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第36話 「魅惑の排液ー③」

物語には、語ろうと思えば語れてしまうことがいくつもあります。

出来事の整理や、章と話数の切り分けも、その一つです。


今回は、二つほどの要素が同じ回の中に置かれています。

それらがどこから来て、どこへ続くのか。

あえて詳しくは示していません。


すべてを説明することが、

この回にとっては少しだけ無粋になると考えたからです。


読んでいる途中で、

「これは以前にも触れられていた気がする」

「少し混ざっているように感じる」

そんな感覚を覚えるかもしれません。


その違和感は、間違いではありません。

今回の話は、理解させるためではなく、

気づいた人の中に残る余白として置かれています。


すでに通り過ぎた場面にあった点や、

まだ線になっていない出来事が、

ほんのわずかに触れ合っています。


今ここで答えを見つける必要はありません。

ただ、引っかかりだけをそのまま持って、

静かに読み進めていただければと思います。

 翌朝の院長室は、朝日の薄い光が静かに差し込み、まだ人の気配の少ない空気が漂っていた。前夜の喧騒が嘘のように、病院は落ち着きを取り戻している。須志は資料を抱え、ゆっくりとノックした。


「入ってくれ」


 院長の声は早朝らしく低い。須志は一礼して部屋に入り、昨日まとめ直した資料を机に置いた。


「……例の件だな。話を聞こう」


 促され、須志は報告を端から静かに並べ始めた。


 昨日来院した民間企業――カバラ・ファーマシューティカルの営業担当。

 排液の買い取り希望、研究名目、価格は相当高く、廃棄物が収益に変わる点は魅力的であること。

 営業は“研究利用”とだけ繰り返し、具体的な用途には触れなかったこと。


 院長はまばたきを一つ挟んだだけで無言のまま聞き続けた。


「……で、現場の反応は?」


「芽瑠とあいかは、強く反対しました。倫理以前の問題だ、と。唯は明確な賛否はなく……興味を示さないというか、情報として受け取るだけ、という印象でした」


 院長は椅子の背に身体を預け、軽く息を吐いた。


「……芽瑠が反対したのは当然だな。あの立場では、むしろ反対しなければ問題だ」


 院長の視線が窓に向く。


「須志くん、知っているだろう。芽瑠は厚労省系の研究機関から正式に派遣されてきた研究者だ。倫理違反を一つでも疑われれば――」


 院長は指先で机を軽く叩いた。


「当院は、一瞬で飛ばされる」


 須志は深く頷く。

 芽瑠は“個人”ではなく“組織としての目”だ。

 彼女が「NO」と言えば、それは厚労省の「NO」と同義になる。


「病院経営としては、排液の買い取りは魅力がある。廃棄コストの削減、収益化、そのどれも悪い話ではない。だが……」


 院長は資料に目を落とし、静かな声で続けた。


「倫理を無視して進めることだけは、絶対に許されない。ここで一度でも道を誤れば、病院の信用は戻らない」


 須志は、資料の端を指で押さえながら返した。


「いったん棚上げにし、時間を稼ぐ判断でよろしいですね?」


「一〜二か月でいい。状況が固まるまで“判断しない理由”を作りたい」


「可能です。こちらで調整します」


 院長は満足げに小さく頷き、それから声の温度を少し変えた。


「……結局のところ、優先すべきは“資金繰り”だ」


「はい。まずはそちらを固めます」


 ふたりの言葉は短いが、その裏にある現実は重かった。


 排液の買い取りは、魅力も危険もセットで転がってくる。

 第二波の全貌が見えない中、軽々に判断できるものではない。


 院長室の朝の光が少し強くなり、書類の縁を白く照らした。


 須志は深く一礼し、扉へ向かった。

 院長と“判断保留の合意”を取り付けたことで、須志はようやく一〜二か月の猶予を確保した。

 あとは――動く番だ。


 ◇


 尾美津は、久しぶりに自分の無力さに撃ち抜かれていた。


 特異体質――“起点に触れれば状態が読める”能力。

 空港封鎖の混乱でも、第一波の処置でも、あれは確かに役に立った。

 けれど相馬原駐屯地の五名だけは違った。

