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第24話 「緊急受入れー①」

須志有喜は、走ってはいなかった。


だが、止まってもいなかった。


病院の裏動線を、最短距離で、最短時間で、次々に渡り歩く。

廊下、階段、連絡通路。

どこに行っても、彼の声が先に届く。


「その備品、三十分以内に」

「足りない分は、南病院から回して」

「書類は後。今は人を動かす」


言い切り。確認を待たない。

返事が遅れれば、次の指示が飛ぶ。


周囲は、少し引いていた。


判断が早すぎる。準備が整いすぎている。

まるで、この状況が来ることを、ずっと前から分かっていたかのように。


「須志次長、ヘブンズルームは——」


「二台来る」即答だった。

「到着まで、四十五分。遅れても五十分」

「それまでに、通す導線を全部作る」


ヘブンズルーム。

正式名称すら、まだ内部でしか共有されていない移動式処置ユニット。

その受け入れ準備を、須志は一人で引き受けていた。


「酸素ライン、仮設で二系統」

「電源、非常回線を優先」

「音は遮る。外に聞かせない」


誰も口を挟まない。挟めない。


通常なら、会議が要る。承認が要る。書類が山のように積み上がる。


だが今は、違う。

須志はそれを、最初から捨てていた。


「応援要請、出してます」

「近隣三院、提携二院」

「医師、看護師、臨床工学技士、合わせて五十七名」


数字が即座に出る。迷いがない。


「足りない分は?」

誰かが恐る恐る聞く。


「足りない前提で動いてる」

須志は歩きながら答える。

「だから、重なるところは削る。役割は単純化」

「ヘブンズゲート科は、今から“特例”になる」


その言葉に、空気が変わった。


特例。それは、病院の論理を一つ、壊すという意味だ。


須志は、立ち止まった。

搬送口の前。これから、最も血と音と判断が集中する場所。


「ここでは、選別しない」

「選別は、もう終わっている」

「ここに来た人間は、全員“通す”」


誰かが息を飲む。


それが、どれほど無茶か。

どれほど責任を背負うか。


須志は分かっている。分かっていて、言っている。


「ヘブンズルームが来る前に」

彼は、静かに言った。

「人を、迎えられる場所にしてやりたい」


それは、裏方の言葉だった。医師でも、看護師でもない人間の、覚悟。


その背中を、院長が見ていた。

「……須志」


低い声。止めるためではない。


「やるなら、最後までだ」

院長はそう言って、須志の横に立つ。

「責任は、俺が取る」


須志は、ほんの一瞬だけ視線を向けた。

感謝も、驚きも、言葉にしない。


「承知しました」


それだけで、十分だった。


二人とも、腹を括っている。戻る場所は、もうない。


時計が進む。ヘブンズルーム到着まで、残り三十五分。


須志は再び歩き出す。走らず、止まらず。


誰も気づかないところで、

この病院の形が、静かに変わり始めていた。



須志有喜は、立ち止まらなかった。


走らない。だが、常に人の流れの先頭にいる。


「ストレッチャー、搬送口に集約」

「二列で並べる。奥から順に番号振って」

「通路は中央一本、絶対に潰すな」


若いナースが目を丸くする。

「え……二十台以上、ここに……?」


数を見て、息を呑む。中規模病院で、一生に一度あるかどうかの光景だ。


「多い?」須志は足を止めずに言った。

「多い前提で動いて」


冷静すぎる声に、周囲の温度が一段下がる。


「酸素ボンベ、足りません!」

「分かってる。外に出してる」

「到着は?」


「十五分後です!」

「十分。配置を先に決める」


須志は、すでに頭の中で完成図を描いている。

どこに何を置くか。どこが詰まるか。誰が疲れるか。


「応援の先生方、こちらです!」

職員の声と共に、白衣の集団が流れ込む。


名札の色が違う。病院名も違う。だが、誰一人、状況説明を求めない。


見れば分かるからだ。

院長が、その中の一人に気づいた。


「……やぁ」


わずかに目を細める。


「久しぶりだね。頼むね」


それだけ。握手もない。長話もない。

相手は頷き、すぐに袖をまくった。


「医師班、こちら!」

「看護、三区画に分けます!」


数が増えるにつれ、音も増える。だが、混乱は起きない。

須志の指示は、すでに“先の一手”を含んでいる。


「物品、ここに集めるな」

「散らして。取りに走らせない」

「疲れたら交代。ヒーローはいらない」


誰かが小さく呟く。

「……手慣れてる」


