第25話 「緊急受入れー②」
「よし、次!」
唯の声が処置室に落ちた瞬間、あいかの中で余分な思考が切り捨てられた
さっきまで胸の奥に残っていた焦りや恐怖は、意識の底へ押し込められる。
到着と同時に処置が始まる。その繰り返しが、もう当たり前になりつつあった。
説明は後、感情はさらに後回し。今は目の前の身体だけを見る。
ストレッチャーが所定の位置に収まり、照明が患者の腹部を照らす。
皮膚の張りが強く、呼吸は浅い。
あいかはモニターに視線を走らせながら、数値と身体の印象を重ね合わせた。
自然排出でどうにかなる段階ではない。
ジェル処置を要するStage2を越え、明らかに危険域に足を踏み入れている。
「……Stage3ですね」
声に出したのは確認のためだった。
尾美津がすでに患者の傍らに立ち、腹部にそっと手を当てている。
握るというより、触れて確かめる。その一瞬で、彼女の中では多くの情報が整理されていた。
「発作、かなり詰まってる。排液量も多い」
「このままなら、すぐ四に落ちる」
Stage4。
その言葉が示すのは、臓器圧の限界と、破裂の現実だ。
唯が一歩近づき、全体を見渡すようにして言った。
「優先度を上げるわ。あいかちゃん、処置に入って」
あいかは短く息を整え、患者の顔を見た。
痛みと恐怖が混じった視線が、必死に助けを求めている。
「今から処置します」
「圧が抜けるまで少しつらいですが、ちゃんと見ていますから」
言葉は落ち着いているが、内心では時間との綱引きが始まっていた。
カテーテルを進めると、内部の圧がはっきりと指先に返ってくる。
重い。滞留が長い証拠だ。
「……排液、反応が遅い」
あいかの呟きに、芽瑠の淡々とした声が重なる。
「初期膨張度、基準比1.9」
「排液開始後、一・八五。低下速度、想定より遅い」
数値は冷静だ。だが、その裏にある意味は冷たくない。
Stage3は常にStage4と隣り合わせで、ほんのわずかな遅れが取り返しのつかない結果を招く。
尾美津は患者の顔から視線を外さず、微細な変化を追っていた。
「今、眉が寄った」
「まだ我慢してる。無理させないで」
あいかは圧を調整し、流れを変える。
その直後、患者の呼吸が乱れ、喉がかすれた音を立てた。
その瞬間、お美々が自然に前へ出た。
「はい、今ちょっと苦しいですよねー」
「でもね、ちゃんと抜けてきてますから」
声は柔らかく、少しだけ明るい。
医学的な処置ではない。
だが、患者の肩に置かれた手と、その声に合わせるように、呼吸のリズムがわずかに整っていく。
「ほら、一緒に吸って、吐いて」
「そう、それでいいです」
芽瑠が端末を操作しながら告げる。
「循環指数、〇・七九から〇・八四」
「持ち直し始めています」
その数値に、あいかの中で張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。
Stage3の底から、かろうじて引き戻している。
排液が進み、圧が抜けるにつれて、患者の表情がはっきりと変わる。
歯を食いしばっていた口元が緩み、目に浮かんでいた恐怖が薄れていった。
「大丈夫です」
「ここ、越えました」
だが、その安堵は長く続かない。
「次、入ります」
芽瑠の声と同時に、別のストレッチャーが運び込まれる。
あいかは一目で違いを感じ取った。皮膚の色、張り、呼吸の荒さ。
そのすべてが、さきほどの患者より一段深い。
「……Stage4」
その言葉が出た瞬間、処置室の空気が変わった。
臓器圧限界。破裂寸前。延命が困難な領域。
唯は一瞬だけ目を伏せ、すぐに顔を上げる。
「説明は後」
「今は、できるところまでやる」
尾美津が触れた途端、小さく首を振った。
「圧、限界に近い」
「下手に抜けば、一気に崩れる」
お美々の声は、さっきより低かった。
「今、ここにいます」
「一人じゃないですよ」
それは医療行為であり、同時に人としての行為だった。
芽瑠の端末には、無機質な数字が並ぶ。
Stage4症例。
延命成功率、低。
それでも唯は言った。
「やるわよ」
「この人を、ここで切り捨てない」
誰も返事はしない。
代わりに、全員の手が動いた。
ここは緊急受入れの現場だ。
救えるかどうかではない。
今、向き合うかどうかが問われている。
「よし、次!」
