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第33話 「第二波到来ー⑤」

 研究室の照明は、夜間用の設定に落とされていた。

 白すぎず、暗すぎず、数値と文字だけが正確に浮かび上がる明るさ。

 芽瑠はこの光を好んだ。感情を誘発せず、判断を誤らせない。


 端末を三台並べ、同一データを別形式で表示する。

 時系列、平均との差、分散推移。

 五名分のログが、同時に、ほぼ同じ傾きを描いていた。


 回復が早い。

 だが、それ以上に問題なのは、その早さが揃っていることだった。


 個体差は必ず存在する。年齢、体格、生活習慣、心理状態。

 臨床では、それらが必ずノイズになる。ところが今回、そのノイズが削られている。

 意図的に整えたかのように。


 芽瑠はペンを走らせ、グラフの立ち上がり点に印を付けた。


 研究者の世界では、「結果がきれいすぎる」ことは警戒対象だ。

 これは彼女の経験則だ。


 実験でも臨床でも、理論通りの結果が出ることはある。

 だが、再現性が高すぎる場合、そこには未観測の変数が存在する。

 温度、湿度、測定者の癖、被験者の期待値。

 どれか一つが隠れているだけで、結果は“揃って見える”。


 芽瑠は、今回の回復曲線を「異常」とは呼ばなかった。

 まだその段階ではない。

 ただし、「偶然」として片づけるには、条件一致が多すぎる。


 処置者、手技、器材、ジェルロット、排液量。

 どれも統制されている。

 それでもなお、揃いすぎている。


 芽瑠は、ログの付帯情報を一つずつ確認し、チェックを入れていく。

 消去法で残るものは、まだ名前がついていない要素だけだった。


 研究職としての癖が、ここで顔を出す。


 研究者は、原因が分からない現象に対して「判断」を急がない。

 代わりに行うのは、観測項目の昇格だ。

 一時的な変動として扱っていたものを、定常観測に移す。それだけで、扱いが変わる。


 芽瑠は回復速度のラベルを書き換えた。

 「一過性」から「継続観測」へ。


 結論は出さない。

 だが、見逃さない。


 この段階で仮説を立てるのは、研究としては未熟だ。

 仮説は、観測を歪める。

 特に、数値が美しいときほど。


 芽瑠は椅子の背にもたれ、短く息を吐いた。

 窓の外では、病院の灯りが規則正しく並んでいる。どれも同じ色で、同じ強さだ。


 現象は、まだ静かだ。

 拡大もしていない。

 悪化もしていない。


 だからこそ、危険だ。


 研究者としての芽瑠は、ここで一つだけ決めている。

 観測を止めない。


 それ以上の判断は、まだ要らない。

 今はただ、現実を正確に記録し続けるだけでいい。


 それが、研究職に求められる誠実さだと、芽瑠は疑っていなかった。


 ◇


 夜の研究室は、昼間よりも音が多い。

 空調の低い唸り、冷蔵庫のコンプレッサーが一拍遅れて返す振動、

 端末のファンが回転数を上げ下げする微かな気配。

 それらが一定のリズムを刻んでいると、芽瑠の思考もまた、研究者としての速度に戻っていく。


 佐久間のログを開く。排液三回。基準量。時間。戻り。どれも教科書通りだ。

 にもかかわらず、回復の立ち上がりが異様に早い。本人の主観評価も一致している。

 疲労感なし。集中力の持続。睡眠時間の短縮に対する耐性。


 芽瑠は指先でグラフをなぞる。数値が嘘をついていない以上、現象は存在する。

 問題は、その説明が既存の枠に収まらないことだった。


 次に高坂のデータ。常時サイズと負荷時最大の乖離。循環負荷の増大。周囲径の拡張率。

 単なる量的増大ではなく、維持時間と戻りの遅さが目立つ。

 痛みの訴えはない。主観は「問題なし」。


 芽瑠は専門医への相談メモを立ち上げる。循環系への影響評価。心拍変動との相関。

 長時間負荷時のリスク。言葉は淡々としている。

 研究者として、まず事実を渡す。それが彼女の癖だ。


 だが、画面を閉じた瞬間、別の思考が忍び込む。

 佐久間は三回。自分で五回。高坂は常時から最大二十センチ、周囲十五センチ。

 数字として書けば中立だが、身体像として思い描くと、頭の奥が一瞬だけ熱を持つ。

 芽瑠は小さく首を振る。違う。これは評価ではない。比較だ。条件整理だ。

 研究者として当然の作業だ。


 夜中の研究室で、一人。

 彼女は無意識に自分の手首を握った。骨の位置、皮膚の張り、血管の走り。

 基準を身体で取る癖が出ただけだ。

 ……手首並み、か。


 唯の声が脳裏をかすめる。「私は大丈夫よ?」

 芽瑠は眉を寄せ、もう一度、自分の手首を見る。

 大丈夫、の基準が何を指しているのか、急に分からなくなる。循環? 負荷? それとも――。


 端末に視線を戻し、深呼吸。

 専門医に相談する。正しい。客観で詰める。主観は切り離す。

 そう決めたはずなのに、数式の端で、妄想が勝手に増殖する。


 ……八回?

 合計八回?

 それって、研究対象の話だよね? 自分の話じゃないよね?


