さく、しかし確かに跳ねた。
「戻った!」
私は叫び、吸引と補液を続ける。内圧は1.2リットルまで低下。
呼吸が浅くながらも自発に戻った。
お美々はその場に崩れ落ち、泣きながら彼の名前を呼んでいた。
搬送後、処置室の床に座り込むお美々の横に、ゆぃゆぃ先輩がしゃがんだ。
「あなたが泣き叫んででも止めようとした気持ち、ちゃんと届いてるはずよ」
お美々は鼻をすすりながら笑った。
「……あんたたち、ほんと怖いくらい冷静ね」
「怖いから冷静になるのよ」
ゆぃゆぃ先輩はそう言って立ち上がった。
私は静かに思う。
――救命の現場では、感情と理性が同時に戦っている。
今日は理性が勝った。でも、それはいつも勝てる戦いじゃない。
お美々はまだ涙で顔を濡らしながら、眠る彼の手を握り続けていた。