唯の声が、再び現場を前に進めた。
◇
搬入口は、もはや「入口」ではなかった。
人と物が絶え間なく流れ込み、押し出され、再配置される――巨大な循環装置の中心部だ。
ストレッチャーが一台、また一台と滑り込んでくるたび、床に引かれた簡易ラインが意味を持つ。
止める位置、向きを変える角度、次に進む順番。
誰かが大声で指示を出しているわけではないのに、動きは揃っていた。
遅れた一台があれば、すぐに誰かが肩を入れ、軌道を修正する。
「こっち、番号順で!」
「奥、詰まってる、手前一旦止めて!」
ナースたちは声を掛け合いながらも、足を止めない。
台車に載せられた医薬品や備品が、ガタガタと音を立てて通路を走る。
点滴セット、ジェル、消耗品。今すぐ使うものだけが、迷いなく選ばれている。
倉庫に戻る余裕はない。必要な物は、現場に持ち込むしかなかった。
外では、自衛隊の動きが静かに終わりを迎えていた。
テントはすでに張り終え、補強も確認済み。
照明の角度が微調整され、電源ケーブルがまとめられる。誰も声を荒げない。合図も最小限だ。
任務が完了したことを、動きそのものが示している。
「撤収、開始します」
短い報告とともに、隊員たちは余分な資材をまとめ、車両へと戻っていく。
彼らの背中が遠ざかるにつれ、この場は完全に“医療の領域”へと引き渡された。
同時に、大型トラックの荷台が開く。
運送作業員たちは、積まれた物資を一瞥すると、迷うことなく必要なものだけを選び取った。
毛布、簡易ベッド、消毒資材、飲料水。
段ボールはすぐに解体され、内容物だけが床に整然と並べられていく。
「これは処置側!」
「こっちは休憩スペース!」
誰が指示したわけでもない。
だが、場の空気が役割を決めていた。
須志はその中心に立ち、全体を見渡していた。
腕時計を見ることはない。今、重要なのは時間ではなく、滞りが生じていないかどうかだった。
「この列、先に通して」
「医薬品、ここで一度集約」
声は大きくない。だが、確実に届く。
須志の傍らには、事務スタッフが三人ついていた。男二人、女一人。
いずれも普段はデスクに向かう人間だ。だが今は、書類よりも足を動かしている。
「在庫、チェックしました!」
「不足分、リスト更新します!」
一人がタブレットを操作し、もう一人が無線で連絡を取る。
女性スタッフは、運ばれてくる資材を見ながら、配置図を書き換えていた。
誰もが専門外だが、須志の指示の下で、それぞれが役割を持って動いている。
「判断は俺がする」
須志は言った。
「迷ったら、聞け。勝手に止まるな」
その言葉が、彼らを前に進ませる。
応援で駆けつけた医療従事者たちも、次々に合流していた。
名札の色も、所属も違う。だが、ここではそれが問題になることはない。
「どこ入ります?」
「空いてるところ、全部です!」
誰かが冗談めかして言い、すぐに動き出す。
笑いは一瞬で消え、代わりに集中が張り付く。
ナースたちは小走りで行き交い、ストレッチャーの間を縫うようにして消耗品を補充する。
汗で前髪が額に張り付いても、拭う時間はない。
代わりに、互いの動きを見て、必要なものを差し出す。
「これ、次使うでしょ」
「助かります!」
短いやり取りが、連鎖していく。
搬入口は騒がしい。だが、混乱はない。
ここで起きているのは、即席の秩序だ。
誰か一人が全体を支配しているわけではない。
須志の判断を軸に、それぞれが自分の役割を理解し、動いている。
そして、その流れの先には、処置室がある。
止まれば、すぐに詰まる。
詰まれば、命に直結する。
だから誰も、止まらない。
物が入り、人が動き、役目を終えた者が静かに去る。
そのすべてが、当たり前のように繰り返されていく。
搬入口は、今日も飲み込み続けていた。
緊急受入れという名の流れを。
◇
テントの列は、いつの間にか“そこにあるのが当たり前”の景色になっていた。
数時間前までは、ただの駐車スペースだったはずの場所だ。
今は布と支柱が整然と並び、夜の照明を受けて淡く白く浮かび上がっている。
須志は、その列の端から端までを歩いた。
歩幅は一定で、急ぎすぎない。だが、止まらない。
テントの入口には、白いプレートが貼られていた。
印刷された文字は簡素で、余白が多い。ラミネート加工された表面が、照明を受けて鈍く光る。
