【閑話】 「ゴンザレス……デカっ!?」
〇×△生コン工場の構内は、昼の稼働音が鈍く反響していた。
攪拌機の低音、粉塵の匂い、濡れた床。
納品を終えた二人は、書類をまとめ、車に戻る段取りに入っていた。
「……あ、ちょっと待って」
猪俣ゴンザレス伸一が、腹の奥を押さえて足を止めた。
身長一八二、体重九三。混血らしい骨格に、仕事で鍛えた腕。だがその巨体が、次の瞬間、ふらりと揺れる。
「おい、イノマタ?」
多部厚志が振り向いたとき、猪俣はすでにしゃがみ込んでいた。顔色が変わり、額に汗が浮く。
「……痛い……やばい……」
「やばいって何がだよ」
返事はなく、猪俣はそのまま横に崩れた。
「おいおいおい! 倒れるな!」
多部は慌てて駆け寄る。脈を取るでもなく、まず肩を揺する。
「聞こえるか? 救急……」
「破裂……する……」
「は?」
「破裂、するって……」
多部の脳裏に、なぜか嫌な単語が浮かぶ。
膨張。
「……お前、まさか……」
確認する間もなく、多部は電話をかけていた。相手は古い縁だ。
「五鈴さんお願いします」
「……あ、あいかちゃん!? 助けて! 俺の同僚がさ、すんげぇ膨張してるんだよ!!」
数十分後、工場の端にヘブンズルームBが滑り込んだ。
ドアが開き、あいか、唯、お美々が降りる。なぜか尾美津と芽瑠も続いた。
「……気晴らしです」
尾美津はそう言い、芽瑠は場違いなほど真剣な顔で周囲を見ている。
多部が叫ぶ。
「あいかちゃん!! 排液、漏れ始めた!!」
「……漏れ?」
全員の視線が、猪俣に集まる。
倒れたままの巨体。作業服越しでも分かる体格。多部は半ば錯乱している。
「と、とにかく見ます」
尾美津が一歩前に出た。
手袋をはめ、患者の顔を真正面から見据えたまま、触診に入る。
「……うん」
短い沈黙。
尾美津は、ゆっくり顔を上げた。
「Stage1、後期ですね」
その一言で、空気が一気に緩む。
「え?」
「Stage1?」
あいかとお美々は、同時に肩を下げた。
「なんだ~」
「びっくりさせないでくださいよ~」
尾美津は、少し頬を赤らめ、唯に報告する。
「症状は軽いです。……ただし」
「ただし?」
「……所有物が、かなり立派です」
唯は一瞬だけ視線を泳がせ、ため息をついた。
「はいはい、私語は後」
その横で、芽瑠が固まっていた。
完全に視線が一点に固定されている。
「……芽瑠?」
「……い、いえ……確認中です……」
多部は状況が飲み込めないまま、指示を仰ぐ。
「で、どうすりゃいい?」
「運びます」
唯が即答した。
「Stage1なら、この場で処置できるけど……場所が悪い」
「了解」
多部は迷わず猪俣の肩に手を入れ、ひょいと担ぎ上げた。
「軽っ……」
「痛い!! 破裂する!!」
「大丈夫ですよ~」
お美々が笑顔で声をかける。
「Stage1ですから。この場でどうこうなることはありません」
「まずは……出しましょうか~」
あいかも続く。
「猪俣さん、大丈夫。ナース四名いますから」
「何回でも、ね?」
「皆、抜くよ!!」
唯の一声で、場が締まる。
尾美津は、しみじみと言った。
「……何度見ても、立派です」
Stage1。
緊急ではない。
だが、なぜか現場は妙に騒がしく、ズレていた。
猪俣は担がれたまま、ヘブンズルームへと運ばれていく。
多部は肩に伝わる重みと、じたばたと動く体温を受け止めながら、
「Stage1で倒れるなよ……」
と、半ば本気で呟いた。
その直後だった。
「あ、多部さん。お久しぶりですよねー」
あいかが、何事もなかったように声をかける。
再会の挨拶は自然で、距離感も昔のままだった。
