第38話 「魅惑の排液ー⑤」
ヘブンズゲート科のフロアに、午前特有の白い光が満ちていた。
処置室の稼働音も、モニターの警告もない。静かすぎるほどの平常。
お美々は端末の確認を終え、ナースステーションの奥で手袋を外していた。
胸元のIDカードがわずかに傾いているのに気づき、指で整える。
その動作に、意味はない。ただ、落ち着くための癖だ。
昨夜の記憶は、意識して触れないようにしていた。
触れれば、区切りのない映像が一気に溢れると分かっているからだ。
その時だった。
「お美々ちゃん」
背後から、軽い声がかかる。
振り向くと、緑川唯が立っていた。いつもの笑顔だが、目の奥の温度が違う。
「今から、少し時間いい?」
「……はい」
「着替えたらでいいわ。カンファレンス室A。すぐ来て」
内容の説明はなかった。
問いも、補足もない。
ただ「来て」という事実だけが、はっきりと置かれる。
お美々は一瞬、返事の間を測り、短く頷いた。
「分かりました」
唯はそれ以上何も言わず、踵を返した。
その背中を見送った瞬間、胸の奥に小さなざわめきが生まれる。
(……なんだろう)
呼ばれる理由に、思い当たる節が多すぎた。
それでも、今この時点で“確定している問題”は何もない。
そう自分に言い聞かせながら、更衣室へ向かう。
制服に袖を通し、髪をまとめる。
鏡に映る顔色は、いつもと変わらない。
眠っていないことに、自分で気づけない程度には。
カンファレンス室Aの扉の前で、一度だけ呼吸を整えた。
ノックをして入室する。
――全員、揃っていた。
院長。
須志有喜次長。
森乃芽瑠。
五鈴あいか。
そして、緑川唯。
椅子に座る誰もが、言葉を発していない。
ただ、視線だけが一斉にこちらへ向いた。
お美々は、背筋を伸ばした。
「……遅れてすみません」
「いいのよ、今来たところ」
唯が椅子を引く。
示された席に腰を下ろした瞬間、空気が一段階、締まった。
「今日は“確認”よ」
唯がそう切り出す。
「叱るためでも、責めるためでもない。事実関係の整理」
院長が頷く。
「昨夜の行動について、聞かせてほしい」
言葉は穏やかだった。
だが、その穏やかさが、逆に逃げ場を塞ぐ。
お美々は一度、唇を湿らせた。
「……自衛官の佐久間さんと、個人的に会いました」
あいかの指先が、膝の上でわずかに動いた。
「最初は……深い意味はありませんでした」
お美々は、正直に続ける。
「夜だけの、軽い関係のつもりで。
一、二回で終わらせて、笑い話にするつもりだったんです」
須志が静かにペンを取る。
「予想外だった、というのは?」
「……体調の戻りが、異常に早かった」
芽瑠の視線が鋭くなる。
「排液後の回復速度?」
「はい。こちらが“様子を見るべき”と思う前に、平常域へ戻る。
しかも、それが一度ではありませんでした」
「回数は?」
須志が即座に聞いた。
「……正確には、数えきれません」
沈黙が落ちる。
「“一回”の区切りが、分からなくなったんです。
処置としての一回なのか、身体が落ち着いた瞬間なのか……」
お美々は言葉を選ぶ。
「朝まで、眠っていません。でも……」
「疲労感は?」
芽瑠が被せる。
「ありません。
言われなければ、自分でも気づかない程度です」
芽瑠の眉が、わずかに上がった。
「器材は?」
院長が続ける。
「ヘブンズルームと、あなた自身で行った場合に差は?」
「特別な材料や道具は、使っていません。
医療器材を用いた場合も、個人的な場合も……反応速度に大きな差は感じませんでした」
唯が、にこにことしたまま口を挟む。
「じゃあさ。
一日、何回までいけそう?」
あいかが、息を呑む音が聞こえた。
「……分かりません」
お美々は正直に答える。
「限界を感じる前に、戻ってしまうので」
