第37話 「魅惑の排液ー④」
◇
病院の朝は、まだほんのり眠りの匂いが残っていた。
廊下の照明は半分だけが点り、スタッフの足音もまばらだ。
その薄い空気の中を、緑川唯はゆっくりと歩いていた。
黒いアンダーが胸元からわずかにのぞく。それは前夜、あいかとの電話で軽く決めた色。
同時に、彼女なりの“覚悟の印”でもあった。
更衣室前で待つように立っていた尾美津は、唯に気づくと深く頭を下げた。
目の下には疲労が滲んでいる。
だが、夜中に送られてきたラインの内容を思えば、その動揺は当然だった。
「……唯先輩、おはようございます」
震える声に、唯は一度まばたきをしてから静かに言った。
「大丈夫。後で三人でまとめて話すわ。あなた一人で抱え込む話じゃないもの」
尾美津の表情に、ほんのわずか安堵が浮かんだ。
そこへ、あいかが足早にやってくる。白衣の内側、胸元に落ち着いた黒のラインが見えた。
唯はそれを確認し、片眉を上げる。
「……お揃いね、あいかちゃん?」
「せ、先輩が黒って言うから……赤は病院では、やっぱり無理ですしっ!!」
顔を赤らめながら胸元を押さえるあいかに、唯はくすりともせず、ただ軽く肩を叩いた。
「そういう色の話じゃないのよ。今日のあなたは“覚悟してる人の顔”だから、それで十分」
あいかは姿勢を正し、深く頷いた。
唯は尾美津から受け取ったスマホをあいかへ渡す。
そこには昨夜、尾美津が震える指で打ち込んだメッセージが並んでいた。
コンビニの個室、公園、自販機の影――そしてお美々の姿。
読み進めるあいかの指が途中で止まった。表情の奥で、何かが音もなく軋んだ。
唯は、彼女が声を荒げる前に言葉を置いた。
「動揺してもいい。でも、怒りで動くのは今日じゃないわ」
あいかは口を結び、ゆっくり息を吐いた。
「……ラインを、超えたんですね。お美々は」
「ええ。完全にね。でも、事実が全部見えているわけじゃない。だから――」
唯は視線を落とし、足元の白い床を見た。
「まずは共有。院長、須志次長、芽瑠さん。ヘブンズゲート関係者全員で“公平に”話を聞く。
責めもしない、擁護もしない。ただ事実を整える。それが先よ」
あいかはうつむき、しばし沈黙した。胸の奥に押し込んだ感情は幾つもある。
怒り、悲しみ、困惑、心配。だがそれを言葉にした瞬間、判断が濁るのは分かっていた。
「……分かりました。やります。あの子を責める前に、まずは納得します。全部、聞きます」
唯は満足げに頷き、彼女の肩を軽く押した。
「そのために、揃いの色で来たんでしょう?」
「ち、違いますけど!!」
その瞬間だけ、廊下に小さな笑いが生まれた。
空気がやわらぐのが分かった。唯の狙いはそこだった。重い話ほど、最初の空気が大事になる。
尾美津は二人を見つめ、不安げに問いかける。
「……本当に、お美々先輩を責めたりはしないですよね?」
「責めないわよ」と唯。
「あの子は何か事情があって、ああなったんだと思う。第二波の症状かもしれないし、本人の意思だけじゃない可能性だってある。判断は“話を聞いてから”。それが医療側の姿勢よ」
あいかもうなずく。
「……彼女は仲間です。間違っても、切り捨てたりしません」
三人の間に静かな合意が落ちた。
その時、廊下の奥から職員用端末の通知音が鳴る。
スピーカー越しに流れた短い文言が、ちょうど区切りを作った。
≪カンファレンス室A、朝イチで使用申請あり。ヘブンズゲート科名義≫
唯が端末を見て、小さく笑った。
「……須志次長、もう動いたのね。話が早いわ」
あいかは深呼吸し、背筋を伸ばす。
「……行きましょう。今日、全部確かめるために」
尾美津も緊張で喉を鳴らしながら頷いた。
こうして――
お美々がまだ出勤していない早朝の段階で、
“事情聴取という名のカンファレンス”は確定した。
理由も、証拠も、怒りも、まだ整理されていない。
だが、揃って向き合うという一点だけは、
三人の中で揺るぎなく固まっていた。
◇
朝の空気は冷えているはずなのに、頬の内側だけがじんわり熱かった。
病院へ向かう坂道を歩きながら、私は自分の歩幅がいつもよりほんの少しだけ乱れていることに気づいた。
呼吸は落ち着いているのに、胸の奥だけが妙にざわついている。
理由はわかっている。
昨夜――いえ、今朝まで、佐久間くんと過ごした時間が、
まるで体内の奥に残留熱のように残っているからだ。
公園トイレで2回。
コンビニの個室で1回。
自販機裏で1回。
そして、自宅では0時頃から先ほどの出勤準備まで……もう数える意味すらなかった。
排液という医療用語で処理してしまえば、ただの“発作誘導回数”だ。
けれど、第二波患者特有の 膨張率維持時間の異常延長、射出点の連続化、体内循環量の急回復。