「……あ、あいかちゃん……久しぶり……」
多部が返事をしている間も、猪俣は担がれたまま、完全に会話の外に置かれている。
唯と尾美津は、その様子を一歩引いた位置から見ていた。
触れない。確認もしない。
ただ、視線だけが、否応なく一点に吸い寄せられる。
一拍。
「……目視で分かるね」
「……うん」
声を潜めたやり取りの直後、二人の口から同時に漏れた。
「デカっ!」
「デカっ!」
芽瑠は、その場で完全に固まり、言葉を失った。
「ちょ、ちょっと……まだ処置前……」
あいかの制止もどこか緩い。
患者は担がれ、現場は動いているのに、空気だけが先に弛んでいく。
そのズレた安心感を残したまま、
ヘブンズルームの扉が閉まった。
◇
ヘブンズルームBの車内は、外の騒音から切り離された密室の静けさに包まれていた。
担がれてきた猪俣は処置ベッドに移され、固定具が装着される。
エンジンの低い振動が床を伝え、機器の電子音だけが規則正しく鳴っている。
あいかがモニターを立ち上げる。
「血圧、一四八/九四。脈拍一一二。SpO₂九六」
Stage1後期。数値は軽症域だが、体格がある分、工程は丁寧さを要する。
猪俣は天井を見つめ、呼吸を整えようとした。
――倒れた理由が分からないまま、視線だけが集まる感覚。恥ずかしさと安堵が交互に胸を打つ。
破裂という言葉だけが頭に残り、早く終わってほしい、という単純な願いに集約されていく。
唯が短く頷く。
「うん。猪俣さん? ご立派ですね。ジェル2本使いましょう」
多部が思わず声を上げる。
「おまえ、でけぇーよ!!」
お美々は器具を並べながら、あいかに視線を送った。
「あいか先輩、右からお願いします。
あの……その、これ? 私の手首くらいですし、一緒にお願いしてもいいですか?」
芽瑠は一歩引いた位置で、即座にメモを取る。
「……お美々ちゃんの手首同等っと」
尾美津は無言のまま、自分の手首を猪俣の起点付近に並べ、位置と角度を目視で合わせた。
再度、触診。圧の逃げ場、内部の戻り、粘度の感触を短く確かめる。
「量、多し。推定……バケツ」
一拍。
あいかは即座にトレイからバケツへ切り替えた。無駄がない。
唯は何も言わず、口元だけをわずかに緩める。判断が通った合図だ。
芽瑠は黙々と記録を続ける。工程変更、容器変更、判断理由。淡々と。
「……うほっ!?」
小さな声が尾美津から漏れ、車内に軽い笑いが走る。だが手元は崩れない。
あいかがフェイスシールド越しに声を落とす。
「猪俣さ~ん。先ずは出しましょうねー」
ジェル一本目。注入速度は一定。圧はかけない。起点周囲の皮膚緊張を緩め、逃げ道を作る。
モニターを一瞥。血圧一四八/九四のまま。まだ動かない。
お美々が角度を微調整する。肘、腰、骨盤。通り道が最短になる位置で固定。
「ここ、いいですね」
排出の兆候が出るまで待つ。
尾美津は患者の表情から、呼吸が浅くなる瞬間を見逃さない。
排液が始まった。
「……来ました」
量を確認。二百、三百。
唯が合図する。
「一回目、ここまで」
ジェル二本目。
今度は回数を刻む。短時間・二回。戻りを作らない。
数値が動く。
血圧一四〇/八八。脈拍一〇〇。
「安定」
唯が言い切る。
お美々がにこやかに声を添える。
「猪俣さ~ん。バケツありますから、遠慮なく出してくださいねー」
多部は言葉を失い、
「…………」
とだけ残して視線を逸らした。
芽瑠はペンを走らせ、短く見上げる。
「……同体格でも、工程短縮で安全確保。記録」
処置は終わった。Stage1。問題なし。
猪俣は胸の奥に溜まっていた緊張が抜けるのを感じ、ようやく深く息を吐いた。