 芽瑠は頬が熱くなるのを自覚し、慌てて立ち上がった。

 椅子が静かに鳴る。


「ちがう、ちがう」


 誰もいない研究室で、小さく呟く。

 画面には、冷静なログ。手元には、自分の手首。

 芽瑠は一拍置いてから、端末をロックした。


「……明日、ちゃんと相談しよ」


 そう言って、照明を落とす。

 最後まで残ったのは、専門医へのメモと、なぜか消えない「手首」という単語だけだった。


 ◇


 須志有喜は、院内の照明が完全に夜間モードへ切り替わったのを確認してから、

 事務局フロアの奥に入った。

 この時間帯に動く理由は一つだ。記録に残らない余白を、意図的に使うため。


 彼が向かったのは、通常の会議室でも執務室でもない。

 非常用として確保されている小規模ブース。遮音性が高く、端末は限定回線にしか繋がらない。

 須志は椅子に腰を下ろすと、まず一つ目の端末を起動した。


 最初に用意するのは、正規の数字だ。

 受け入れ人数、Stage別比率、処置回転数、廃棄物量、消耗品使用率。どれも誤魔化さない。

 誤魔化せば、後で必ず矛盾になる。

 彼は淡々と入力し、グラフを整えた。


 次に二つ目の端末。

 こちらは継続計画用。

 同じ数字を使うが、意味づけを変える。

 現状は「非常対応」だが、国庫が見るのは「持続可能性」だ。

 須志は項目名を打ち替えた。


 ──短期集中処置体制

 ──動線最適化による処理能力向上

 ──現場判断の均質化


 どれも事実だ。だが、未来を示す言葉に置き換えている。


 三つ目の端末を開く。

 ここからが本題だ。


 国庫への融資申請は、表向きには「医療機関支援枠」に分類される。

 だが実際には、災害対応・国家安全保障に準ずる扱いだ。

 須志は、窓口コードを確認した。

 正式名は伏せる。だが、相手が誰かは分かっている。


 まず必要なのは、理由ではない。

 国庫は感情に動かない。求めるのは、「止めた場合の損失」と「続けた場合の回収可能性」だ。


 須志は新しい文書を作成した。


 ──現行体制を停止した場合、再構築に要する時間

 ──患者数再増加時の医療崩壊リスク

 ──現場人員の再招集コスト

 ──国際的信用への影響


 指は止まらない。

 これは彼の専門領域だ。医療ではない。だが、医療を支えるための計算だ。


 数値を置き、仮定を添え、条件を限定する。

 「最悪の場合」を想定し、その回避に必要な最低額を算出する。

 額は大きい。だが、非現実的ではない。


 須志は一度、画面から目を離した。

 窓の外には、夜の病院。救急灯の点滅が一定の間隔で続いている。


「……いいんだな」


 誰にともなく呟く。

 これは正式な承認を経ていない。

 理事会も、政府の委員会も通していない。

 だが、今ここで動かなければ、後では間に合わない。


 端末が、接続完了を示した。

 国庫担当者のIDが表示される。

 音声は使わない。テキストのみ。


 ≪確認しました≫

 ≪非公式照会として受領≫


 須志は即座に返す。


 ≪継続前提の準備です≫

 ≪正式申請は、状況を見て切り替えます≫


 数秒の間。

 既読表示が出る。


 ≪理解しました≫

 ≪一点、確認≫

 ≪これは“一過性”ではない、という認識ですか≫


 須志は、指を止めた。

 正解は分からない。だが、選択は必要だ。


 ≪現場は、すでに“次”に入っています≫


 それ以上は書かない。

 含みを残す。それが、この世界の合図だ。


 返答は短かった。


 ≪条件付きで、内部検討に回します≫


 須志は、深く息を吐いた。

 ここまで来れば、引き返せない。


 彼は最後に、全端末のログを保存し、電源を落とした。

 公式記録には残らない。だが、動きは始まった。


 立ち上がり、ブースを出る。

 廊下の先で、夜勤の足音が遠ざかっていく。


 須志は歩きながら思う。

 現場は回りすぎている。

 だからこそ、金が要る。


 これは暴走ではない。

 先行投資だ。


 そう言い聞かせるように、彼は静かな病院の奥へ消えていった。

「もしも、事務局総責任者が“やらかす”としたら」


中規模病院の財務・経理を熟知した事務局総責任者は、数字の流れを読む力に長けている。

だから不正は、派手ではなく地味に始まる。最初は“調整”だ。

年度末、数百万円のズレを「来期で相殺」と言って丸める。

次は“立替”。急な支払いを個人で肩代わりし、返金のタイミングが曖昧になる。

ここまでは誰も眉をひそめない。


問題は、**説明がうまい人ほど“説明しなくなる”**ことだ。

「その勘定は特殊」「ここは私が見ます」

気づけば、承認が集中し、チェックが形骸化する。会計ソフトは正しい。帳尻も合う。

だが、質問が減る。これは赤信号だ。


次に増えるのは“名目”。

「調査費」「調整費」「雑費」

魔法の言葉は便利で、誰も中身を聞かない。請求は少額、回数多め。

コーヒー一杯の値段が、いつの間にか毎月の習慣になる。

コミカルに言えば、病院の血流に、砂糖水を混ぜるようなものだ。甘くて気づきにくい。


そして最も厄介なのは、忙しさ。

「今は現場が大変」「監査は来月」

善意の合言葉が、確認を先送りにする。彼は悪人ではない。むしろ“役に立つ人”だ。

だからこそ、誰も止めない。止める理由が見当たらない。


だが兆候は残る。

・特定の取引先が増える

・説明資料が簡素になる

・権限委譲が進まない

・監査前だけ帳票が整いすぎる

どれも一つなら偶然。重なったら構造だ。


最後に、病院関係者への注意喚起を一つ。

不正は人ではなく、仕組みで防ぐ。

善人前提は大切だが、確認前提はもっと大切。

質問が歓迎される空気、二重承認、名目の定義。

それだけで、物語は“おまけ”のままで終わる。


――笑って読めたなら、もう半分は守れている。

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