違う。手慣れているのではない。覚悟しているのだ。


外では、別の音がしていた。

金属が組まれる音。布が張られる音。


自衛隊だ。

二十張りのテントが、無言で立ち上がっていく。

命令の声は聞こえない。合図もない。それでも、形が揃っていく。


大型トラックが横付けされ、物資が降ろされる。

須志は、遠目に一度だけ確認した。


「……よし」


それだけ。院内では、さらに物が集まり始めていた。

仕出し弁当。飲料水。菓子パン。


「職員用です!」

「匂い出さないよう、裏で!」


「了解!」


さらに。

タオル。替えの靴下。簡易充電器。延長コード。

ホワイトボードと、太いマーカー。


「掲示は一箇所にまとめて!」

「情報が散ると、人が迷う!」


須志の声が、場を縫う。


「仮設シャワー、3人用を2基、設置完了です!」

「トイレも、裏に5基!」


一瞬、ざわめきが走る。だが須志は言う。


「長丁場だ人は、清潔と排泄を奪われると、壊れる」

「交代用に。男女で分けて使ってくれ」


誰も反論しない。


時計を見る者はいない。だが、全員が感じている。何かが来る。


そのときだった。遠くから、低いエンジン音。

一台ではない。二台。


須志が、初めて立ち止まる。


「……来たな」


搬送口のシャッターが開く。


白い車体。重厚な扉。――ヘブンズルーム。


須志は一歩前に出た。


「全員、配置につけ」


その声は、静かで、確信に満ちていた。

舞台は整った。あとは、開けるだけだ。



須志が呼ばれたのは、空港封鎖が「検討段階」にある頃だった。


会議室は簡素で、記録用の端末も立ち上がっていない。

あくまで非公式。

ここで話されたことは、まだ「なかったこと」にできる。


相手の男は、名刺を一枚だけ差し出した。

医療支援事業を主とする民間企業。

業界では、名前を聞いたことがある程度の存在だ。


「単刀直入に申し上げます」


男は腰を落ち着けると、前置きを省いた。


「貴院で検討されている臨時医療体制拡張案について」

「弊社として、出資を提案したい」


須志は表情を変えない。


「金額は、十五億円」

「即時拠出が可能です」


院長が、ゆっくりと視線を上げた。


「……条件は」


「治療内容、人事、運営には一切口を出しません」

「書面にも、その旨を明記します」


男は、そこまで言ってから、ほんの一拍だけ間を置いた。


「ただし。データの取り扱いについては、将来的に“協議”の余地を」


曖昧で、逃げ道の多い言葉だった。


須志は、資料に目を落とす。

金額は現実的だ。多すぎず、しかし“ありがたすぎる”。


「政府への報告は?」

須志が聞く。


男は、首を横に振った。


「現時点では、不要でしょう」

「正式な隔離病棟計画が立ち上がってからで構いません」


それはつまり、今は、病院の判断だけで動けという意味だった。


院長が、低く息を吐く。

「随分と、話が早い」


「医療危機対応は、速度が命です」

男は、穏やかに答える。

「特に、空港という条件が絡む場合は」


須志の指先が、僅かに止まった。


「……まだ、封鎖は決まっていません」


「承知しています」

男は即答した。

「ですから、これは“準備”です」


準備。その言葉が、静かに部屋に落ちる。

沈黙の中で、須志と院長は一瞬だけ視線を交わした。言葉は要らない。


この金があれば、設備が整う。人が呼べる。時間が買える。

そして同時に、一歩、戻れなくなる。


「書面は受け取ります」

須志が言った。

「精査の上、こちらから連絡を」


男は立ち上がり、深くも浅くもない礼をした。


「ご英断を期待しています」


扉が閉まる。しばらく、誰も口を開かなかった。


院長が、ぽつりと呟く。

「政府に話す前に、金が動く……か」


須志は答えない。ただ、資料を静かに閉じた。


隔離病棟計画は、まだ始まっていない。

だが、その足元には、すでに民間の金が置かれていた。


それだけで、十分に重かった。



夜になっても、病院の灯りは落ちなかった。


会議室の机には、紙が積まれている。正式文書ではない。メモ、想定、仮置きの数字。

だが、どれも「後でなかったことにできない」重さを持っていた。


須志は、ホワイトボードに短い言葉を書いていく。


――臨時医療体制拡張案

――特例病床

――観察・研究スペース


どれも、隔離病棟とは書かれていない。


「名前は、まだ要らない」

須志が言う。

「名前が付いた瞬間、行政が止めに来る」


院長は頷いた。


「金の流れは?」

「三本です」

須志は即答する。


「国庫は“枠だけ”押さえました」

