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第26話 「緊急受入れー③」

処置室の照明が落ち着いた白に固定されると、空気は自然と医療の顔に戻った。

モニターの波形は安定しているが、患者の腹部は強く張り、皮膚の緊張が視覚的にもはっきり分かる。

Stage3。常時危険域。発作間隔は短縮し、自然排出では追いつかない。


「はいはーい、深呼吸いきますよー。吸って、はい、吐いてー」


お美々の声は軽やかだが、手元は正確だった。

グローブを整え、消毒の範囲を広げ、必要な器具を無駄なく配置する。声と手の温度が違う。

その落差が、場の緊張をわずかに緩める。


尾美津は患者の側に立ち、起点部へ静かに手を伸ばした。触れる。握る。

圧の逃げ場を探るように、指の腹で微細な抵抗を読む。

視線は患者の表情に固定され、呼吸の乱れ、喉の鳴り、肩のこわばりを同時に拾う。


「……滞留量、多い。粘度、ゼリー寄り」


低く短い言葉。冗談の余地はない。

モニターに数値が並ぶ。膨張度1.82、循環指数0.74。低下傾向。Stage3の底を擦っている。


「今から抜きます。ここ、正念場です」


尾美津の声は淡々としていた。

その横で、お美々が患者の肩にそっと手を置く。


「はい、今ちょっと変な感じしますよー。でも大丈夫、私たちプロですから」


“プロですから”という言い回しに、患者の口元が一瞬だけ緩む。その微細な変化を、尾美津は逃さない。


「……今だ」


処置が始まる。圧が動き、患者の呼吸が一拍乱れる。


「はいはい、力抜いてくださいねー。眉間、さっきより柔らかいですよー」


お美々は明るいまま、観察を続ける。

尾美津の手は角度を微調整し、流れを作る。

指先に伝わる抵抗が徐々に変わり、詰まりがほどけていく感触がはっきりする。


数値が反応する。膨張度1.82→1.65→1.48。循環指数0.74→0.81。

持ち直し始めた。


「……抜けてきてる」


尾美津の声に、わずかな余裕が混じる。

患者の呼吸が整い、肩の力が落ちる。


「ほらー、言った通りー」

お美々はにこやかに言い、しかし手元の確認は怠らない。

「ちゃんと触って、ちゃんと握ると、身体は答えてくれるんです」


その言い回し。

処置室の端で、唯が壁に背を預けたまま視線を落とす。

肩がわずかに震え、腹部に力が入る。声は出さない。出せない。


「……真顔で、ほんとに」


口の中だけで呟き、呼吸を整える。

笑いは飲み込む。現場は止めない。


尾美津は患者の顔を確認し、数値をもう一度見た。膨張度1.31。

Stage3から外れ、Stage2相当まで戻っている。


「……行ける。次、準備」


短い判断。だが、確かな前進だ。


「よし、次!」

唯の声が入る。


処置室は再び動き出す。

笑いは影に留まり、医療は前に出る。

その両立が、今日の現場を支えていた。



最初に上がったのは、短い動画だった。


搬入口を遠巻きに撮ったもの。

テントの列、ストレッチャーの動き、防護服の背中。

画面は揺れ、音声は風にかき消されている。

それでも「何かが起きている」ことだけは、十分に伝わった。


《空港閉鎖ってマジ?》 《あれ病院? 軍?》 《防護服やばくない?》


数分後には、別角度の映像が重なる。

処置室の入口、出入りするナース、担架に乗せられた人影。

破裂音ではないが、機材の作動音が切り取られ、不安を煽る。


《感染症?》 《EOSだろこれ》 《また隠してる》


タグが増え、言葉が太り始める。

#空港

#緊急受入れ

#EOS

#ヘブンズルーム


事実よりも早く、物語が出来上がっていく。


「助けてる」「隔離してる」「実験してる」

断片が、都合よく繋がる。


《Stage4って何》 《破裂って聞こえたんだけど》 《動画消されてない?》


消されていない。だが、アルゴリズムが選び、拡散する。

その中に、奇妙なコメントが混じり始めた。


《落ち着いて見ればいい》 《あれは“失敗”じゃない》 《身体はちゃんと反応している》


語調は穏やかで、断定はしない。

誰かを責めるわけでも、医療を否定するわけでもない。


《抜けてる人と、抜けきらない人がいるだけ》 《成熟の差だ》


その言葉に、違和感を覚える者は少ない。むしろ、流れの中で薄まっていく。


《意味不明》 《宗教?》 《何様》


だが、そのコメントは消えない。

攻撃的にならず、煽らず、ただ混ざり続ける。


《見てる側が騒ぎすぎ》 《現場は静かだよ》 《門は、いつも音を立てない》