 握っても、反応が返ってこない。温度も、負荷の揺らぎも、何も読めない。


 「……私、ほんとに出来なくなったのかな」


 小さく呟いた声を、すぐ横で唯が拾った。


「出来なくなったんじゃないわよ。向いてる場所で使えばいいだけ」


 唯はあっさり言って、尾美津の肩を指で軽くつついた。


「ほら、テントがまだ稼働してるでしょう? あそこはあなたを必要としてる。五人に効かないからって万能じゃなくなるわけじゃない」


 尾美津は小さく頷いた。

 確かに、空港封鎖で使われた仮設テントは今も軽症患者の外来として動いている。

 そこに来る患者たちには、あの“握るだけで分かる”能力は今も役に立つ。


「……行ってきなさい。ローラー作戦よ。ひとりじゃ無理。ナースみんなでやるの」


「……はいっ」


 唯の明るい叱咤は、不思議な安心感があった。


 ~~~


 その日の退勤後。

 テント業務を終えて喉が渇いた尾美津は、病院近くのコンビニへ寄った。


 扉が開くと、見慣れた後ろ姿が目に入った。


 ――お美々先輩?


 その隣に立っていたのは、相馬原駐屯地の若い隊員、佐久間恒一。

 現場で何度も顔を合わせた人物だ。


 尾美津は声をかけようとして、足を止めた。

 ふたりが並んで入った場所は、コンビニのトイレだった。


(え……排液トラブル?)


 第二波以降、症状が読めないケースが増えている。

 自衛官の彼なら尚更、どんな急変があってもおかしくない。


 ナースがひとりで対応すれば誤解も生まれかねない。

 自分も入るべきか――そう迷ってトイレの前に立った瞬間だった。


 室内から、何かが壁に当たる鈍い音がした。

 続いて、ひどく息を呑むような、切れ切れの甘い声。


 それがお美々のものだと気づくのに、数秒かかった。


(……これ、処置じゃない)


 尾美津の背中に冷たい汗が落ちる。

 排液誘導で聞き慣れた反応音ではない。

 負荷や痛みの声でもない。

 あまりに生々しくて、判断が追いつかない。


 周囲に人がいないか確認する。

 幸い、買い物客はほとんどいない。

 だが、個室の中の気配はむしろ強まっていく。


 壁に当たる音。

 床を擦る靴の音。

 短い会話がこぼれ、すぐにまた沈黙に飲まれる。


「……っ」


 尾美津はもうそこに立っていられず、店を飛び出した。


 ~~~


 外の空気は冷たい。

 震える指先を押さえながら遠ざかろうとしたその時、背後で自動扉が開いた。


 佐久間が出てきた。

 少し遅れて、お美々も足早に店を出る。

 買ったばかりの飲み物を握りながら、視線は落ち着かず、頬は熱の余韻のように赤い。


 尾美津は見つからないよう距離を取り、ついていった。

 “少しだけ”――そう言い訳しながら。


 ふたりは自販機の前まで歩き、なぜかその裏へ消えた。


(こんなところで……? 何してるの……?)


 覗き込んだ瞬間、尾美津は反射的に口元を手で覆った。


 自販機に手を添えて身体を支えるお美々。

 その背後から、佐久間が彼女の腰にそっと手を回した。

 姿勢も動き方も、排液処置のそれとはまるで違った。


 完全に理解が追いつかない。

 いや、理解したくなかった。


 尾美津は逃げるように踵を返した。


 ~~~


 自宅に戻ると同時に、涙が滲むほどの混乱が押し寄せた。

 枕元のスマホを掴み、唯に電話をかけるが深夜零時前。

 応答はなかった。


 代わりに震える指でメッセージを打ち始める。


 ――今日、見たことをまとめて送ります。


 それだけを残し、尾美津は長い呼吸を吐いた。

 胸の奥のざわつきは、まだ静まらなかった。



 ◇



 朝の五時。

 病院の呼吸がまだ深い眠りの底にあるその時間、

 緑川唯は、自分のベッドの上で“いつもの儀式”を発動させていた。


 全身の血がまだ地球に馴染んでいないのかと思うほど、ぴくりとも動かない。

 目を開けた状態のまま、ベッドの上で石像化すること三十分。

 彼女はこれを“寝起きの調整運転”と呼んでいる。


 勤務中は軽快で、患者相手でも容赦なく

 「はい、抜きなさいっ!!」

 と笑顔で指示を飛ばす唯だが――


 寝起きだけは、世界で一番の低血圧生命体 だった。


