第6話 「冷たい副作用」
夜勤が明ける頃、ヘブンズゲート科の廊下は独特の静けさに包まれる。
処置室の機器音は止まり、看護師たちの足音やジェル容器を片付ける音だけが響く。
だが、この日の朝は、いつもとは違っていた。
「……あいか先輩、昨日のD-05の患者さん、覚えてます?」
お美々が控室の扉を開けながら、声を潜める。
「もちろん。試作ジェルB-9で処置した子でしょ」
「はい……あの後、血圧が急降下して、今もICUです」
私は眉を寄せる。
確かに効き目は劇的だったが、塗布直後の急激な冷感、射出速度、皮膚色の変化――
危険のサインは、あった。
「……副作用が出たってこと?」
「研究部は“想定内”って言ってますけど……現場で続いたら、絶対に危ないです」
その言葉が胸に引っかかる。
――“想定内”。その一言で片付けていい悲鳴なんて、現場には存在しない。
答えを探す前に、院内放送。
《救急搬送。成人男性ステージ3。試作ジェル使用適応症例》
昨日と同じコードだ。
「また来た……」
お美々が手袋を引き出し、私も処置カートを押し走る。
搬送患者は三十代前半、黒いスーツ姿。
ズボン越しでも膨張が明らかで、内圧ゲージは3.0L。
「発症から二十五分。漏出と痙攣あり!」
「固定お願い。私、B-9準備する」
ボトルを握った瞬間、手袋越しに鋭い冷気。
昨日より揮発臭が強い。薬が“攻めている”。
「いきます。楽にしますね」
塗布。即座に局所が跳ね、排出反応が走る。
吸引音、弁の振動、圧の瞬間低下。
生体の限界をこじ開けるような反応速度。
「吸引2番稼働!流量高いです!」
だが、2分も経たぬうちに顔色が蒼白へ転じる。
「脈拍低下!血圧90割りました!」
――早い。D-05より早い。
薬効に身体が追いついていない。
「追加停止!吸引維持!」
私は器具だけで流速調整。過負荷を避け、粘度を読んで動く。
お美々は酸素投与、血圧測定、記録。
研究員はガラス越しで無言。現場は“待つ余裕”なんてない。
八分後、内圧1.1Lで意識喪失のままICU搬送。
お美々は手袋を外しながら、怒りを押し殺す声。
「……これ、続けるんですか?B-9危険すぎます」
「上は効果を優先してる。副作用は“許容範囲”って判断なんでしょ」
自分でも驚くほど、声が冷たい。
昨日から胸の奥で膨らんでいるものが、形を持ち始めていた。
いつの間にか背後に立っていたゆぃゆぃ先輩。
「効果だけ追う薬は、命を刃物みたいに扱う。B-9はまだ“切れる”」
「でも、ステージ4を救える可能性が……」
「救う可能性はある。でも、薬が患者を壊すなら意味がない。現場が線を引くのよ」
――救う薬が、殺す薬にもなる。
その矛盾が、胸の奥でざらつく。
その夜、またB-9適応患者が来た。
四十代後半、体格良好。内圧3.2、心拍150↑。
「搬送中に短期意識消失あり!」
ボトルを取る手が一瞬止まる。
ゆぃゆぃ先輩が視線だけで言う。
「迷う時間はない。使うなら“半量”。薬じゃなく、手で制御」
頷き、慎重に塗布。
冷感は穏やか、反応は制御域。
速度を、角度を、圧を、呼吸を、手が理解し、身体が対応する。
「血圧安定!脈140に下降!」
お美々の声が、揺れながらも明るい。
患者は意識を保ったまま処置完了。
――現場の判断は、まだ通用する。
薬が強くなるなら、こちらの手も強くなればいい。
処置後、ゆぃゆぃ先輩がわずかに笑う。
「これよ。薬じゃなく、あいかちゃんの手で助けたの」
報告書を提出。
「B-9は塗布量と排出速度の手動管理必須」
「ジェル資格者以外の使用は禁止」
研究員の返事は冷たい頷きだけ。
――また、“もっと強い”薬を作る気だろう。
病は進む、薬は追う、現場は耐える。
それが現実だ。
遠くでまたサイレン。次の命が向かってくる。
私は手袋を締め、深く息を吸う。
迷いはある。でも――手は止めない。
止めれば、誰かの朝が来ないから。