「……ここは、仮眠だな」
誰に向けたでもない独り言だった。
だが、その一言で、役割が再確認される。
職員仮眠・回復用。
医療資材・消耗品前線倉庫。
軽度患者 一時処置・経過観察。
それを貼って回っているのは、事務局の女性社員だった。
彼女は一つ貼るごとに、指で端を押さえ、剥がれないかを確かめる。
「次、こちらで合ってますか?」
須志は足を止めず、頷いた。
「それでいい」
短いやり取り。だが、迷いは消える。
足元では、運送作業員が段ボールを崩し、必要な物だけを床に並べている。
余分な梱包材は脇へ寄せられ、すでに回収用にまとめられていた。
「これ、処置側に回します」
「了解、そっち先で」
声は低く、急がない。だが動きは速い。
少し離れた場所では、自衛隊員が撤収作業を進めていた。
照明の位置が確認され、電源が落とされる。
「……以上です」
短い報告に、須志は軽く頷いた。
それ以上の言葉は要らない。
須志は腕時計を見なかった。
代わりに、仮眠用テントから出てきたナースに目を向ける。
「行けます」
そう言って、彼女はフェイスシールドを下ろし直し、処置室の方向へ向かった。
その背中を見送りながら、須志は小さく息を吐く。
人が、戻っている。
それだけで、ここは回る。
須志は端末を取り出し、画面を切り替える。
数字が並ぶ。まだ仮の数字だ。
院長が、少し離れた場所に立っていた。
「……形になったな」
須志は端末を閉じ、短く答える。
「名前より先に、動きました」
院長は何も言わず、テントの列を見渡す。
軽度患者用のテントの前で、看護師が腰を落とし、患者と同じ目線で確認を続けている。
「止める場所があると、違う」
それだけ言って、院長は視線を戻した。
須志の胸の奥に、わずかな重みが残る。
これは、正式な計画ではない。
だが、すでに運用だ。
事務局の女性社員が、最後のプレートを貼り終えた。
「全部、貼りました」
「ありがとう」
須志はそれだけ返す。
ナースが走り、物資が運ばれ、休んだ人間が戻り、限界の人間が抜ける。
止まっているものは、何一つない。
須志は深く息を吸い、吐いた。
「……通すしかないな」
その言葉は、誰にも聞かせないまま、夜に溶けた。
~事務屋 須志有喜次長~
須志は、簡易テントの配置図を指先で押さえたまま、隣に立つ女性職員へ視線を向けた。
彼女は事務局配属で、こうした現場対応は本来の業務ではない。
それでも今は、須志のすぐ横で指示を受け、動線を書き換え、必要な連絡を回している。
「二十張りあるからって、同じ使い方はしない」
須志は低い声で言った。説明というより、思考の共有に近い。
「まず、人が倒れないための場所が要る。だから仮眠用を最優先」
指が三か所をなぞる。
「ここは照明を落とす。静かにする。短時間でも横になれることが重要だ」
次に、別の区画を示す。
「次が物」
「医薬品と消耗品は、病院の倉庫に取りに戻る距離じゃない。ここを前線倉庫にする」
彼女が小さく頷き、メモを取る。
「最後が、軽度の人を止める場所」
須志は一瞬、言葉を選んだ。
「入れないんじゃない。今は中に入れないだけだ」
Stage1から初期のStage2。
まだ破裂の危険は低いが、放置もできない層。そこを受け止める場所がなければ、内部が詰まる。
「だから用途は固定しすぎない」
「状況で、仮眠と倉庫は入れ替える。余ったテントは予備」
女性職員が顔を上げる。
「全部、事前に決めてたんですか?」
須志は、配置図から目を離さず答えた。
「“こうなったら”じゃ遅い」
「“なりそうだ”で動かないと、現場は間に合わない」
それだけ言って、ペンを渡す。
「プレート、貼り替えが必要になったら、あなたの判断でいい」
「迷ったら、まず人を休ませる」
彼女は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに背筋を伸ばした。
「……分かりました」
須志は小さく頷く。説明はこれで十分だ。
テントは、布と骨組みの集合体にすぎない。
だが、使い分けを間違えなければ、人と物と時間を支える拠点になる。
須志は配置図を畳み、視線を上げた。
外では、また一人、仮眠を終えた職員が現場へ戻っていく。
――これでいい。
今は、それだけを積み上げればいい。
後の評価は、全部あとだ。




