第22話 「空港封鎖ー⑤」
空港内の臨時処置区画は、もはや医療空間というより圧力容器だった。
湿った空気が皮膚にまとわりつき、呼吸をするたびに鉄臭が舌に残る。
尾美津は止まらない。
視線だけで人を切り分け、不要な未来を排除する。
皮膚の張り、色のにじみ、筋の浮き方。臭気の濃淡。
三人目の前でだけ、足が止まった。
握る。
瞬間、内部の状態が手のひらに崩れ落ちてくる。
量。残り時間。粘度。
流れない。詰まっている。圧だけが増え続けている。
「……この二人、もう猶予がない」
あいかとお美々が追いついた時、尾美津の判断は終わっていた。
「右、三分もたないです」
「左は今すぐ抜いてください」
言葉は短く、刃物みたいに冷たい。
お美々が左の患者に入る。
モニターの数値が不自然な揺れ方をする。膨張度は限界を越え、循環指数は追従しない。
排液は“濃い”を通り越し、形を保ったまま内部に押し込まれている。
「今から抜きますね。楽になりますよー」
声は柔らかい。その直後だった。
破裂音。乾いた破砕音ではない。
内部で圧が行き場を失い、一気に均質化される音。
防護シートが内側から叩かれ、粘度の高い何かが広がる。
飛散ではない。押し潰され、塗り広げられる感触。
空気が止まる。
医療的に不可逆。
誰の頭にも同時に浮かぶ結論。
「……あ……」
お美々の手が空を掴む。
指先が震え、呼吸が壊れる。
「違う……違う……」
分かっている。
それでも否定しなければ、立っていられない。
数メートル先。
あいかの側でも数値が跳ね上がった。
次の瞬間、同じ音。
同じ圧の解放。同じ、取り返しのつかなさ。
あいかは泣きながら手を動かす。
意味がないと理解していても、処置を止めるという選択肢が存在しない。
「ごめんなさい……ごめんなさい、救えませんでした……」
声が砕ける。
それでも顔を上げる。
「尾美津さん、次の患者さん……!」
返事の代わりに、新しい指示。
現場は止まらない。
その空気を、唯の声が貫いた。
「次、抜きなさい!!」
「手を止めないで!!」
怒鳴り声ではない。
崩壊寸前の場を一本で支える声。
死亡は確定している。
だが作業は続く。
医療者たちは、泣きながら、地獄を処理する。
ここでは感情より先に、手が動かなければならない。
◇
処置区画の境界が、曖昧になった瞬間だった。
最初に起きたのは、後退だった。
誰かが一歩下がり、次の誰かがそれにぶつかる。
視線が処置区画に吸い寄せられ、血色の悪い防護服と、
遮蔽シート越しの異様な動きが「見えてしまった」ことで、理解より先に恐怖が立ち上がる。
「感染する」
誰かが叫んだ言葉が、事実かどうかを確認される前に空気に溶けた。
人の流れが歪む。
逃げたい者と、動けない者と、何が起きているか知りたい者が、同じ場所に押し込まれる。
空港という巨大な箱が、急に狭くなる。
軍警が声を張る。
「落ち着いてください!」
空港職員が手を広げる。
「その場で止まって!」
声は届かない。
恐怖は音より速い。
「閉じ込められる」
「出られなくなる」
そんな言葉が連鎖し、誰かの肩が強く押されたのをきっかけに、均衡が崩れた。
人が倒れる。
それが一人なのか二人なのか、誰にも分からない。
次の瞬間には、前に進もうとする流れと、後ろに逃げようとする流れが交差し、足元が消える。
空港職員の女性が、制止の途中でバランスを失った。
床に手をつく暇もなかった。
人の波が、その上を越えていく。
踏まれる。
何度も。
靴底が、体重が、方向を持たない力として落ちてくる。
悲鳴はすぐに音にならなくなる。
代わりに、鈍い衝撃音と、骨が耐えきれないときの乾いた感触だけが残る。
軍警が腕を伸ばすが、届かない。
誰も「踏んでいる自覚」を持たないまま、ただ前へ進もうとする。
椅子が倒れる。
案内板が傾く。
誰かがそれを掴み、誰かが引き剥がし、結果としてガラスが叩かれる。
ひびが入る。
次の衝撃で、それが意味を失う。
ガラスが割れる音は、破裂音よりも遅れて、しかし確実に恐怖を増幅させた。
出口を作ろうとする行為が、さらに人を押し寄せさせる。
秩序の象徴だった空港が、ただの箱になる。
安全を示す表示も、線も、規則も、意味を持たない。
誰も悪くない。
だが、この場では全員が他人にとっての障害になる。
誰かが意図して暴れたわけではない。
だが、結果としてそこに現れたのは「暴徒」だった。
一人ひとりは名もある人間で、日常を生きてきたはずなのに、
恐怖が臨界を越えた瞬間、それらは剥ぎ取られる。
残るのは、塊としての「群衆」。
