第27話 「緊急受入れー④」
受け入れ二日目の朝は、音が少なかった。
夜通し稼働していたはずの病院は、早朝という時間帯に合わせて、呼吸の速度を落としている。
完全に止まったわけではない。ただ、過剰な動きが削ぎ落とされ、必要なものだけが残っている。
森乃芽瑠は、正面玄関を使わなかった。
職員用の通路から入り、セキュリティを抜け、そのまま院内を歩き始める。
手には小さなメモ帳。端末は使わない。今は、数字よりも感覚を拾う時間だった。
まず目についたのは動線だ。
廊下に物がない。簡易設置されたはずの備品は、すでに壁際へ寄せられ、通行を妨げていない。
テープで引かれた誘導線も、仮設のはずなのに歪みがない。
貼った人間が、ここを日常的に使う前提で考えている。
芽瑠は歩きながら、短くメモを取る。
――動線、完成度が高い。
次に、処置区画の外側。
仮眠用テントから出てくる医療従事者の顔色を、芽瑠は一人ずつ確認する。疲労はある。
だが、限界の手前で止まっている。休ませる設計が、想定通り機能している証拠だった。
――回復ポイントが適切。
資材置き場では、補充が終わった直後だったのか、台車が静かに整列している。
数量管理のタグは手書きだが、更新が早い。
仮設でありがちな“誰が責任者か分からない状態”がない。
――担当が固定されている。
軽度患者用のスペースでは、ナースが同じ目線で患者に説明していた。
数値を示し、次の判断までの時間を伝えている。過剰な安心も、過度な脅しもない。
芽瑠は、そこで一度足を止めた。
整いすぎている。
この規模の緊急受け入れで、しかも一日目を越えたばかりだ。
通常なら、どこかに歪みが出る。物が足りない、連絡が遅れる、人が倒れる。
そういう“現場の荒れ”が、まだ見えていない。
芽瑠はメモ帳に、二重線を引いた。
――準備期間が長い。
それは、公式には存在しない時間だ。
政府との窓口役として、芽瑠は把握している。
昨日まで、この病院は「対応可能性の検討段階」にあったはずだ。
正式な支援要請も、全容把握も、まだ途中だった。
それなのに。
仮設設備は揃い、人員は配置され、役割分担が曖昧になっていない。
まるで、最初からこの状況を想定していたかのようだ。
芽瑠は階段を使って一階分下り、別の病棟へ向かう。
エレベーターを使わないのは、意図的だった。歩かなければ見えないものがある。
途中、事務局の前を通り過ぎる。
ドアは閉まっているが、内側の灯りは消えていない。誰かが、まだ中にいる。
――夜も動いていた。
芽瑠の胸の奥に、薄い違和感が広がる。
これは不正の匂いではない。もっと厄介な類のものだ。
“政府が把握する前に、現場が完成している”。
それはつまり、
政府筋が知らないサポートが、この病院には存在する可能性がある、ということだ。
民間か。
研究機関か。
あるいは、もっと名前のつかない何かか。
芽瑠はメモ帳を閉じ、深く息を吸った。
疑心は、まだ仮説にすぎない。だが、放置できる段階でもなかった。
――調査対象、病院内部。
そう書き添えて、芽瑠は再び歩き出す。
受け入れ二日目の朝は、静かに、しかし確実に次の段階へ進んでいた。
◇
職員用の仮眠テントの中は、まだ夜の名残を引きずっていた。
薄いマットの上で横になったまま、唯は天井を見つめている。
時計を確認しなくても分かる。三時間。短いが、確実に“眠った”と言える時間だ。
身体を起こすと、関節が一斉に音を立てた。
疲労は残っているが、頭は驚くほど冴えている。現場に戻れる感覚だ。
「……起きますよー」
お美々の声が、間仕切り越しに届く。
明るいが、無理に張ってはいない。経験を積んだ現場の声だ。
「シャワー行きましょ」
「このまま戻ると、さすがにきついです」