その医学的知識が頭にあるにもかかわらず、昨夜から今朝にかけて起きた現象は、
もはや医療現場の知識では説明しきれなかった。
そもそも、1回とはどこで区切るのだろう。
排液が終わった瞬間か。
膨張度が一時的に低下した瞬間か。
あるいは、患者が自発的に“次の波”を求めたタイミングか。
昨夜の佐久間くんには、その三つがほとんど重ならなかった。
低下した、と思えばすぐに再膨張し、
排液直後にも関わらず筋電図的には活動性が落ちず、むしろ上昇。
第二波の症例報告書では“高反復性排液反応”と分類される現象
――けれど私は、医療者でありながら、
それを超えた“勢い”に、自分が呑まれていくのを止められなかった。
問題は、彼が異常なのではないということだ。
私自身も、同じだけ反応していた。
排液誘導の補助動作をしたわけではない。
けれど、彼の波に引き込まれるように、私の呼吸は乱れ、
筋張力は上昇し、皮膚温は平常より1.2度上がっていた。
医学的に言えば、交感神経過緊張状態の持続。
けれど、昨夜の私は、それを“止めるべき兆候”として認識しなかった。
むしろ逆だった。
(……私、こんなだったんだ)
頬がまた熱くなる。
通勤道の交差点で信号待ちをしながら、私はカバンの持ち手をぎゅっと握った。
あんな関係、続けていいはずがない。
医療者と患者。
しかも相手は自衛官で、国家治療枠の症例データ対象者。
もし唯先輩が見たら。
もし、あいか先輩が知ったら。
絶対に怒られる。
正しく叱られる。それも、徹底的に。
――だけど。
(相談……しなきゃ、だめだよね)
今の私は、自分で判断できる状態じゃない。
昨夜も今朝も、境界が曖昧になりすぎている。
職業倫理と個人的感情の線引きが、ひどく薄くなっている。
唯先輩に相談すれば、口は悪くても絶対に守ってくれる。
あいか先輩なら、涙目になりながらも必ず私の味方になってくれる。
――二人とも、私にとって“支えの先輩”なのだ。
病院の建物が視界に入り始める。
ガラス張りの正面玄関が朝日を反射し、ぎらりと白く光った。
(今日、話そう。今日しかない)
自分に言い聞かせて歩幅を整えた瞬間、ふと太ももに残る微弱な筋疲労が蘇った。
医学的に言えば、昨夜の反復刺激による局所的筋束疲労。
けれど、そこに痛みはなく、ただ温かい余韻だけがあった。
それがまた、頬を赤くさせる。
(……ほんとに、私、何やってるんだろう)
玄関扉の前に立つ頃には、胸の奥のざわつきは少し落ち着いていた。
自分を誤魔化さず、今日を迎える。
そう決めただけで、足取りがほんの少しだけ軽くなる。
自動扉が開き、冷たい室内の空気が頬へ触れた。
(唯先輩、あいか先輩……頼りにしてます。ほんとに、もう)
私は胸元のIDカードを指で整え、ヘブンズゲート科へと歩き出した。
~おまけ~ 〈唯とあいかの更衣室・黒い天使の会話〉
更衣室に二人きり。
ロッカーの金属が朝の冷気をほんの少し残している。
制服を肩から落としながら、唯がふと視線を横に流した。
唯「……ねぇ、あいかちゃんのほうが黒が似合うわね?
ほんと、生まれつき“黒担当”って顔してる」
あいか「ちょ、ちょっと唯先輩!?
先輩だって白ばっかり着てるくせに……
しかも、何故かいつも光ってるじゃないですか」
唯「光?」
唯は自分のブラのカップをつまんで持ち上げる。
唯「シルクの反射じゃない?」
あいか「先輩……病院でシルクの反射とか……
そういう“艶”いらないんですよ……(汗)」
唯「黒上下のGπに言われたくないわね!?
ほら、それ。それが反射してるんじゃないの?」
あいかは白衣を持ったまま、
じとーっとした目で唯を見つめた。
唯「……なによ、その目は」
あいか「唯先輩。正直に言ってくださいね。
患者さんと……遊んだこと、ありますよね?」
唯の口元が、悪い意味で美しく曲がった。
唯「たまには良いものよ?
相手の“回復力”、医学的にも興味深いし」
あいか「唯先輩!!!
お美々が聞いたら泣きますよ!?
あの子、ああ見えて自分には厳しい子なんですから!」
唯「バレたのはお美々ちゃんのミスよ。
医療従事者はミスしちゃいけないのよねぇ〜?」
あいか「うわぁ……最低だ、この先輩……」
唯が白衣のボタンを留めるあいかの横顔をちらりと見る。
唯「最低といえば……
あいかちゃんも“手首同等くん”と最近妙に仲良いじゃない?」
あいかの手が止まり、視線が宙を彷徨う。
あいか「……バレなきゃ、いいんですよね?」
唯は即答した。
唯「あなたも最低ね〜」
二人、同時に吹き出す。
笑いながら、
**黒い“戦闘装備”**を整えた二人は
その上から白衣を羽織った。
黒を隠す天使の白衣。
白衣で包む黒い覚悟。
二人の横顔には、どちらも似合っていた。




