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第28話 「緊急受入れー⑤」

 夜明け前の空気は、まだ固い。

 駐車場の端に張られた軽度処置用テントは、白い布の内側だけが先に温まっていた。

 簡易ヒーターの乾いた風と、人の呼気と、消毒剤の匂い。

 床は養生シートで覆われ、歩くたびにわずかに鳴る。


 尾美津色香は、手袋を替えた。

 薄い手袋では足りない。厚手だと触覚が鈍る。二枚重ねにして、指先だけを残す。

 自分のやり方だった。


 列はもうできている。

 まだ朝だというのに、男たちは黙って座っているか、膝を抱えて俯いている。

 軽度と言われた者たちだ。だが“軽い”という言葉は、ここでは信用できない。


 尾美津は一人ずつ前に呼び、短い声で確認した。


「お名前、お願いします。はい。大丈夫、急ぎません。手を見せてください」


 手の甲の冷え、脈の跳ね方、唇の乾き。

 それだけで、どの程度まで来ているか分かる。だが尾美津は、最後に必ず触れる。


 精排液起点部。

 そこに指を当てて、軽く、握る。


 患者は、息を呑む。

 尾美津は表情を見た。逃げる目。耐える目。怒る目。縋る目。

 そのどれも、情報だった。


「……溜まり、増えてますね」


 彼女の頭の中で、言葉にならない感触が形を取る。

 量。残り時間。粘度の傾向。


 濃い。 ゼリー。 スライム。 詰まり。


 数値では言えないが、間違えない。

 間違えると、破裂が起きる。


「あなた、Stage2の後半です。軽度じゃない。……向こうに回しましょう」


 椅子を示すだけで、隊列が動く。

 空気がざわつくが、尾美津はそれを切らない。

 怖さは抑え込むものではなく、手順で受け止めるものだ。


 別の男に指を当てる。握る。

 粘度はスライム寄り。

 残り時間は短い。

 彼は笑って誤魔化そうとしたが、その笑いが薄い。


「無理して喋らなくていいですよ。今、出しましょうね。……大丈夫。ここで止めません」


 処置台は簡易だ。

 だが、彼女の手は簡易ではない。

 ジェル担当ではない。国家資格の区分は守る。尾美津がやるのは“選別”と“導線”だ。

 抜くべき者を、抜ける場所へ送る。遅れる者を、遅れない場所へ押し上げる。


 テントの外で、ストレッチャーの車輪が鳴った。

 病院の搬入口の方角が、まだ薄暗い。


 尾美津は息を吐いて、次を呼ぶ。


「はい、次の方。……怖いですか? うん。怖いですよね。

 でも、怖いまま来ていい。ちゃんと相手します」


 握る。

 指先に、詰まりの硬さが触れた。

 濃い。ゼリーのさらに奥。

 彼女の眉が、ほんの少しだけ寄る。


「……あなた、これ、危ない。残り、長くない」


 男が「え」と声を漏らす。

 その一音で、周囲の呼吸が止まる。


 尾美津は目線を上げ、テント全体を一度だけ見渡した。

 怖がる視線も、睨む視線も、同じ熱を持っている。

 生きたい、という熱だ。


「大丈夫。今、順番を変えます」


 言い切ってから、彼女は係のスタッフにだけ、小さく指示した。


「この人、すぐ中へ。Stage3に入る前に回したい。

 ……あと、あっちの列、もう一度見て。軽度って札、信用しないで」


 返事は短い。

 朝のテントは、もう機械のように回り始めていた。


 尾美津は次の手袋を引き上げ、また指先だけを残す。

 握って、測って、送る。

 ローラーのように、止めない。


 誰かが遠くで「よし、次!」と叫んだ。

 その声が、尾美津の背中を押す。


 彼女は、次の患者の前に立った。


「お名前、お願いします。……うん。大丈夫。出しましょうね」





 須志有喜が目を覚ましたのは、外がまだ完全に明るくなる前だった。

 時計を見るまでもなく分かる。眠りは浅く、身体のどこかがずっと現場に置き去りにされたままだ。

 布団から起き上がると、関節がわずかに鳴った。疲労ではあるが、鈍さではない。

 この感覚は、忙しさが臨界に近づいた時に出る。


 仮設事務局として使われている病院会議室は、夜の名残を引きずっていた。

 書類の山、開いたままのファイル、壁際に立てかけられたホワイトボード。

 須志はまず窓際に歩み寄り、ブラインドを少しだけ上げた。


 駐車場に張られたテント群が、朝の光に浮かび上がる。

 その中の一つだけが、すでに動いていた。


 軽度処置用テント。

 人の列は思ったより長い。夜明け前にもかかわらず、規則正しく並び、乱れがない。

 須志の視線は自然と、その中心に向かった。一定の間隔でしゃがみ、立ち、次へ進む影。

 誰かが手袋を替え、誰かを振り分けている。


 尾美津だ、と須志は即座に理解した。

 理由は単純で、あの“止まらなさ”は他にいない。


 須志は腕を組み、しばらく動かずに眺めた。

 彼女のやっていることは処置ではない。だが処置に直結している。

 列の流れが滞らないのは、判断が早いからではない。判断が“迷われない”からだ。


