表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/27

第8話 「泣き声の向こうで」

 夜勤の中盤、モニター室に響いたのは、甲高い緊急チャイムだった。

 《救急搬送、男性ステージ4、呼吸停止間際》

 搬送元は繁華街近くの救急隊。現場で発症し、心肺蘇生を続けながらこちらへ向かっているという。


 「搬入、あと三分!」

 通信を終えた私は、処置室へ駆け込んだ。

 ゆぃゆぃ先輩は既にB-9のボトルと測定器を準備している。

 その横で、お美々が手袋を引きちぎるような勢いで装着していた。


 だが――患者が運び込まれた瞬間、お美々の動きが止まった。

 ストレッチャーの上、酸素マスクをつけられた男の顔を見て、彼女は凍りつく。

 「……た、拓真……?」


 ゆぃゆぃ先輩と私は顔を見合わせる。

 「知り合い?」

 お美々は震える声で答えた。

 「……元、彼氏……」


 救急隊員が状況を報告する。

 「発症から三十七分。内圧3.8リットル、心拍150、呼吸浅く、血中酸素65%」

 私はモニターを見て息を呑む。これはギリギリだ。

 B-9を使わなければ確実に死ぬ。だが、カルテの電子照会で判明した――彼は重度の腎疾患を持っていた。


 副作用の急性腎不全リスクが跳ね上がる。

 処置は一瞬で生死を分ける博打になる。


 「ダメ!B-9は使わないで!」

 お美々が叫んだ。

 「彼、腎臓弱いの!そんなの打ったら……!」


 ゆぃゆぃ先輩が低く言う。

 「お美々、使わなければ今ここで止まる」

 「でも……でも……! 副作用が……!」


 お美々は彼の手を握り、泣きながら繰り返す。

 「死ぬかもしれない処置なんて……お願いだからやめて……!」


 私は彼女の肩を掴んだ。

 「お美々さん、今はあなたの気持ちもわかる。でも……」

 声が震えるのを必死で抑える。

 「B-9は、量とタイミングを間違えなければ、助かる可能性がある。ゼロじゃない」


 「でも、もし失敗したら……!」

 お美々の涙が頬を伝う。

 ゆぃゆぃ先輩が前に出た。

 「お美々、あなたは救命士よね。現場の人間は“もし”じゃ動けないの。今は、可能性が一番高い方法を選ぶしかない」


 「……でも……!」

 「大事なのは、あとで“やればよかった”って後悔しないこと」

 ゆぃゆぃ先輩の声は冷静だったが、その奥にはかすかな震えがあった。

 「私は昔、何もしないで患者を死なせた。その人の顔は、今でも夢に出てくる」


 お美々は、はっとしたように先輩を見た。


 処置室のモニターが、心拍の落ち込みを警告する。

 あと二分で取り返しがつかなくなる。


 「……わかった。あんたたちを信じる」

 お美々は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。

 「でも……お願い……拓真を、絶対に生かして」


 「約束はできない。でも、全力は尽くす」

 ゆぃゆぃ先輩が短く答えると、私に視線を送った。

 「半量。腎臓を守る時間を稼ぐ」

 「了解!」


 B-9を患部に塗布する。

 数秒後、全身に痙攣が走り、酸素マスクの奥から短い悲鳴のような声が漏れる。

 血圧は急降下、同時に心拍が一時停止――アドレナリン注入!


 同時に、私たちは物理的補助を開始する。

 胸骨圧迫は1分間に110回、深さ5cm。肋骨損傷を避けつつ冠動脈灌流圧を稼ぐ。

 お美々がジャクソンリールで補助換気、1秒吸気・4秒呼気。肺過膨張を避けるための精密なリズム。

 B-9の浸透による末梢血管払張が顕著で、末梢冷却が急速に進む。

 ゆぃゆぃ先輩は即座に昇圧薬を用意し、点滴速度を微調整。

 「乳酸値上昇。代謝性アシドーシス進行。重炭酸投与、少量からいく」

 心電図モニターでは、微弱な電位変化が見え隠れする。心筋の再分極が、

 かろうじて生命を繋ぐサイン。

 私は吸引器の負圧を段階的に落とし、過剰な排液誘導で循環崩壊が進まないよう、

 手技きで圧バランスを取る。

 「血中カリウム、まだ上昇幅以内。腎保護に利尿薬、微量投与」

 薬液バッグを手で温め、血管刺激を和らげる。少しでも体の負担を減らすため。


 数十秒の沈黙。

 処置室の全員が、機械音だけを聞いている。

 やがて、心電図の波形が小さく、しかし確かに跳ねた。


 「戻った!」

 私は叫び、吸引と補液を続ける。内圧は1.2リットルまで低下。

 呼吸が浅くながらも自発に戻った。


 お美々はその場に崩れ落ち、泣きながら彼の名前を呼んでいた。


 搬送後、処置室の床に座り込むお美々の横に、ゆぃゆぃ先輩がしゃがんだ。

 「あなたが泣き叫んででも止めようとした気持ち、ちゃんと届いてるはずよ」

 お美々は鼻をすすりながら笑った。

 「……あんたたち、ほんと怖いくらい冷静ね」

 「怖いから冷静になるのよ」

 ゆぃゆぃ先輩はそう言って立ち上がった。


 私は静かに思う。

 ――救命の現場では、感情と理性が同時に戦っている。

 今日は理性が勝った。でも、それはいつも勝てる戦いじゃない。


 お美々はまだ涙で顔を濡らしながら、眠る彼の手を握り続けていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