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第34話 「魅惑の排液ー①」

ヘブンズルームの内部は、いつもと変わらぬ整った空気に包まれていた。

相馬原駐屯地での定期健診と排液処置は、すでに「業務」として滑らかに回っている。

自衛官募集枠の五名は、決められた時間に現れ、決められた動線で入り、

決められた手順で処置を受ける。その一連の流れに、緊張はない。


数値はすべて安定していた。

膨張率は軽症域、回復も教科書通り。

ログに並ぶ曲線は、相変わらず整いすぎているほど整っている。

あいかはモニターを確認しながら淡々と頷き、次の工程へ視線を移す。

その背後で、お美々は手早く準備を進めていた。


佐久間恒一だけは、少し扱いが違っていた。

特別扱いというほど露骨ではない。ただ、ほんのわずかな緩み。

手順は同じ、数値も同じ。だが、お美々の動きには、確認の一拍が省かれている箇所があった。

普段なら必ず入る間。指差し。再確認。そのいくつかが、自然に消えている。


それでも問題は起きない。

数値は安定し、反応も軽い。

あいかは隣でそれを見ていたが、違和感を拾わなかった。お美々を信頼している。

基地での検診は常に二人一組で行ってきたし、彼女が手順を外すとは考えもしなかった。

手袋の有無に至っては、意識にすら上らない。たとえそれが素手でも…。


「おはようございます、あいかさん、お美々さん」


佐久間は今日も礼儀正しかった。姿勢は崩さず、声の調子も穏やかだ。

処置台に横になりながら、挨拶代わりのように軽口を叩く。


「今朝も調子いいですよ。あ、そうだ……

 高坂さんが、あいかさんじゃないと、排液出ないって言ってました」


冗談めかした言い回しに、あいかが小さく笑う。

「はいはい、そういうのは本人が私に言ってください」


お美々も、いつもの調子で肩をすくめた。

場の空気は和み、処置は滞りなく終わる。数値に異常はない。ログにも、問題は一切残らない。


片付けに入る直前、佐久間が身を起こし、あいかの耳には届かない距離までお美々に近づいた。

声も、意図的に落とされる。


「トイレで待ってるから、早く来いよ」


命令口調だった。

年下の隊員が投げるには、明らかに馴れすぎた言葉。それでも、お美々は咎めなかった。

むしろ、口角をわずかに上げて、小さく頷くだけだ。


その瞬間、彼女の胸の奥で、相談すべきだという理性が微かに頭をもたげる。

あいかに。唯に。

だが、その声は長く続かない。


佐久間の異常なほどの体力。夜になっても衰えない軽さ。

それを受け入れてしまった自分自身が、すでに境界を曖昧にしていた。

傲慢な言葉を投げられても、笑顔で返してしまうほどに、彼女は彼に馴染んでいる。


あいかは、変わらず次の準備に目を向けている。

何も問題は起きていない。

数値も、工程も、すべて正しい。


ヘブンズルームの中で、静かに、見えない線だけが一つ、踏み越えられていた。



須志有喜が再び端末を開いたのは、国庫側からの次の通知を待つためではなかった。

 内部検討に回った案件は、返答が来るまで動かない。その間にやるべきことは、国庫が「動かざるを得なくなった時」に即座に噛み合う下地を整えておくことだ。


 彼は、先ほど送った資料と同一の数値を使い、別名義の補助資料を作り始めた。

 受け入れ人数、処置回転数、Stage構成比。数字は一切変えない。変えるのは、配置と見せ方だけだ。

 これは虚偽ではない。だが、目的は説明ではなく接続だった。


 須志が組み直したのは、「非常対応」と「恒常運用」の境界線である。

 国庫の内部処理では、この境界が最も重く扱われる。一度恒常に分類されれば、予算は硬直し、撤退には政治判断が必要になる。逆に、非常対応の枠に置き続ければ、額は小さいが柔軟性は保たれる。


 彼は、あえて後者に寄せた。

 終わらせないためではない。止められる余地を残すためだ。


 次に須志が確認したのは、国庫側の内部決裁ルートだった。

 正式な回答が来ていない以上、表の窓口は動かない。だが、内部留保を扱う部署は別だ。彼は、過去に同様の扱いを受けた案件を洗い出し、どの段階で誰が「準備」と判断したかを追っていく。