 須志の頭の中で、昨夜までの数字が自然に重なった。

 受け入れ人数。

 Stage別の比率。

 ストレッチャーの回転数。

 それらが今、目の前の光景と一致している。


 想定よりも早い。

 想定よりも滑らかだ。


 須志は、無意識に眉を寄せた。

 これは安心ではない。違和感だ。


 彼は机に戻り、ノートを開いた。日付の横に「受け入れ二日目・早朝」と記す。

 夜書いた「想定」という文字を、ペンで二重線にした。もはや想定ではない。実績だ。

 そして実績は、次の判断を要求する。


 行政向けの簡易報告書に目を通す。

 まだ文面は慎重だ。だが、ここから先は数字が嘘をつかない。

 処置能力が集中し、現場判断が加速すれば、外からの視線も変わる。


 須志は、そこまで考えたところで、内線のランプが点灯していることに気づいた。

 音は鳴っていない。留守電も入っていない。ただ、通知だけが残っている。


 彼は一呼吸置いてから受話器を取った。


「須志です」


『おはようございます』


 名乗りはない。だが須志には分かる。政府系金融機関の窓口担当だ。

 時間帯と声の調子が、それを物語っている。


「早いですね」


『ええ。少し、確認したいことがありまして』


 須志は、再び窓の外に視線を向けた。尾美津は次の患者に手を伸ばしている。

 列はまだ伸びているが、崩れていない。


「状況ですか」


『はい。昨夜の報告では、処置体制が非常に安定していると』


「事実です」


『想定よりも?』


「はい」


 一瞬の沈黙。

 その沈黙が、用件の本体だった。


『……なるほど』


 相手は、言葉を選んでいる。須志は待つ。焦らせる必要はない。


『こちらとしてはですね、あくまで非公式ですが』

『現状が“一過性”なのかどうか、その見極めを始めています』


「見極め、ですか」


『ええ。持続する体制なのか、それとも偶然が重なっているだけなのか』


 須志は否定も肯定もしなかった。

 窓の外で、列の一部が静かに振り分けられる。動きに迷いはない。


「どう見えます?」


『……持続可能に見えます』


 その言葉で、須志の中の歯車が一段、音を立てて噛み合った。


「それは、資金の話に繋がりますね」


『そうなります』


 相手は、隠さなかった。

 須志は、ノートの余白に小さく丸を描いた。


「正式な話ですか」


『いいえ。今日は“含み”です』


 須志は短く息を吐いた。

 含み、という言葉が出た時点で、話はもう始まっている。


「分かりました。今日中に一度、整理します」


『助かります』


 電話が切れる。


 須志は受話器を置き、しばらくそのまま座っていた。

 外では、朝の光がはっきりとテントを照らし始めている。尾美津の動きは変わらない。

 ローラーは止まらず、列は列のままだ。


 現場は回っている。

 そして、回りすぎている。


 須志はノートを閉じ、立ち上がった。

 次にやるべきことは明確だった。現場を止めず、同時に次の段階へ進む。

 そのための準備を、誰にも気づかれない速度で始める。


 窓から目を離し、須志は会議室を出た。

 廊下の向こうから、ストレッチャーの車輪音が聞こえてくる。


 受け入れ二日目は、まだ始まったばかりだった。





昼過ぎの処置区画は、朝の緊張を静かに脱いでいた。

照明は均一に保たれ、器具の配置も固定され、消毒の匂いは過剰にならない。

臨時で組まれたはずの区画は、すでに仮設の顔をしていない。処置が、業務として成立している。


軽度処置用テントの中では、ナースたちが一定の速度で回していた。

患者は番号で呼ばれ、椅子から立ち、処置台へ。

座る前に血圧を測り、末梢循環と皮膚温を一瞥し、簡易モニターの数値は短く共有される。

記録は要点のみ。判断が重ならないよう、工程が噛み合っている。


あいかの台では、患者が腰を下ろした瞬間から工程が始まる。

上腕にカフを巻き、数秒で測定が終わった。


「血圧、上が一五二、下九六。脈拍一一四。SpO₂九五」


声に抑揚はない。数値は感情を伴わずに共有される。

起点部周囲に指を当て、皮膚の張りと逃げ場の方向を確かめ、圧のかかり方を読む。


「今日もいっぱい出しましょうね~。大丈夫、順番に抜きます」


言葉は柔らかいが、手元は迷わない。ジェルは規定量。注入速度は一定で、圧をかけすぎない。

あいかは一拍、手を止め、モニターに視線を移す。血圧一五二/九六、脈拍一一四。まだ下がらない。

焦る必要はない。焦れば、圧を誤る。


起点部に添えた指先の感触が、ゆっくり変わる。張りがほどけ、内部の抵抗が逃げ始めた兆候だ。

角度を数ミリだけ修正し、排出を誘導する。勢いは要らない。

出るべき分が、出る速度で流れるのを待つ。


「……今、始まりました」


排液量を目で追う。三百を越えたところで圧を緩め、モニターを確認する。

血圧一四四/九〇。脈拍一〇二。数値が動いたことを見届けてから、次工程へ進む。