門、という言葉に、反応する者もいる。だが、次の炎上がすぐに上書きする。


「感染拡大」 「空港封鎖」 「政府対応」


恐怖の方が、拡散力が強い。

一方で、処置を終えた患者の書き込みも、ぽつぽつと現れる。


《助かった》 《何が起きてたか分からないけど、生きてる》 

《ナースさん、ずっと声かけてくれてた》


だが、それらは伸びない。

派手じゃない。怖くない。物語にならない。


《やらせ》 《口止めされてる》 《信じるな》


否定の方が、早く届く。

その流れの底で、また同じ調子のコメントが流れる。


《信じなくていい》 《理解もしなくていい》 《ただ、見ていればいい》


まるで、評価を求めていないように。


SNSは止まらない。誰かが不安を吐き、誰かが怒りを煽り、誰かが安心を装う。


そしてその隙間に、静かな言葉だけが、混ざり続けていた。


《熟すまで、待てばいい》 《騒ぐほど、壊れる》


それが誰の言葉なのか、今は、誰も気にしていなかった。



スタジオの照明は均一で、画面は過不足なく整えられていた。

キャスターは正面のカメラを見据え、抑えた声で切り出す。


「空港周辺で行われた緊急医療対応について、続報です」


背後のモニターに、テント群と搬入口の映像が映る。

角度は引き気味で、過剰な演出はない。


「現場では“ヘブンズルーム”と呼ばれる専用設備が稼働したとされています」


隣に座る医療評論家が、小さく頷いた。


「正式名称ではありませんが、臨時の高負荷対応ユニットと考えていいでしょう」

「重要なのは、症状の進行度に応じて処置を分けている点です」


キャスターが言葉を受ける。


「進行度、というのは?」


「病期ステージです。軽度から臨界まで、四段階」

「特にStage3以上は、迅速な介入が生死を分けます」


画面が切り替わり、リモート出演の男性が映る。

年齢は三十代後半。表情は落ち着いているが、どこか疲れが残っている。


「現場で処置を受けたと伺いました」


男性は一瞬、言葉を探し、ゆっくり頷いた。


「正直、何をされているのかは分かりませんでした」

「でも……ずっと声をかけられてました」


キャスターが促す。


「恐怖は?」


「ありました」

「でも、数値を見ながら説明してくれて……」

「今、下がってます。大丈夫です、って」


評論家が補足する。


「数値化は重要です」

「患者にとって、感覚よりも“下がっている”という事実が安心になる」


男性は小さく笑った。


「あと……」

「看護師さんが、やたら明るくて」


スタジオに、わずかな空気の緩みが生まれる。


「真剣なんですけど、言い方が……」

「変に安心しました」


キャスターは頷き、まとめに入る。


「現場では、混乱の中でも淡々と医療が続けられているようです」

「一方で、SNSでは様々な声が飛び交っています」


画面は再び、引きの映像へ。

整えられた言葉と、削られた感情。


放送は静かに終わった。

だが、画面の外では、処置はまだ続いている。



事務局の一室だけが、まだ起きていた。

廊下の照明は落とされ、足音も消えている。

その中で、ドアの隙間から漏れる白い光だけが、この病院が眠っていないことを示していた。


須志は窓際の机に資料を広げたまま、椅子に深く腰を掛けていた。

上着は脱いで背もたれに掛けてある。

ネクタイは緩められ、袖口には小さな折り目が残っている。

今日一日、立ったり歩いたりを繰り返した痕跡だ。


机の上には、三つの書類の山があった。

ひとつは、国庫系の医療危機対応予算。

ひとつは、政策金融機関の医療向け特別融資枠。

そしてもうひとつは、どこにも正式名称のない、企業名だけが伏せられた提案書。


須志は、まず一番無難な山に手を伸ばした。

厚労省ルート。感染症指定、新興疾患対策、臨時医療施設整備費。

書式は見慣れている。言葉も整っている。だが、決裁は遅い。

現場の速度には、どうしても追いつかない。


次に、政策金融機関の資料へ視線を移す。

数字が具体的で、計算がしやすい。

将来の診療報酬増加見込み、返済計画、担保条件。

患者が増えること自体が、数字の裏付けになる構造だ。理屈としては、筋が通っている。


須志は、そこで一度、目を閉じた。

外では救急車の音が遠くに流れ、また消える。

処置室では今も、誰かが数値を見て、声をかけ、手を動かしている。


この部屋で決めることは、明日の現場を変える。

いや、数時間後かもしれない。


ドアの近くに立っていた職員が、静かに声をかけた。


「……先方、繋がりました」