あいかが「うん」と短く返す。
三人はほぼ同時に立ち上がり、防護服ではない軽装に羽織るだけ羽織って、テントの外へ出た。
朝の空気は冷たく、湿っている。
そして――音が多かった。
「……」
唯が、思わず足を止める。
駐車場の一角に張られた軽度対応用のテント群が、すでに人で埋まっていた。
簡易処置、経過観察、待機。呼び名は何であれ、明らかに“軽い”とは言えない人数だ。
数えるまでもない。
五十は、超えている。
テントの前には簡易ベンチが並び、座れない者は立ったまま壁にもたれている。
誰も騒いでいない。だが、視線には不安と疲労が混じっていた。
Stage1から初期Stage2。今すぐ処置室に入れるほどではないが、放置はできない層。
「……増えてますね」
あいかが、状況を一目で理解して言う。
その声は低く、感情を含まない。
お美々は目を細め、全体を見回した。
「昨日より、倍近いかも」
唯は一歩前に出て、テントの奥を見た。
そこで、ようやく“異変”に気づく。
「……あれ」
軽度対応テントの中。
人の流れに紛れて、一人、異様に動きが早い影がある。
尾美津だった。
防護具を簡易仕様に切り替え、次から次へと患者の前に立ち、
起点部に触れ、握り、数秒で判断を下している。
留める。
回す。
後回し。
処置室へ。
言葉は最小限。
だが、動きに迷いがない。
「……混ざってる」
唯が、ぽつりと言う。
尾美津は、完全に“軽度対応班”の一部として機能していた。
彼女の周囲だけ、判断が速い。流れが詰まらない。結果として、テント全体の回転が上がっている。
お美々が、思わず口を開く。
「……あの人、もう“握って廻ってる”」
言い方は軽いが、内容は重い。
起点部に触れて情報を抜き、危険度を振り分ける。医師でもナースでもない、だが明確な“役割”。
唯は、しばらく無言でその様子を見ていた。
笑う余裕は、もうない。
「……想定より早い」
それだけ言って、息を吐く。
「シャワー、後にしましょ」
お美々とあいかが、同時に頷いた。
三人は方向を変え、テント群の方へ歩き出す。
朝は、もう始まっていた。
そして受け入れ二日目は、昨日よりも静かに、だが確実に、重さを増していた。
◇
屋上は、思ったよりも静かだった。
朝の光はすでに高く、病院全体を均等に照らしている。
下では人と物が流れ続けているはずなのに、ここまで上がると、その気配は遠く薄まる。音は風だけだ。
森乃芽瑠は、手すりに背を預ける形で立ち、端末を耳に当てた。
この場所を選んだのは、癖だ。
人目がつかず、それでいて、病院全体の動きが視界に入る。
「受け入れ二日目です」
声は落ち着いている。報告用の声だ。
「現時点での患者総数は、把握できている分だけで百二十を超えています」
「Stage1から初期Stage2の軽度層が五十以上。
中等度以上は、回転率を維持したまま処置室へ送られています」
芽瑠は一度、視線を落とし、屋上の縁に残る水たまりを見た。昨夜の雨の名残だ。
「詰まりがありません」
「人員配置、物資動線、判断速度、いずれも異常なほどに整っています」
言葉を選ぶ。
“優秀”では足りない。
“偶然”では説明できない。
「対応が、良すぎます」
短い沈黙。
回線の向こうで、誰かが情報を整理している気配がした。
「現場判断で回っている、というレベルを越えています」
「事前に段取りを組んだ者がいる」
「しかも、病院内部の人間だけではない可能性があります」
芽瑠は、そう結論づけた。
「こちらとしては、把握していません」
上司の声は淡々としていた。驚きも、否定もない。
「政府ルート、公式支援、委託業者、いずれも該当なし」
「裏で動いているなら、まだこちらの網に掛かっていない」
芽瑠は小さく頷く。予想通りだ。