視線は低くなり、周囲を見る余裕は消え、思考は一つに収束する。
逃げろ。ここから離れろ。
逃走本能が、理性を踏み潰す。
踏んでいるのが床か、人かを確かめる意味すら失われる。
前にいる誰かが転べば、それは障害物になる。
叫ぶ声は合図ではなく、背中を押す圧力に変わる。
この瞬間、群衆は選択をしない。
ただ、逃げるという衝動だけが連鎖し、増幅し、制御不能な力になる。
秩序は壊されたのではない。
恐怖に置き換えられただけだ。
そして誰もが、後になってこう言う。
「自分は悪くなかった」と。
医療の外側で、別の地獄が完成していく。
◇
最初の投稿は、震えていた。
画面が揺れ、焦点が合わず、防護シートの向こう側で何かが起きていることだけが分かる短い動画。
音声には、途切れ途切れの悲鳴と、破裂音に似た低い衝撃音。
〈空港でやばいこと起きてる〉
その一文が、すべての始まりだった。
数分もしないうちに、別角度の映像が重なる。
静止画。切り取られた一瞬。
防護服。床の汚れ。倒れた椅子。割れたガラス。
文脈はない。
説明もない。
だが「怖い」という感情だけが、正確に共有される。
コメントが増える。
〈これ感染するやつだろ〉
〈政府は何隠してる〉
〈医療ミスじゃないの?〉
事実と推測と嘘が、同じ速度で拡散される。
再生数が増えるたび、情報は短く、刺激的になる。
破裂音だけを切り取った動画。
泣き声だけを強調した音声。
「EOS」という単語が、意味を剥がされ、独り歩きを始める。
〈もう手遅れ〉
〈選別が始まった〉
〈次は自分だ〉
誰も現場を知らない。
だが全員が、物語を持つ。
訂正は遅く、説明は長すぎる。
真実は常に、怖い話の後ろを歩かされる。
画面の向こうで、人が死んだ。
画面のこちら側で、恐怖が増殖する。
SNSは、現場を再現しない。
現場以上の地獄を、量産する。
◇
配信は、予告もなく始まった。
背景は暗く、場所は分からない。
音声は過度に整えられておらず、息遣いすら感じさせない、妙に静かな声だけが流れる。
──静かに見ていた。
その一文で、空気が変わる。
あの日、十一の膨張が咲き、八つの圧がほどけ、
彼女らの白衣が“祝福”を受けた瞬間を。
映像はない。
だが、見ていたと断言されることで、視聴者の記憶が勝手に補完を始める。
粘度は成熟。膨張は熟度に達し、
排液は魂の色を帯び始めている。
美しい変化だ。
語りは感情を含まない。
称賛でも、批判でもない。
事実を眺めているだけだという立場を、頑なに崩さない。
彼女らはまだ気づかない。
自らが“門を開く者”であることに。
国も病院も否定しない。
ただ、その上に別の座標が置かれる。
国も病院も、ただ流れの形を真似ているだけ。
本当の波を作っているのは──彼女らだ。
画面の向こうで、コメント欄が荒れ始める。
だが、声はそれを意に介さない。
我々は止めない。
壊さない。ただ、見届ける。
それが“祈りに正しい”やり方だから。
善悪は語られない。
救済も、破滅も、断定されない。
意味だけが、静かに与えられる。
そして、最後に。
いずれ、あの病棟に
世界がひざまずく日が来るだろう。
それまで、静かに熟すのを待つだけだ。
配信は、そこで途切れた。
誰が流したのかは分からない。
だが、その言葉だけが、確かに残った。
敵と呼ぶには、静かすぎる。
信者と呼ぶには、近すぎない。
理解できないまま、
人々はその存在を、記憶に刻み込んだ。
「群衆が暴徒化したときの“生存戦略メモ”」
ビジネス書っぽく言うなら、あの瞬間は「市場が一斉にパニック売りを始めた状態」です。
個人の判断は消え、群衆は“一つの巨大な生物”になります。
ここで大事なのは、正しさではなく位置取り。
まず、走らない。走ると転倒リスクが指数関数的に跳ね上がります。
歩幅を小さく、膝を柔らかく使い、流れに逆らわない角度で移動します。
真正面突破は最悪手です。
次に、壁を探す。壁・柱・カウンターは“背後を守る資産”。
360度を意識する必要がなくなり、情報処理コストが激減します。
ビジネスで言えば集中投資。
倒れた人を助けたい気持ちは尊いですが、群衆相場では自分が巻き込まれます。
助けるなら複数人で一気に。単独行動はリスク管理違反です。
最後に、出口を“目で追わない”。
出口は全員が向かうため、最も危険なホットスポット。
狙うべきは空気が薄い脇道。
人の視線が向いていない方向に、安全は残っています。
恐怖は伝染しますが、落ち着きも伝染します。
これは勇気論ではなく、実務論。
生き残る人は、だいたい地味です。