芽瑠が身を乗り出す。
「それ、毎回?」
「……はい」
須志が間を置かずに続けた。
「回復の“戻り”は、相手側だけですか?」
「いいえ……私自身もです。
寝ていないのに、判断力も集中力も落ちていません」
「体温変動は?」
「平常域です。むしろ、微細なブレが減っています」
「心拍と呼吸数は?」
「安定しています。処置前後で差が出にくいです」
「主観的な高揚感や多幸感は?」
「……あります。でも、不安定ではありません。落ち着いています」
「相手以外と接触した場合、何か変化は?」
一瞬だけ、間が空いた。
「……比較はしていません。
ただ、佐久間さんと会った後は、誰と話しても疲れませんでした」
誰も、すぐには次の言葉を出せなかった。
質問は重ねられたが、結論めいたものは出ない。
ただ、事実だけが静かに積み上がっていく。
その間、あいかだけが一言も発していなかった。
拳を膝の上で握りしめ、視線を落としたまま。
お美々は、その沈黙に気づき、背筋を伸ばしてあいかを見る。
ちょうどその瞬間、あいかも顔を上げた。
二人の視線がぶつかり、同時に口を開きかけ――
「院長ぉ」
唯の明るい声が割って入る。
「お美々ちゃん。
この病院にとって、大事な“金の卵”かもしれません」
須志が即座に頷く。
芽瑠も、表情を変えないまま同意した。
「当面は、情報を秘匿するべきでしょう」
院長は短く結論を出した。
「今日の話は、ここまでだ」
お美々は、ようやく息を吐いた。
まだ、何も確定していない。
ただ一つだけ分かることがある。
――自分の中で、何かが“想定外”に動き始めている。
それだけは、否定できなかった。
◇
カンファレンス室を出た廊下で、須志有喜は歩みを止めた。
胸の奥に残るざらつきは、ただの驚きではない。
“兆候”が、想定より深い位置に潜んでいる手応えだった。
院長室の扉をノックし、「入れ」の声で踏み込む。
「一通り、把握しました」
報告の第一声に、院長は表情を動かさず尋ねる。
「お美々くんの証言か? それとも……例の企業か?」
「両方です」
須志はタブレットを置き、画面を開いた。
まず映したのは カバラ・ファーマシューティカル が残した資料。
排液の買い取り希望。
用途は“研究目的”としか書かれていない。
単価は常識外に高い。
だが、何を研究したいのか核心は語られていない。
「排液の価値が跳ね上がる根拠を示さず、高額を提示してきます。
“開発用途”という言葉だけで押し切ろうとしている。
明らかに情報を隠しています」
「……危険だな」
「はい。民間企業としての倫理よりも、“利用価値”を先に見ている態度です」
須志は画面をスワイプし、別の資料を表示する。
とある民間企業による『15億円の融資枠』の提示。
こちらはカバラとは無関係。
あくまで病院の事業拡大計画を見越して出された商業的融資だ。
「この十五億は、カバラ社ではありません。まったく別の金融パートナーです。
条件が緩く、情報の吸い上げも行わない。
隔離病棟の初年度運用に充てるには、最も安全です」
院長は頷きながら聞く。
「ではカバラ社とは、金銭面では繋がらない」
「はい。排液を“買いたい企業”と、病院事業として“融資をくれる企業”は切り離すべきです。
前者は危険すぎます」
そして次に、お美々の証言。
須志は短く息を整える。
「……想定以上でした」
院長の瞳が細くなる。
「数字ではなく、体験として語られた、という点がか?」
「はい。
処置対象者の異常回復。
持続性。
日内変動の欠如。
そして……彼女自身にも、疲労消失と過覚醒の兆候が出ています」
「確定ではないな?」
「ええ。しかし――“候補として排除できない”。
そして、その可能性を企業側はすでに嗅ぎつけていると考えます」