「正式執行は、空港封鎖後」

「研究費は、観察名目で先に回せます」


一瞬、言葉を切る。


「……民間は、即動きます」


院長は何も聞かない。どの民間か。なぜ早いか。

聞けば、踏み込むことになる。


「政府窓口には?」

院長が問う。


「まだです」

須志は、迷いなく言った。

「芽瑠には、正式決定が出てから話します」


それは、裏切りではない。順序の問題だ。


「先に言えば、止められる」

須志は続ける。

「止められれば、人が死ぬ」


院長は、静かに椅子にもたれた。


「……責任は」


「僕が引きます」

須志は即答した。

「行政手続き、資金調達、越権の判断」

「全部、次長権限でやったことにします」


院長は、ゆっくりと首を振る。


「それは、俺の役目だ」


須志が顔を上げる。


「院長は、医療の責任を取ってください」

「行政と金は、僕が汚れます」


短い沈黙。


やがて院長は、低く笑った。


「……若いな」


だが、その声に拒絶はなかった。


「いいか、須志」

院長は言う。

「これは“正しい医療”の話じゃない」

「“通す医療”の話だ」


須志は、深く頷く。


「承知しています」


院長は立ち上がり、窓の外を見る。

救急灯。仮設テント。動き続ける人影。


「隔離病棟計画は、空港が閉じてから始まったことにする」

院長は言った。

「それ以前の動きは、全部“準備”だ」


須志は、その言葉をメモに残す。


準備。便利で、残酷な言葉。


「いいか」

院長は続ける。

「後で何を言われても、俺はこう言う」


一拍置く。


「あの時、やらない理由がなかった」


須志は、ペンを置いた。その一文で、すべてが決まった。


隔離病棟は、まだ存在しない。

だが、行政の理屈も、金の裏付けも、すでに形を持ち始めている。


正しさより先に、通ってしまったものがある。

それが、この病院の選択だった。

「その予算、どこから出てきたんですか?」

〜公的医療危機対応予算・超やさしい(?)実務解説〜


突然ですが、非常時に一番早く集まるものは何でしょう。

医師? 物資? 善意?


答えは――書類です。


災害や医療危機の現場では、白衣より先に「それっぽい名前の予算」が走ります。

今回よく耳にするのが、この二つ。


・緊急医療体制整備補助金

・臨時医療施設整備費


名前だけ見ると、もう勝った気になります。

「緊急」「整備」「補助」「臨時」

便利な言葉のフルコースです。


ポイントは、この予算たち、病名が確定していなくても動くということ。


条件はだいたい、こうです。


・感染症指定、または新興疾患の可能性

・集団発生

・社会インフラ(空港・港湾・都市機能)への影響


はい、揃いました。

この三点が並んだ瞬間、行政の頭の中ではこう翻訳されます。


「……これ、後で怒られるやつだ」

→「今、金を出さないともっと怒られるやつだ」


ここが分かれ道です。


この予算は、「完全に正しい医療」を支援するためのものではありません。

「後で説明できる行動」を取るための資金です。


つまり、


・治るかどうかは分からない

・でも何もしなかったとは言えない

・だから“体制”を整えたことにする


このロジックが通った瞬間、

病棟は「治療の場」から「整備対象」に昇格します。


隔離病棟?

研究施設?

仮設医療?


名称は後で決めればいい。

大事なのは、今、動いているという事実。


さらに便利なのが、

「研究・観察名目」。


これを付けると、設備費も、人件費も、マニュアル作成も、

全部「未来のため」に変換されます。


失敗しても、

「貴重なデータが得られた」で終了。


成功すれば、

「想定以上の成果」。


この世界、成功も失敗も、だいたい勝ちです。


ビジネス書っぽくまとめるなら、こう。


・未定義の病は、最大の交渉材料

・数字で語れる危機は、予算を動かす

・「今なら間に合う」は、魔法の呪文


医療の現場では、

正しさよりも、通る理由が金を連れてきます。


そして一番大事なこと。


これらの予算は、

誰かが使わないと消える。


だから現場は、今日も走ります。

書類を書きながら、命を拾いながら。


「やらなかった理由」を作るより、

「やった理由」を積み上げるために。


――以上、

公的医療危機対応予算の世界からお送りしました。


なお、本稿はあくまで

フィクションであり、実在の制度とはだいたい似ているだけです。

たぶん。

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