第7話 「静かなる圧力」
その日、ヘブンズゲート科の朝会は、いつもより重い空気に包まれていた。
壁際のスクリーンには、「B-9ジェル 現場使用承認試案」と書かれた資料が映し出されている。
発表しているのは、研究開発部の責任者であり、厚生省とのパイプを持つ男、白石博士だ。
「諸君。試作ジェルB-9は、ステージ4患者の救命率をおよそ40%改善する可能性があります。これは統計的に有意な成果です」
白石博士は淡々とした声で続ける。
「副作用については、現場のジェル資格者が適切に対応すれば許容範囲と判断されます」
――許容範囲。
その言葉に、私は唇を噛む。昨日までに二人、B-9使用後にICU送りになっているのだ。
「現場から意見は?」
博士の問いに、ゆぃゆぃ先輩がゆっくり立ち上がった。
「副作用のリスクは、決して軽くありません。適正量を見極めるには経験が必要で、すべての資格者が安全に扱えるとは限らない」
博士の目が細くなる。
「緑川看護救命士、我々は時間がありません。承認が下りれば予算が動き、生産ラインも整う。あなたの意見は理解しますが――救える命の数を優先すべきでは?」
先輩は数秒黙ったあと、静かに言った。
「救える命を優先するのは当然です。でも、“救ったはずの命”を副作用で失うことが、一番患者を侮辱する行為だと思います」
会議室に沈黙が落ちた。
私はその横顔を見つめながら、胸の奥で何かが熱くなるのを感じていた。
――この人は、やっぱり現場の味方だ。
昼過ぎ、珍しくゆぃゆぃ先輩に呼び出された。
「ついてきなさい」
案内されたのは、病院の最上階、関係者以外立ち入り禁止の屋上だった。
冷たい風がコンクリートの床を撫で、遠くに灰色の東京の街並みが広がっている。
「ここ、私が研修生だった頃、よく来てた場所なの」
先輩はフェンスにもたれ、空を見上げる。
「その頃も、似たような薬の承認問題があったわ。名前は違うけど、効果とリスクの天秤は同じ」
私は息を呑む。
「……先輩は、その薬を?」
「使ったわ。半分は救えた。でも、半分は副作用で死んだ」
淡々と語る声が、逆に重く響いた。
「現場にいたのは私と、あの時の上司……。上は数字しか見なかった。だから私は、それ以上口を出せなかった」
初めて見る、後悔の色を帯びた先輩の表情。
「だから、B-9では同じことを繰り返したくないの。あいかちゃん、あなたも覚えておきなさい。数字じゃなく、目の前の人間を見なさい」
その言葉は、私の胸に鋭く突き刺さった。
夜、サイレンが鳴った。
《救急搬送、成人男性ステージ4、B-9適応症例》
まるで、昼間の会議を試すようなタイミングだった。
ストレッチャーの上の患者は三十代半ば、顔面蒼白、呼吸浅く、下半身の脈動が視覚的にわかるほどだった。
「発症から四十五分。内圧3.5リットル、心拍数180!」救急隊員が叫ぶ。
私はB-9のボトルを手に取る。
――使うしかない。でも、量は……。
「半量でいくわよ」
ゆぃゆぃ先輩が即断した。
塗布後、患者は激しく痙攣し、吐出が始まる。速度は早いが、昨日のような急降下はない。
吸引機の音とモニターのアラームが混ざり合い、処置室は一瞬カオスのようになる。
八分後、内圧は1.0リットルに低下。血圧も安定域に戻った。
「……助かった……」患者が掠れた声で呟く。
私はその声に安堵しつつ、同時に理解していた。
――今日はうまくいった。でも、いつもうまくいくとは限らない。
処置室を出ると、廊下の突き当たりに白石博士が立っていた。
「やはりB-9は有効だ。現場の調整で副作用は回避できる」
彼の言葉は確信に満ちていた。
しかし、ゆぃゆぃ先輩は表情を崩さずに言い返す。
「現場が必ず対応できると思わないことね。これはまだ、ギリギリの綱渡りよ」
博士は笑みを浮かべたが、その目は笑っていなかった。
「承認は進めますよ。現場の意見は、参考にさせてもらいます」
彼が去ったあと、先輩は低く呟いた。
「……参考、ね」
その声には、これから嵐が来る予感が混じっていた。
私は思わず、防護手袋を強く握りしめていた。