終わったという実感が、遅れてやってくる。
尾美津は最後に一言だけ、静かに付け足す。
「……数値は正直です」
ヘブンズルームは、帰庫へと滑り出した。
緩い笑いを残したまま。
◇
ヘブンズルームが病院の車庫に収まると、張り詰めていた空気は一気にほどけた。
五人は動線を分け、更衣室へ入る。
白いタイルに反射する蛍光灯の下、ロッカーの扉が次々に開く音が、今日の仕事の終わりを告げていた。
あいかは手早くフェイスシールドを外し、上衣を脱いでハンガーに掛ける。
黒のインナーがちらりと見え、唯が目を細めた。
「……黒、似合うけど。病院勤務で黒って、珍しいわね」
「い、いいじゃないですか。気合入るんです」
お美々は白の上下を整えながら、鏡越しに声を上げる。
「あいか先輩のお知り合いのお知り合いさん……アレ、凄くないですか?」
「アレ言わないの!!」
あいかが即座に被せる。「……んっ、凄かったね?」
尾美津はロッカーの前で薄いピンクを整え、満足そうに頷いた。
「アレは……いいっ!!」
唯は手を止め、さらりと言った。
「既婚さんか……じゃぁ、2号さん? いや、2~3人いるかな、アレだと……」
「ゆい先輩?」
芽瑠は白の上下をきっちり揃え、メモ帳をロッカーに滑り込ませる。
口調は淡々としているのに、話題からは逃げない。
「まぁーアレなら、3号さんでも4号さんでも……」
あいかが首をかしげ、芽瑠を見つめる。
「芽瑠るん?」
更衣室に短い笑いが広がる。
その間も手は止まらない。作業着が畳まれ、下着が整えられ、タオルが掛けられる。
日常の動作が、軽い冗談を安全な場所に押し戻していく。
お美々が、鏡を見ながら肩をすくめる。
「奥さまのノリが合えば、一緒に……」
「お美々?」
芽瑠は小さく肩を揺らした。
「……理論上は、成立します」
あいかがため息をつく。
「……もう」
そのとき、唯がふっと笑った。
「あいかちゃん。あの方、通院にしなさい!!」
一拍。
お美々、芽瑠、尾美津が声を揃える。
「「「賛成!!」」」
あいかは負けた顔で、ロッカーの扉を閉めた。
「……仕事ですからね。仕事」
ふと、あいかが唯を見た。
「……先輩、下着は?」
唯は肩をすくめる。
「最初から、ないけど?」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、笑いが弾けた。
「ちょっ……」
「ゆい先輩!」
「それ、反則!」
更衣室は、軽いざわめきに包まれる。
処置は終わり、数値は安定し、冗談が成立するだけの余裕が戻った。
ドアの外では、病院の日常が静かに続いている。
中では、緩い安心感が、今日を締めくくっていた。
(唯)
正直に言えば、太いのは推奨派。理由? 単純よ。存在感って大事でしょう。
視界に入った瞬間「あ、主役来た」って空気が変わるやつ。
あれはもうサイズじゃなくて説得力。細かい理屈? 知らないわ。頼もしさは太さに宿る、以上。
(お美々)
でも私は少し違います。基準は自分の手首。
これと同じくらいだと、不思議と想像が止まらなくなるんです。
太すぎると「おお…」で終わっちゃうけど、手首基準だと生活に入り込むというか、
現実感が出るというか。医学的? いいえ、完全に感覚派です。
(唯)
つまり、お美々は“測れるもの”が好きなのね。
(お美々)
はい。手首は裏切りません。
(唯)
じゃあ私は“測れない太さ”を推すわ。
(唯)
「じゃあさ。一緒に考察・検証しようか。条件整理から」
(お美々)
「はい!! どこまでもついて行きます!! 手首、準備します!」
結論。
更衣室は研究室に昇格。今日も平和、たぶん。