院長は肘掛けに手を置き、わずかに前に出た。
「須志。はっきり言ってくれ」
「はい」
「今回の五名は、利用価値を見込まれているのか?」
「間違いなく、です」
須志はためらわず答える。
「第二波特有の反応は、医学的にも研究的にも未知の領域。
そして、外部に作用する可能性がある。
“扱えれば利益になる”と判断されれば、企業は手段を選びません」
「……それゆえに、我々が主体で管理する必要がある」
「はい」
須志は旧西棟の資料に切り替えた。
「隔離病棟としての活用。
外来と動線が完全に分離し、既に“箱”としては確保済みです。
改修は必要ですが、自由度が高い。
行政の目を最小限にして運用できます」
「金は?」
「先ほどの“民間十五億”を使います。
政府系資金は情報が漏れますし、カバラ社との連携は論外。
最も安全なのは、中立の民間融資です」
「一年分の運用は可能か?」
「はい。数字では問題ありません」
院長は長く息を吐いた。
「だが、一つ厄介だ」
「芽瑠さんですね」
須志が先に言う。
院長はゆっくり頷いた。
「政府研究機関からの派遣。
本来なら、あの五名を“国に渡すべき立場”でもある。
彼女が政府側へ報告すれば、隔離病棟どころか、全て持って行かれる可能性がある」
「ですが――」
須志は静かに言葉を続けた。
「芽瑠さんは研究者でもあります。
“現場で得られる一次データの価値”を、いちばん理解している人です。
医療者として、ヘブンズゲート科がもっとも直接的に観察できると判断する可能性もある」
「つまり、どちらの顔を優先するかは、本人に聞くしかない」
「はい」
院長は立ち上がり、窓の外を見る。
救急車のサイレンが再び遠くで鳴った。
「……須志くん。段取りを頼む。
芽瑠くんを含めて、正式に意思を確認しよう」
「承知しました」
須志は一礼した。
扉を閉める瞬間、思う。
――旧西棟の稼働は、もはや“選択肢”ではなく“前提”だ。
後戻りはできない。
第二波は、すでに動き出しているのだから。
◇
会議室Aは、午前とは思えないほど空気が重かった。
窓の外から差し込む光だけが、この部屋の時間をぎりぎり“日常”に留めている。
院長、須志次長、芽瑠、唯、そしてあいか。
5名が円卓を囲み、椅子のきしむ音さえ遠慮しているようだった。
最初に口を開いたのは芽瑠だった。
「……立場抜きで言います。
彼ら5名を政府に引き渡すのは、危険です」
言いながら芽瑠の胸奥には、研究者としての勘がざわついていた。
“未知の症例が初期段階で政府管理化に置かれると、必ず歪む”――そんな事例を何度も見てきた。
彼女にとっての恐怖は“奪われること”より、“正しく観察できなくなること”だった。
須志がデータの入ったタブレットを軽く指で叩く。
「回復速度、膨張率、持続時間、日内変動……。
全てが既存症例から外れています。
……思っていた以上ですね」
その声の裏で、須志は別の計算をしていた。
“第二波は既に制度側の想定域から外れ始めている。
ならば病院が先に枠を作ってしまうほうが得策だ”。
合理で思考する彼にとって、今は“判断の遅さ”こそ最大のリスクだった。
「あいか」が続いた。
「専門家ではありませんが……
現場を担当する立場として、私も賛成です。
彼らの“特性”は、通常の医学の枠から外れています。
政府に渡したら、戻ってきません」
その声音には、あいか自身気づいていない焦りと恐れが混じった。
“彼ら5名の担当者でいること”は、彼女にとって責務であり、誇りであり、
なにより失いたくない領域だった。
取り上げられる想像だけで、胸の奥がじわりと痛んだ。
そこで唯が明るい声で空気を割る。
「でもねぇ、うちだって民間病院よ?
