第30話 「第二波到来ー②」
相馬原駐屯地の朝は、空気がまだ硬い。
医務区画の外気温は低いが、ヘブンズルーム1号車の内部は、すでに機器の起動音で満ちていた。
フル装備の医療ユニット。モニター、吸引、廃棄タンク、分析補助センサー。
すべてが稼働待機状態にある。
お美々はリストを確認しながら、隊舎を回っていた。
「朝の自然回復状態で来てくださいね~。起きたまま、そのまま」
軽い調子だが、条件指定は明確だ。
回復速度を見るための“起点”を揃える。
対象は五名。全員、空港支援任務に従事し、前日までに排液処置済み。
そして全員、朝の時点ですでに軽度の起点膨張を維持していた。
ヘブンズルームに再集合した時点での初期バイタル。
血圧:118/72、116/70、120/74
脈拍:62〜66
SpO₂:98〜99
呼吸数:14〜16
数値は揃って軽症域。
異常はない。だが、“回復しすぎている”。
「……昨日より戻ってるの、早いね」
あいかはモニターを見ながら言った。
お美々は頷き、体位保持具を調整する。
仰臥位。骨盤角度固定。
皮膚消毒、ライン確保。
カテーテル挿入時の抵抗はなし。全員、同条件。
「ジェル、基準量投与」
1回目。
投与開始後、数値は素直に反応する。
脈拍:60前後へ低下
血圧:110台へ
SpO₂:99で安定
排液が始まり、トレイに溜まっていく。
あいかは手袋を替え、顔を近づけ、匂いを確認した。
「……変わらない」
1回目。
生理的範囲内。特異臭なし。
処置終了後、安定時間はわずか数分。
数値は再び、元の軽症域へ戻る。
「二回目、行くよ」
判断は早い。
2回目も条件を変えない。
再度、ジェル投与。
反応は同じ。
排液量も、ほぼ同量。
トレイに溜まる液体。
あいかは再び匂いを確認する。
「……違い、分からない」
人の嗅覚では判断できない。
それが、事実として積み重なる。
3回目。
さすがに廃棄タンクの残量が警告域に近づく。
「タンク、そろそろ満杯です」
お美々の声は冷静だ。
手袋を交換。
この時点で、あいかとお美々で使用した手袋は30枚。
正しい医療は、確実に物資を消費する。
3回目の排液でも、結果は同じだった。
数値は改善し、そして短時間で戻る。
「きつさ、ないです」
「全然、動けます」
隊員たちは前向きだ。
だからこそ、異常は数値と時間にしか現れない。
5名分、3回ずつ。
廃棄タンクは完全に満杯となり、交換処理に入る。
あいかはログをまとめ、時間推移を並べた。
1回目、2回目、3回目。
全員、ほぼ同一曲線。
「……人の感覚じゃ、追えないね」
「はい。でも、数字は嘘つきません」
あいかは頷き、端末を閉じた。
「唯さんと芽瑠に、全部見せよう」
結論は出さない。
だが、データは揃った。
第二波は拡大していない。
ただ、“回復の速度”だけが、異常なほど再現されている。
それを確認するための朝だった。
◇
1号車での処置を終えた隊員は、そのまま2号車へ移される。
動線は短く、ほぼ連続している。回復が早すぎる以上、時間差を作る意味はない。
2号車は観測用の配置だった。
排液器材は整っているが、主役はモニターだ。数値の変化を秒単位で拾うための環境。
「そのままでいい。固定なし」
唯の指示は短い。
隊員は仰臥位のまま、深く息を吐いた。
尾美津が起点部に触れる。
握る。
待つ。
――分からない。
量も、詰まり具合も、像を結ばない。
いつもなら手の中に浮かぶはずの情報が、今日はない。
「……読めません」
正直な報告だった。
尾美津はそのまま、モニターに視線を移す。
数値は軽症域。
安定している。
だが、“戻り”の兆しが、すでに始まりかけている。
そのとき。
唯が、ふっと空気を緩めるように言った。
「うちのあいかちゃん、スタイルいいでしょー」
一拍。
「いいです!! 凄かったです!!」
隊員の返答は即答だった。
声は明るく、迷いがない。ただ、それだけの反応。
――次の瞬間。
尾美津が、モニターを見たまま声を上げる。
「……一気に戻った」
数値が跳ねる。
血圧、脈拍。どれも危険域ではない。
だが、“回復速度”が明らかに変わった。