隣の台では、お美々が患者の姿勢を微調整していた。肘の位置、腰の沈み、わずかな角度。

排液の通り道が最短になる位置で固定する。


「へぇ~、いい角度してるじゃないですか? いいですよ♪」


軽い調子とは裏腹に、触診は正確だ。起点部に指を当て、皮膚の戻りを一瞬でほどく。

ジェルは少量。注入後、圧をかけずに待つ。

待つ時間を短くする代わりに、回数を刻む。一回目で六割、二回目で残り。三回目は要らない。


「はい、今一回目。……二回目、行きます」


排液量は短時間で積み上がる。二回で止める。それ以上は追わない。

追わなくても、Stage2後半をStage3に入れないラインで止められる。モニターを一瞥する。

血圧一三八/八八、脈拍九八。安全域。早いが、雑ではない。


唯の台は、判断が一段、強い。初期数値を見た瞬間、工程を決める。

発作間隔が短く、戻りが早いタイプだ。


「膨張度、高い。……抜きましょうっ。二回くらい出していけば、安定します」


言い切りは強いが、先を見据えた判断だ。起点部に触れ、圧の方向を定める。

ジェル量は規定内で増量するが、注入速度は変えない。急げば戻りが荒れる。


一回目の排出で数値が下がるのを確認しても、唯は止めない。二回目を予定に組み込んでいる。

ここで止めれば、数時間後に同じ数値で戻る。それを避けるためだ。

二回目が終わった後、モニターは安定した。血圧一三六/八六、脈拍九四。

唯はそこで初めて手を離し、静かに頷いた。


「これで、夜までは持つ」


処置は続く。Stage2、Stage2後半、Stage3寄り。Stage3が“特別扱いされない位置”に来ている。

ナースたちは要領よく抜く。それは手抜きではない。判断の短縮であり、工程の最適化だ。

数値を一目で拾い、必要な分だけ出し、余分を残さない。


 列のほうでは、待機する患者の会話が小さく続いている。


「早いな」

「数値、すぐ下がってた」

「声、落ち着いてる」


誰が担当かを、患者が見るようになっている。番号ではなく、台を見る。

本来、緊急受入れに指名は存在しない。だが、現場が上出来に回るほど、安心が個人に結びつく。


「あの……できれば、あいかさんで」


受付は一瞬だけ迷い、工程を崩さない範囲で流す。回転は落ちていない。Stage配分も崩れていない。

安全は保たれている。

同じことが、お美々の台でも、唯の台でも起きる。指名は要求にならず、流れになった。


尾美津は少し離れた位置で、全体を見ていた。

朝のローラーは役目を終えつつあり、判断は現場に渡っている。悪くない。だが、良すぎる。


処置は正確だ。事故は起きない。数値は揃い、排液は計画通りに出る。

安心と平和が、上出来に回る現場。


時計が午後を刻む。誰も急がない。誰も止めない。

その穏やかさの中で、本来あり得ない流れが、当たり前として定着していく。


(2章19話参照願います)


 統合指令本部の回線は、まだ生きていた。

 成田の色分けは更新を止め、スクリーンは一見すると静まり返っている。

 だが、それは「収束」ではない。観測が一区切りついただけだ。


「米軍横田基地、第二報が入ります」


 若い通信士の声は、前回よりも低かった。

 解析済みのテキストが、共有スクリーンに投影される。


≪SECOND POINT CONFIRMED≫

≪PRIMARY EVENT COMPLETE≫

≪SECONDARY SPREAD DETECTED≫


 医療顧問が、言葉を選ぶように口を開く。


「……第二波、確定ですね」


 指令官は頷かない。否定もしない。

 ただ、確認する。


「場所は?」


「基地関連施設。

 初動接触者は、空港臨時区画の支援要員が多数」


 一瞬、室内の空気が沈む。

 誰かが小さく息を吸った。


「感染症扱いではない、な?」


「はい。

 米側は“連鎖事象”と表現しています」


 別のウィンドウが立ち上がる。

 横田基地周辺の簡易マップ。

 点は少ない。だが、線が見える。


「これは偶発か?」


 指令官の問いに、即答は返らない。


「……偶発としては、整いすぎています」


 軍事連絡席が淡々と続ける。


「一次点は空港。

 二次点は支援動線上。

 曝露条件は限定的。再現性あり」


 誰も「テロ」とは言わない。

 誰も「事故」とも言わない。


「評価は?」


 指令官の声は低い。


「進行中です。

 ただし――」


 通信士が言葉を継いだ。


「米側の注記です。

 “これは拡散ではない。確認だ”と」


 沈黙。

 その言葉の意味を、全員が理解するまで、数秒を要した。


 第二波は、始まりではない。

 続きだ。


 指令官は、静かに命じた。


「国内の医療拠点、動線を洗い直せ。

 “次”を、想定に入れる」


 スクリーンの光が、わずかに強くなる。

 第二波は、もう概念ではない。


 ――確認された現実だ。

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