 共通点は明確だった。

 危機が顕在化する前。

 数値が改善している最中。

 現場が「落ち着いている」と評価されている時期。


 須志は、その条件を一つずつ資料に落とし込む。

 混乱は書かない。逼迫も書かない。

 代わりに、「回っている」「維持できている」「再現性がある」という言葉を並べる。


 国庫は、失敗よりも成功を恐れる。

 成功が続く案件は、止めた時の責任が曖昧になるからだ。


 しばらくして、端末に短い通知が表示された。

 国庫担当者からの、正式ではない更新だ。


 ≪内部留保枠について、一次確認完了≫

 ≪金額は調整中≫

 ≪用途は“準備費”として仮置き≫


 須志は即座に返信しなかった。

 用途を仮置きにしたという一文で、必要な情報はすべて含まれている。これは承認ではないが、否定でもない。金はまだ動かないが、棚に載った。


 彼は、次に送る文面を慎重に整える。

 ここで要求を出せば、案件は重くなる。

 だから、要求は出さない。


 ≪確認しました≫

 ≪当方からの追加要望はありません≫

 ≪状況変化があれば共有します≫


 それだけ返す。

 主導権を握ろうとしない。

 動かすのは、相手だ。


 須志は端末を閉じ、資料フォルダを整理した。

 この時点で、国庫資金は「使える金」ではない。

 だが、「存在しない金」でもなくなった。


 それで十分だった。


 現場が判断を迫られた時、

 「金がないからできない」という理由を、少なくとも一度は回避できる。

 その一度が、次の選択肢を生む。


 須志有喜は、自分が前に出る役ではないことを理解している。

 彼がやっているのは、決断の速度を落とすための作業だ。

 速すぎる判断は、正しくても誰かを潰す。


 国庫との資金繰りは、まだ途中だ。

 結論は出ていない。

 だが、流れは作った。


 須志は端末をシャットダウンし、椅子から立ち上がる。

 この夜、何かが大きく変わるわけではない。

 ただ、次に変わる時の選択肢が、一つ増えただけだ。


 彼はそれで足りていると判断し、静かにブースを後にした。



 ◇


 排液処置が一段落し、端末の数値が安定域に戻ったのを確認してから、お美々は名札を伏せた。

 休憩は三十分。短いが、十分だと自分に言い聞かせる。


 基地内の通路を、足音を殺して進む。

 角を曲がった先、トイレの前で佐久間が腕を組んで待っていた。

 視線が合った瞬間、彼はわずかに眉を寄せる。機嫌が悪いのが、分かりやすすぎて可笑しかった。


「ごめんね。お待たせ」


 お美々はいつもの調子で笑い、彼の手を取る。指先が絡むと、佐久間の力が少しだけ強くなる。

 言葉は要らなかった。二人で個室に入り、扉を静かに閉める。


「なー。排液処置って、あれ回数決められてるの?」

 低い声。近い距離。

「あと、二回くらいしてほしいんだけど」


「うん。一応ね……」

 お美々は息を整えながら答える。「三回で、みんな同条件。データ取るから」


 彼は小さく舌打ちして、壁に背を預けた。

 お美々は視線を外し、身だしなみを整える。

 

 白い布地の端を指で押さえ、動きやすいように前を緩めるだけ。

 仕事の延長線、その言い訳が必要な仕草だった。


 基地のトイレは清掃が行き届いていて、白い壁面が音を吸う。

 お美々は一瞬だけ呼吸を整え、時間を頭の中で区切った。

 三十分。削れる余白は、もうほとんどない。


 「休憩三十分しかないから、手早く。ごめんね。夜なら、朝まで。……ね?」


 言葉は段取りで、約束だった。

 佐久間は短く息を吐き、返事の代わりに距離を詰める。お美々は反射的に壁へ向き直る。

 視線を外し、余計な思考を切るための癖だった。


 お美々は壁に両手をつき、反射的に自分の口を押さえて、こぼれそうな息を喉の奥に沈めた。

 音にしない。それだけが最優先の判断になる。


 外では誰かの足音が遠ざかる。

 ここが基地の中だという現実が、逆に時間を圧縮する。秒針は聞こえないのに、進み方だけが速い。




「……戻るね」

 囁きは合図だった。長引かせない。区切る。仕事へ戻る。


 数分後、お美々は名札の向きを確かめ、制服の襟を整える。呼吸はもう乱れていない。

 切り替えは、彼女の仕事の一部だった。

 佐久間は扉の前で一瞬だけ立ち止まり、視線を向ける。


 「夜な」

 それだけ言って、先に出る。


 お美々は一拍置いてから個室を出た。

 通路の明るさに目が慣れる。時計を見る。まだ余白はある。

 だが、戻るべき場所は決まっていた。


 処置区画へ。

 今日のデータは、まだ続いている。

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