尾美津は画面から目を離さない。
「排液……する?」
冗談めいているが、問いは本気だ。
触っても分からない。
感触も、表情も、判断材料にならない。
反応しているのは、軽い一言のあとに変わった数値だけ。
唯は短く首を振る。
「今日は、ここまで」
追加処置はしない。
だが、確認は終わった。
処置でも、量でもない。
ほんの気分の上向きひとつで、回復が跳ねる。
2号車には、笑いの余韻と、異様に整った数値だけが残った。
◇
ヘブンズルームの回線が即時に開かれる。
1号車と2号車のログが並び、数値の時系列が共有画面に固定された。画面の向こうに芽瑠が映る。
「簡易カンファ、始めます」
唯は短く切り出す。
「対象五名。空港支援従事。朝イチ条件で再集合」
「1号車で排液三回。量・時間・匂いに差なし。戻りは毎回同一曲線」
「直後に2号車へ移動。触診・把持・観測。処置者差と装置差は否定」
芽瑠は黙って入力を続ける。保存欄が淡々と埋まっていく。
あいかが補足する。
「三回分×五名。廃棄タンク満杯。手袋三十枚使用。物理負荷は十分。人の感覚では差を拾えない」
「了解。記録、固定します」
芽瑠は一拍置いて保存操作に入った。
唯が視線をあいかに向ける。
「うちのあいかちゃんの谷間が、速めてる原因かもね」
一拍。
お美々が即座に被せた。
「だって、あいか先輩、Gあるから……」
画面の向こうで、芽瑠が顔を上げる。
「……あぃあぃは、高校時代からGだよ」
短い間。
冗談は冗談として、そこで切られる。
尾美津が一歩近づく。真顔だ。
「もしかしたら……触れば、大きさ、わかるかも……」
三人の声が、ぴたりと重なる。
「「「Gよ!!」」」
ぱしっ。乾いた音。あいかが反射的に、その手を弾いた。
「だめ」
唯が即座に仕切り直す。
「はい、そこまで。業務に戻るよー」
空気が切り替わる。
「尾美津。能力の反応は?」
尾美津は首を振る。
「……ありません。触っても、握っても、表情を見ても。量も、時間も、詰まりも像を結ばないです」
「数値との乖離は?」
芽瑠が確認する。
「ありません」
尾美津は続ける。
「反応しているのは数値だけです」
唯が頷く。
「確認。仮説は立てない。事実のみ」
芽瑠は記録を閉じ、保存を完了した。
「現時点、結論なし。次の更新を待ちます」
回線が切れる。
残ったのは、整いすぎた数値と、確かな一文。
尾美津の能力は反応しない。
【おまけ回】
処置室脇の簡易スペース。
使い捨てカップのコーヒーが三つ、等間隔に置かれている。
お美々は椅子に腰掛け、内科医と泌尿器科医の顔を順に見た。
「朝の起点状態って、そんなに指標になります?」
内科医が頷く。
「自律神経の立ち上がり、循環の回復、睡眠の質。若年層ほどノイズが少ない」
泌尿器科医が続ける。
「夜間から朝への遷移を見ると、“回復が速いかどうか”が分かる。ただし――」
言葉を切り、コーヒーを一口。
「速すぎるのは別問題だ」
お美々はメモ代わりに指を組んだ。
「今回、軽いまま夕方まで続く人がいました。苦痛はない。でも戻りが異様に早い」
「刺激に対する応答が短絡している可能性」
内科医は淡々と。
「生理的回復というより、復帰ループが切れない感じだ」
泌尿器科医も同意する。
「本来は一度落ち着く。常時オンは健康指標にならない」
お美々は少し間を置いてから、現場の空気を思い出したように言った。
「……あいか先輩の谷間も原因では、って現場では議論されてますが……アレ、凄いですよね?」
二人は同時に苦笑した。
「冗談としては分かる」
内科医。
「ただ、実体は“注意の上向き”だろう。視線が集まる、気分が上がる。それだけで回復は跳ねる」
「身体への直接刺激じゃなくても反応する」
泌尿器科医。
「だからこそ厄介だ。止めどころが見えにくい」
お美々は頷いた。
「元気は情報。でも元気すぎは異常、ですね」
「数字で見るしかない」
内科医が言う。
「現場で拾うのはナースの役目だ」
泌尿器科医が続ける。
三人は同時にカップを置いた。
軽口の裏で、回復という言葉の顔色が、少し変わった気がした。




