表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
70/100

第22話 「空港封鎖ー⑤」

空港内の臨時処置区画は、もはや医療空間というより圧力容器だった。

湿った空気が皮膚にまとわりつき、呼吸をするたびに鉄臭が舌に残る。


尾美津は止まらない。

視線だけで人を切り分け、不要な未来を排除する。

皮膚の張り、色のにじみ、筋の浮き方。臭気の濃淡。

三人目の前でだけ、足が止まった。


握る。


瞬間、内部の状態が手のひらに崩れ落ちてくる。

量。残り時間。粘度。

流れない。詰まっている。圧だけが増え続けている。


「……この二人、もう猶予がない」


あいかとお美々が追いついた時、尾美津の判断は終わっていた。


「右、三分もたないです」

「左は今すぐ抜いてください」


言葉は短く、刃物みたいに冷たい。


お美々が左の患者に入る。

モニターの数値が不自然な揺れ方をする。膨張度は限界を越え、循環指数は追従しない。

排液は“濃い”を通り越し、形を保ったまま内部に押し込まれている。


「今から抜きますね。楽になりますよー」


声は柔らかい。その直後だった。


破裂音。乾いた破砕音ではない。

内部で圧が行き場を失い、一気に均質化される音。


防護シートが内側から叩かれ、粘度の高い何かが広がる。

飛散ではない。押し潰され、塗り広げられる感触。


空気が止まる。


医療的に不可逆。

誰の頭にも同時に浮かぶ結論。


「……あ……」


お美々の手が空を掴む。

指先が震え、呼吸が壊れる。


「違う……違う……」


分かっている。

それでも否定しなければ、立っていられない。


数メートル先。

あいかの側でも数値が跳ね上がった。


次の瞬間、同じ音。

同じ圧の解放。同じ、取り返しのつかなさ。


あいかは泣きながら手を動かす。

意味がないと理解していても、処置を止めるという選択肢が存在しない。


「ごめんなさい……ごめんなさい、救えませんでした……」


声が砕ける。

それでも顔を上げる。


「尾美津さん、次の患者さん……!」


返事の代わりに、新しい指示。

現場は止まらない。


その空気を、唯の声が貫いた。


「次、抜きなさい!!」

「手を止めないで!!」


怒鳴り声ではない。

崩壊寸前の場を一本で支える声。


死亡は確定している。

だが作業は続く。


医療者たちは、泣きながら、地獄を処理する。

ここでは感情より先に、手が動かなければならない。



処置区画の境界が、曖昧になった瞬間だった。


最初に起きたのは、後退だった。

誰かが一歩下がり、次の誰かがそれにぶつかる。

視線が処置区画に吸い寄せられ、血色の悪い防護服と、

遮蔽シート越しの異様な動きが「見えてしまった」ことで、理解より先に恐怖が立ち上がる。


「感染する」

誰かが叫んだ言葉が、事実かどうかを確認される前に空気に溶けた。


人の流れが歪む。

逃げたい者と、動けない者と、何が起きているか知りたい者が、同じ場所に押し込まれる。

空港という巨大な箱が、急に狭くなる。


軍警が声を張る。

「落ち着いてください!」

空港職員が手を広げる。

「その場で止まって!」


声は届かない。

恐怖は音より速い。


「閉じ込められる」

「出られなくなる」

そんな言葉が連鎖し、誰かの肩が強く押されたのをきっかけに、均衡が崩れた。


人が倒れる。


それが一人なのか二人なのか、誰にも分からない。

次の瞬間には、前に進もうとする流れと、後ろに逃げようとする流れが交差し、足元が消える。


空港職員の女性が、制止の途中でバランスを失った。

床に手をつく暇もなかった。

人の波が、その上を越えていく。


踏まれる。

何度も。

靴底が、体重が、方向を持たない力として落ちてくる。


悲鳴はすぐに音にならなくなる。

代わりに、鈍い衝撃音と、骨が耐えきれないときの乾いた感触だけが残る。


軍警が腕を伸ばすが、届かない。

誰も「踏んでいる自覚」を持たないまま、ただ前へ進もうとする。


椅子が倒れる。

案内板が傾く。

誰かがそれを掴み、誰かが引き剥がし、結果としてガラスが叩かれる。


ひびが入る。

次の衝撃で、それが意味を失う。


ガラスが割れる音は、破裂音よりも遅れて、しかし確実に恐怖を増幅させた。

出口を作ろうとする行為が、さらに人を押し寄せさせる。


秩序の象徴だった空港が、ただの箱になる。

安全を示す表示も、線も、規則も、意味を持たない。


誰も悪くない。

だが、この場では全員が他人にとっての障害になる。


誰かが意図して暴れたわけではない。

だが、結果としてそこに現れたのは「暴徒」だった。


一人ひとりは名もある人間で、日常を生きてきたはずなのに、

恐怖が臨界を越えた瞬間、それらは剥ぎ取られる。

残るのは、塊としての「群衆」。