須志は頷き、受話器を取る。

声は落ち着いている。夜更けだが、相手も同じ場所にいるのだろう。


やり取りは短い。

具体的な数字、動かせる時期、表に出せる名目。

須志は、相手の言葉を遮らずに聞き、必要な点だけを確認する。


「はい」

「ええ、その条件で」

「では、仮で進めます」


それだけで、通話は終わった。


受話器を置いた須志は、深く息を吐いた。

決まったのは、すべてではない。だが、動かせる道筋は見えた。


国庫は、後から追いつかせる。

銀行は、先に走らせる。

足りない部分は、別の名目で埋める。


机の端で、事務スタッフが静かにメモをまとめている。

彼女は須志の顔を見て、言葉を待っていた。


「明日の朝までに、仮の予算表を作り直して」

「隔離対応、三十床想定で」


短い指示。

だが、その中には、次のステップがはっきり含まれている。


彼女は頷き、すぐにキーボードへ向かった。


須志は立ち上がり、窓の外を見る。

テントの照明が、規則正しく並んでいる。

仮眠用の一つでは、誰かが影のように横になっているのが見えた。


ここまで来たら、引き返す理由はない。

緊急受入れは、もう“臨時”では終わらない。


須志は机に戻り、最後の資料に目を落とした。

企業名の欄は、空白のままだ。


今は、まだ名前を呼ばない。

必要なのは、資金と時間だけだ。


ペンを置き、書類を揃える。

外では、また一台、車が到着する音がした。


須志は背筋を伸ばし、部屋の灯りを消す。

現場は回っている。

その裏で、次の段階も、静かに動き出していた。

~女子会シャワー~(唯、あいか、お美々)

仮設シャワー室は、夜の病院の裏手に静かに灯っていた。

簡易とはいえ三人が同時に使える設計で、

肩から膝のあたりまでを区切る半透明の間仕切りが並んでいる。

横を向けば、隣の顔が見える。声も、水音に混じって自然に届く。


温水が出た瞬間、三人は同時に小さく息を吐いた。

今日一日、張りつめていたものが、肩からゆっくりほどけていく。


「……生き返る」


唯が天井を見上げて言う。

髪に指を通し、泡立てたシャンプーを丁寧に馴染ませる仕草は、現場の指揮官のそれではない。

帰国してから、ずっと張っていた糸がようやく緩んだのだろう。


「あ、唯さん、その泡の立て方、懐かしい」

あいかが笑う。腕から肘、手首へと石鹸を滑らせ、指の間まできちんと洗う。

医療者の癖が、ここでも抜けない。


「でしょ」

唯は横を向き、あいかの方を見て、口角を上げた。

「あいかちゃん、あいかわらずに素敵なお乳ね」


「ちょ、ちょっと!」

あいかは肩をすくめ、泡のついた手で慌てて胸元を隠す。

「今、それ言います?」


「言うでしょ」

唯は悪びれない。

「無事に戻ってきた記念」


隣では、お美々が腕を高く上げ、脇から背中へと泡を伸ばしていた。

動きは軽快で、リズムがいい。


「それよりさー」

お美々が振り返る。

「唯さん、帰ってきて早々、現場回しすぎじゃないですか?」


「それ、言われると思った」


三人の間に、シャワーの音が一定のリズムで流れる。

お美々は脚に泡を乗せ、膝、脛、足首へと手を滑らせる。その動きに無駄がない。


「お美々ちゃんさ」

唯が、泡を流しながら言う。

「抜き、早くなったね」


一瞬、間が空いた。

次の瞬間、お美々が吹き出す。


「ちょ、言い方!」

「処置の話ですからね!」


「分かってる分かってる」

唯は肩を震わせ、笑いを噛み殺す。

「あれはもう、見事だった」


あいかも、思い出したように頷く。

「数値の下がり方、綺麗でした」


お美々は少し照れたように視線を逸らし、髪を洗い流す。

「……真剣にやってるだけですよ」


その声は、冗談を受け止めつつも、芯がぶれない。

水が流れ、泡が床へ消えていく。


唯は最後に、顔を洗い、両手で水をすくってゆっくりとかけた。

目を閉じると、今日の光景が遠ざかる。


「……戻ってこれてよかった」


ぽつりと落ちた言葉に、二人は何も言わなかった。

代わりに、シャワーの温度を少し上げ、同じ空間に留まる。


やがて水を止め、三人は顔を見合わせる。


「明日も、続くね」

あいかが言う。


「続くねー」

お美々が笑う。


唯は、タオルを肩に掛けながら頷いた。


「だから今夜は、ここまで」


シャワー室の灯りが落ちる。

その静けさの中で、三人はまた、現場へ戻る準備を整えていた。

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