彼らをただ囲って守るだけじゃ、運営が回らないわけ。
“戦力”として計算する発想だって、現実には必要なのよ?」
唯は軽口を言いながらも、実のところ誰よりも冷静だった。
“理想も正義も、医療現場ではお金の裏打ちがなければ折れる”。
その現実を、過去に何度も肌で味わってきている。
だからこそ、敢えて茶化すことで議論を進める役を買っていた。
あいかがすぐに噛みついた。
「唯先輩!!そんな言い方――
患者さんを“利用”するみたいに聞こえます!」
唯は肩をすくめた。
「あいかちゃん、落ち着きなさい。
誰も“搾り取る”なんて言ってないってば。
ただね――現実問題として、お金が動かないと病院は守れないのよ」
「じゃあいっそ、政府に全部渡しましょう。
そしたら、病院は何も背負わずに済むわけだし」
唯の口調は明るいままだったが、
その裏には“他人任せにした医療は、必ず歪む”という確固たる信念があった。
それをわざと軽く表現するのが、このひとのやり方だ。
部屋の温度が、一瞬で下がった。
院長のまぶたがわずかに震える。
須志の手が、机の下で止まる。
芽瑠は完全に表情を消した。
唯は、にこりと笑う。
「でも――そうしたらどうなるか、分かってるでしょう?」
あいかの喉が、音もなく上下した。
芽瑠が静かに補足する。
「唯さんの言うことにも一理あるよ、あいあい。
ここは民間病院。理念だけでは動けない。
でも……だからこそ“守るための環境”が必要なの」
院長が深く息を吸い、結論の土台を置く。
「須志。
隔離病棟――あの旧西棟だ。
手探り運用でもいい。
始めるための資金は……確保できそうか?」
院長の胸中には、別の恐れが潜んでいた。
“患者を守れなかった”という後悔を、これ以上抱えたくない。
東日本疫災の時に背負った負い目が、胸内でまだ燻っている。
だからこそ今、動かなければならなかった。
須志の眼差しがわずかに鋭くなる。
「問題は“どのお金を引くか”ですが……数字だけなら、一年分の運用資金は確保できます」
「具体的には?」
「政府系の融資枠も押さえてありますが、
そちらを使うと“情報の提出義務”が避けられません」
院長が苦い顔をする。
「……つまり、政府の監視が入る」
「はい。5名の情報が流れます。
それだけは避けるべきでしょう」
須志は別の資料を開く。
「一方、民間融資の方は“十五億が確約済み”です。
ただし、これは別企業からの融資。
カバラ・ファーマシューティカルとの関連は今のところ未確認です」
院長は短く頷く。
「……政府に渡さず、病院で守る。
そのための場所として隔離病棟を使うのが最善だと?」
「はい。
ヘブンズゲート科の負担も減らせますし、
5名の安全確保にも繋がると考えています」
唯が椅子の背にもたれながら言う。
「要するに、全員の利害が一致してるわけね。
“守るために囲い込む”。
“危険だからこそ、外には出さない”。
そういうことよ」
芽瑠も静かに頷く。
「うん。
本当に危険なら……なおさら、ここで守らなきゃ」
あいかは拳を握ったまま、ゆっくりと言葉を落とす。
「……政府に渡すのは……嫌です。
彼らたちは、私たちが診ています。
責任を放り出したくありません」
院長がようやく結論を下す。
「――隔離病棟計画。
準備を進める」
須志は深く頷いた。
これで方向は決まった。
もう、引き返すことはできない。
【隔離病棟・年間収支計算表(概算)】
■ 前提条件
隔離病棟:旧西棟(既存建物のため建設費ゼロ)
病床数:20床(軽症〜中等症の第二波症例と想定)
売上ゼロ(完全研究・隔離目的)
人件費は最低限の専任チームのみで運用
消耗品・医薬品は第二波/SF設定に合わせた単価に調整
■ 隔離病棟・1年間運営費
(総額:14億9,200万円 → 15億以内で収まる)
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【固定費】
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■ 人件費(専任スタッフ)
・医師 2名(年俸1,800万×2)……………… 3,600万円
・看護師 12名(年俸650万×12)…………… 7,800万円
・臨床工学技士 2名(年俸700万×2)……… 1,400万円
・医療事務 2名(年俸450万×2)…………… 900万円
・清掃/補助スタッフ 4名(年俸350万×4)… 1,400万円
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《小計:1億5,100万円》
■ インフラ維持費
・電力・水道・空調………………………… 3,500万円
・廃棄物処理(医療廃棄含む)…………… 2,000万円
・建物保守点検……………………………… 1,200万円
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《小計:6,700万円》
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【変動費】
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■ 食費(20人 × 1,200円/日 × 365日)
→ **8,760,000円(約876万円)**
■ 医療材料(消耗品・検査キット)
→ 年間 **5億円**
■ 特殊処置関連(EOS対策特殊ジェル等)
→ 年間 **6億円**
■ 防護具(N95、ガウン、手袋等)
→ 年間 **8,000万円**
■ 消耗品(リネン、衛生資材)
→ 年間 **4,500万円**
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【年間総額】
──────────────────────────────
固定費: 2億1,800万円
変動費:12億7,400万円
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**総額:14億9,200万円**
(→ 15億円融資枠でギリギリ)