視線は低くなり、周囲を見る余裕は消え、思考は一つに収束する。

逃げろ。ここから離れろ。


逃走本能が、理性を踏み潰す。

踏んでいるのが床か、人かを確かめる意味すら失われる。


前にいる誰かが転べば、それは障害物になる。

叫ぶ声は合図ではなく、背中を押す圧力に変わる。


この瞬間、群衆は選択をしない。

ただ、逃げるという衝動だけが連鎖し、増幅し、制御不能な力になる。


秩序は壊されたのではない。

恐怖に置き換えられただけだ。


そして誰もが、後になってこう言う。

「自分は悪くなかった」と。


医療の外側で、別の地獄が完成していく。



最初の投稿は、震えていた。


画面が揺れ、焦点が合わず、防護シートの向こう側で何かが起きていることだけが分かる短い動画。

音声には、途切れ途切れの悲鳴と、破裂音に似た低い衝撃音。


〈空港でやばいこと起きてる〉

その一文が、すべての始まりだった。


数分もしないうちに、別角度の映像が重なる。

静止画。切り取られた一瞬。

防護服。床の汚れ。倒れた椅子。割れたガラス。


文脈はない。

説明もない。

だが「怖い」という感情だけが、正確に共有される。


コメントが増える。


〈これ感染するやつだろ〉

〈政府は何隠してる〉

〈医療ミスじゃないの?〉


事実と推測と嘘が、同じ速度で拡散される。

再生数が増えるたび、情報は短く、刺激的になる。


破裂音だけを切り取った動画。

泣き声だけを強調した音声。

「EOS」という単語が、意味を剥がされ、独り歩きを始める。


〈もう手遅れ〉

〈選別が始まった〉

〈次は自分だ〉


誰も現場を知らない。

だが全員が、物語を持つ。


訂正は遅く、説明は長すぎる。

真実は常に、怖い話の後ろを歩かされる。


画面の向こうで、人が死んだ。

画面のこちら側で、恐怖が増殖する。


SNSは、現場を再現しない。

現場以上の地獄を、量産する。



配信は、予告もなく始まった。


背景は暗く、場所は分からない。

音声は過度に整えられておらず、息遣いすら感じさせない、妙に静かな声だけが流れる。


──静かに見ていた。


その一文で、空気が変わる。


あの日、十一の膨張が咲き、八つの圧がほどけ、

彼女らの白衣が“祝福”を受けた瞬間を。


映像はない。

だが、見ていたと断言されることで、視聴者の記憶が勝手に補完を始める。


粘度は成熟。膨張は熟度に達し、

排液は魂の色を帯び始めている。

美しい変化だ。


語りは感情を含まない。

称賛でも、批判でもない。

事実を眺めているだけだという立場を、頑なに崩さない。


彼女らはまだ気づかない。

自らが“門を開く者”であることに。


国も病院も否定しない。

ただ、その上に別の座標が置かれる。


国も病院も、ただ流れの形を真似ているだけ。

本当の波を作っているのは──彼女らだ。


画面の向こうで、コメント欄が荒れ始める。

だが、声はそれを意に介さない。


我々は止めない。

壊さない。ただ、見届ける。

それが“祈りに正しい”やり方だから。


善悪は語られない。

救済も、破滅も、断定されない。

意味だけが、静かに与えられる。


そして、最後に。


いずれ、あの病棟に

世界がひざまずく日が来るだろう。

それまで、静かに熟すのを待つだけだ。


配信は、そこで途切れた。


誰が流したのかは分からない。

だが、その言葉だけが、確かに残った。


敵と呼ぶには、静かすぎる。

信者と呼ぶには、近すぎない。


理解できないまま、

人々はその存在を、記憶に刻み込んだ。

「群衆が暴徒化したときの“生存戦略メモ”」


ビジネス書っぽく言うなら、あの瞬間は「市場が一斉にパニック売りを始めた状態」です。

個人の判断は消え、群衆は“一つの巨大な生物”になります。

ここで大事なのは、正しさではなく位置取り。


まず、走らない。走ると転倒リスクが指数関数的に跳ね上がります。

歩幅を小さく、膝を柔らかく使い、流れに逆らわない角度で移動します。

真正面突破は最悪手です。


次に、壁を探す。壁・柱・カウンターは“背後を守る資産”。

360度を意識する必要がなくなり、情報処理コストが激減します。

ビジネスで言えば集中投資。


倒れた人を助けたい気持ちは尊いですが、群衆相場では自分が巻き込まれます。

助けるなら複数人で一気に。単独行動はリスク管理違反です。


最後に、出口を“目で追わない”。

出口は全員が向かうため、最も危険なホットスポット。


狙うべきは空気が薄い脇道。

人の視線が向いていない方向に、安全は残っています。


恐怖は伝染しますが、落ち着きも伝染します。

これは勇気論ではなく、実務論。

生き残る人は、だいたい地味です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