 ~~~


 三十分後。

 唯の指先が、ようやくこの世界の重力を思い出したように動く。


 そのままシャワーへ直行。

 熱めの湯を浴び、濡れた髪を後ろでまとめ、

 冷蔵庫からブラック缶コーヒーを取り出す。


 ぷしゅ、と缶を開け、半分ほど一息に飲む。


「……っはあ。生き返るわぁ……」


 続いて、首を左右にコキコキッ。

 腰を伸ばし、肩を回し、足首をひねり、ひと通りの柔軟を終える。


 ようやく“緑川唯モード”が起動する。


 時計は六時半。


 彼女は洗面所の鏡の前で目をぱちりと開き、

 スマホを持ち上げた。

 そこには、夜中に尾美津から届いた長文メッセージ。


 唯は一度読み、二度読み、三度読んでから、

「ふうん」と小さく息を吐いた。


 驚愕でも怒りでもない。

 極めて冷静に全体を把握する、彼女特有の“分析の息”だ。


「……お美々ちゃん、完全に越えちゃったわねぇ……」


 ぽつりと呟き、すぐに行動へ移る。

 尾美津ではなく、まずは――あいかに電話した。


 ~~~


 コール一回。


 「……はい、あいかです……あの……まだ六時……」


「あいかちゃん、おはよう。今日ね、私も“黒”にするわ。お揃いね♪」


 受話口の向こうで、

 叫び声にも似た何か が爆発した。


「ま、待ってください唯先輩!?ゆ、唯先輩が黒なら……じゃ、じゃあ私は……赤です!!」


 唯は目尻を下げ、声を立てずに笑った。


(ああ、かわいいわねこの子……)


 何に張り合っているのかは誰も分からない。

 ただ、あいかは“勝負モード”に入ると色で殴りかかる癖がある。

 そして唯は、それを弄るのが趣味になりつつあった。


「赤はどうかと思うけどねぇ。

 ま、そこはあなたの感性に任せるわ」


「あのっ!唯先輩!急に黒とか言いだすから……っ」


「理由は簡単よ」


 唯は声を落とし、真面目なトーンに切り替えた。


「お美々ちゃんがね。昨夜のうちに、ラインを超えたわ。

 詳しくは病院で話す。でも……赤はやめた方がいいと思うのよ?」


「……な、なにがあったんですか!?お美々、何を……!?」


「じゃ、支度してね。後で」


 唯は一方的に電話を切った。


 おそらく今ごろ、あいかは悲鳴を上げてベッド周りを走り回っているだろう。


 しかしそれでいい。

 あいかは感覚派だ。

 “何かが起きた”という気配さえ伝われば、

 あとは自分で組み立てる。


 ~~~


 唯はコーヒーの残りを飲み干し、深く息をついた。


「……第二波。ほんとにいやらしい出方してくるわねぇ」


 お美々の越境、

 尾美津の動揺、

 佐久間の異常な回復、

 数値の均一化、

 排液量の収束。


 すべてが一本の線になりつつある。


 唯は、緑川唯という人間の強み――

 場の空気を読む力 を静かに立ち上げた。


 今日、ヘブンズゲート科は“何か”に触れる。


 彼女はそれを確信しながら、出勤の準備を始めた。



 ◇



 朝のオフィスビルに、人の気配はなかった。

 照明は自動で立ち上がっているのに、電話の光もパソコンの唸りもない。

 定時前の静けさにしては、少し“均一すぎる沈黙”だった。


 その中で、ひとつだけ動きがあった。

 営業マンが手に書類ケースを持ってエレベーターを降り、

 無人のフロアをまっすぐ奥の部屋へ向かう。

 まるで、そこに誰かがいるのが当然だという歩き方だった。


 ドアを開けると、上司がすでに席にいた。

 外のフロアとは異なり、ここだけは空調がわずかに揺れ、

 紙がめくれそうなほどの微細な気流があった。


 「おはようございます。ご報告があります」

 

  上司は軽く頷く。「報告をお願いします」


  促す声は静かだった。


 「昨日、病院側と接触しました。

 須志有喜は買い取り案に前向きです。

 廃棄物に価値がつく点を評価しています。

 ですが――」


 営業マンは一呼吸置く。


 「森乃芽瑠と五鈴あいかが強く反対しました。

 倫理面と、公務員である自衛官のデータ利用を理由に。

 議論は長引きましたが、最終的に“保留”で一致しました。

 意見の整理役は緑川唯でした。彼女が場を落ち着かせた形です」


「芽瑠は反対すると読んでいたが、あいかも同じだったか」


「はい。二人とも一歩も引かず、むしろ現場側の主張として最も強かったです」


「……そうか。五鈴の娘は反対したか……ならば、今は動くべき時ではない」


 「利益」ではなく「原理」を優先する二人の姿勢を、

 彼は簡潔に伝えた。


 上司はしばらく黙って聞いていた。

 喜んでいるのか、失望しているのか、

 表情の輪郭が読むほどの変化を見せない。


 やがて、口角だけがほんの少し動いた。


「……よくやった。

 我々は止めない。壊さない。ただ、見届ける。

 それが“祈りに正しい”やり方だからな」


 営業マンは頷いた。

 その言葉は叱責でも称賛でもない。

 ただ、合図のように受け取られるものだった。


「いずれ、あの病棟に世界がひざまずく日が来る。

 その時まで、静かに熟すのを待てばいい」


 フロアの静けさが、まるで呼吸を止めたように深まる。

 ビル全体が彼らの言葉を吸い込んでしまったかのようだった。


 上司が天井を見上げた。

 営業マンも自然とそれに倣う。

 まるで何かがそこに“在る”と知っている者たちの動きだった。


「彼女らはまだ気づかない。

 自らが“門を開く者”であることに」


 二人の声は重なり、静かに落ちた。

 その瞬間だけ、無人のはずのフロアが

 ほんの一拍だけ“息を吸った”ように感じられた。


 理由は分からない。

 けれど、それは確かに感じられた。

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