「引き続き内偵を」
「表には出るな」
「病院側との関係は、崩さないように」
通話は、それで終わった。
芽瑠は端末を下ろし、屋上から下を見た。
テント群。人の列。動き続ける現場。
そして――一人の姿が、自然と視界に入る。
あいかだった。
処置室へ向かう途中で、須志とすれ違い、ほんの一瞬、言葉を交わしている。
長くはない。だが、説明も確認もない。
それで、通じている。
芽瑠は、わずかに眉を寄せた。その距離感に、以前から引っかかりを覚えていた。
ただの現場と事務の関係ではない。だが、露骨でもない。
“どこか、一線を越えている”。
そう感じさせる何かがある。
芽瑠は階段を使って下へ降り、廊下であいかと並んだ。
声のトーンを、少しだけ柔らかくする。
「あぃあぃ……大変そうだね」
探るような言い方。報告ではなく、相談に近い形。
あいかは一瞬だけ芽瑠を見て、すぐに前を向いた。
「うん。でも、回ってるよー」
それだけ。
「準備、早かったよね」
芽瑠は続ける。
「正直、ここまでとは思ってなかった」
あいかは歩きながら、ほんの少しだけ間を置いた。
「……須志さんが、動いてくれたからね」
それ以上は言わない。だが、その一言に含まれる信頼は、はっきりしていた。
芽瑠は、それ以上踏み込まなかった。今は、聞く段階ではない。
だが確信は、静かに固まる。
この病院には、政府が知らない段取りがあり、
その中心に、須志がいて、
そして――あいかは、それを知っている側だ。
芽瑠は廊下の窓から、もう一度テント群を見た。
軽度対応テントは、すでに満杯に近い。
それでも、誰も止まっていない。
「……面白くなってきた」
声には出さず、心の中でそう呟く。
受け入れ二日目は、まだ終わらない。
そして、
この病院が“誰の手で動いているのか”という問いも、
まだ、答えを見せるつもりはなさそうだった。
【~須志有喜の内部整理メモ~】
隔離病棟(仮)立ち上げに必要な要素一覧
1. 資金(初期・継続)
初期整備費
・病棟改修/仮設工事
・隔離動線構築
・陰圧・換気設備
運用費
・人件費(夜勤・長期拘束・応援要員)
・消耗品(防護具・ジェル・医療資材)
研究・観察名目費
・データ管理
・機器追加
・解析外注費
※ 単年度では完結しない。最低でも複数期を想定。
2. 人(配置・確保)
専任医師・看護師
交代要員(疲労分散前提)
事務・記録担当
技術職(設備・IT・セキュリティ)
心理ケア・対人対応要員
※ 通常業務との兼任は不可。人員“上積み”が必須。
3. 場所(物理的条件)
既存病棟の転用、または独立区画
一般病棟との完全分離
搬入口・廃棄動線の独立
外部からの視認制御
※ 「使える空間」より「隔てられる空間」が重要。
4. 設備(医療・管理)
隔離対応ベッド
監視・測定機器
陰圧・換気・空調制御
廃棄物処理設備
非常電源・通信系統
※ 後付けでは追いつかない要素が多い。
5. 手続き・名目
臨時医療体制整備
新興疾患・観察研究名目
倫理委員会・管理規定
記録・監査体制
※ 名称と定義が、資金と権限を左右する。
6. 外部ネットワーク(コネ)
行政(厚労・自治体・危機管理)
金融機関(公的・半公的・民間)
提携病院・研究機関
物流・設備業者
※ 一方向ではなく、相互依存関係を構築する必要あり。
7. 情報管理・対外対応
報道対応窓口
SNS・風評対策
データ公開/非公開の線引き
内部情報のアクセス制御
※ 技術ではなく「運用」が肝。
総括)隔離病棟は、「設備を作れば成立する施設」ではない。
金・人・権限・定義・関係性。
それらが同時に揃い、かつ“止められなくなった時”に初めて成立する。
現在、この病院はその入口に立ったにすぎない。




