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第21話 「空港封鎖ー④」

臨時医療区画の中央で、緑川唯は一度だけ全体を見渡した。


 ストレッチャーは並び、モニター音が重なり、空港の騒音が壁越しに滲んでくる。

 だが彼女の声は、そのすべてを切り分けるように静かだった。


「指揮はこちらで取るわ。

 あいかちゃん、第一と第三を。

 芽瑠さん、数値と進行速度の管理、私に直接上げて」


「了解」


 あいかは即座に返し、処置台へ向かう。

 患者は三十代男性。意識は混濁気味だが反応はある。

 下腹部の膨張は衣服の上からでも明確で、視線を逸らす人間が多い理由が一目で分かった。


「膨張率、毎分0.16。

 皮膚緊張、限界手前」


 芽瑠の読み上げは淡々としている。

 感情は一切混ざらない。

 だが、その声が現場の基準になる。


「破裂域までは?」


「このままだと、十二分前後」


 唯は即断した。


「完全排液は狙わない。

 圧を逃がして、安定域まで落とす。

 急がない、でも止めない」


「了解」


 あいかの手が動く。

 ジェルを準備し、体位を調整し、圧の逃げ道を作る。

 EOS処置は“強さ”ではない。

 どこを触らないか、どこを触るか、その選択の連続だ。


 患者が小さく呻いた。


「だいじょうぶ。

 いま楽にするから」


 声をかけるタイミングも、唯は見逃さない。


「いい。

 声は続けて。

 意識を手放させないで」


 数値が変わる。


「膨張率、0.12まで低下」


「そのまま。

 安定域、1.9を目標」


 周囲では次の患者が運び込まれている。

 だが誰も慌てない。

 指揮が一つに定まると、現場は静かになる。


 芽瑠が続ける。


「第二患者、進行速度が異常。

 通常EOSと反応が違う」


 唯は一瞬だけ視線を向けた。


「分かってる。

 でも今は“違い”を追わない。

 目の前を落とす」


 それは研究者にとっては、残酷な判断だ。

 だが芽瑠は否定しない。


「了解。

 数値は全記録、後で解析します」


 あいかの処置が一区切りつく。


「圧、安定。

 呼吸も戻ってます」


 唯は頷いた。


「よし。

 次に移る。

 ——ここは救急じゃない。

 でも、戦場でもない。

 やることは一つずつ」


 その言葉に、誰も異を唱えない。

  

 ◇


 空港という異物の中で、

 EOSの処置だけが、いつも通りに進んでいた。


 空港臨時医療区画の一角。

 処置台が一台、空いた。


「次、入れるわよ」


 緑川唯の声に、数名のスタッフが一斉に動く。

 ストレッチャーが滑り込むように収まり、患者の身体が固定される。


 四十代男性。

 意識は保たれているが、呼吸は浅く、下腹部の緊張は明らかだった。


 尾美津は、その側に立った。


 彼女は名乗らない。

 説明もしない。


 ただ、右手を伸ばし、膨張起点にそっと触れる。


 握るというより、包む。

 圧をかけない。

 逃げ道を塞がない。


(……多い。溜まり方が、偏ってる)


 その感覚は、数値にはならない。

 だが、確信として身体に伝わる。


 尾美津は顔を上げた。


「量、多め。粘度は……ゼリーに入りかけ。破裂までは、五分前後」


 唯は一瞬も迷わなかった。


「了解。優先処置。ジェルは高粘度、流路二本。圧は段階的に落とす」


 その指示で、現場が一段階速くなる。


 処置台の周囲に機材が配置される。

 体位は骨盤軽度前傾。

 股関節角度は約20度に固定され、腹圧が一点に集中しないよう調整される。


 尾美津は触診を続けながら、内部圧の移動を追う。

 圧が逃げ始める瞬間、皮膚の張りがわずかに変わる。


「今、動いた」


 その声に合わせ、補助ナースが排液ラインを開放する。

 初期排出は緩やか。

 粘度が高いため、流量を急げば逆流や局所破綻のリスクがある。


 モニターには心拍数と血圧。

 数値はまだ危険域だが、上昇は止まっている。


 芽瑠が数値を読み上げる。


「心拍、120で安定傾向。膨張率、低下しています」


 唯は視線を尾美津から外さない。


「どう?」


「……まだ溜まりが残ってる。でも、いまは“詰まり”じゃない。流せる」


 それだけで十分だった。


 排液が進むにつれ、内部圧は分散し始める。

 尾美津の指先に伝わる感触が変わる。


 ゼリー状だった抵抗が、わずかに緩む。

 これは「抜ける」兆候だ。


「もう少しで粘度、下がる」


 その予測どおり、排液ラインの流れが一定になる。

 局所圧は2.3域から2.0域へ。破裂リスクラインを越え、安全域に片足をかけた状態だ。


 患者の呼吸が深くなる。額の汗が引き、唇の色が戻り始める。


 唯が短く言う。


「この人、あと二分。そこまで落としたら止める」


 完全排液は狙わない。EOSでは、それが正しい判断だ。


 尾美津は頷いた。


「わかった」


 最終段階。排液量は十分だが、内部に残圧がある。


 尾美津は再び、膨張起点に触れる。

 今度は、ほんのわずかに圧を逃がす方向へ誘導する。


 皮膚下で、圧が散る感触。それを確認してから、手を離した。


「……ここで止めて大丈夫」


 唯は即座に指示を出す。


「ライン閉鎖。経過観察に切り替え」


 患者は、かすかに頷いた。


 処置が一区切りつき、周囲が次の準備に入る。


 唯は尾美津にだけ、低い声で言った。


「あなたが必要だった理由、現場が証明してくれたわ」


 尾美津は肩をすくめる。


「数字、苦手なだけです。でも……触れば、分かる」


 その能力は、再現できない。

 測定もできない。だが、いまこの空港で、確実に命を遠ざけていた。


 だから唯は、彼女をフィリピンから連れてきた。


 数値の届かない場所を埋めるために。



 ◇


 同日夕刻、政府は公式に発表を行った。


 内閣官房の記者会見室。

 壇上に立った報道官は、用意された原稿を一語一句、慎重に読み上げる。


「本日、成田国際空港において、複数の体調不良者が確認されました。

 現在、関係機関が連携し、事態の把握と対応に当たっております」


 原因についての質問が飛ぶ。

 報道官は首を振った。


「現時点で、特定の感染症や事故との関連は確認されておりません。

 調査を優先しております」


 続けて、こう付け加える。


「安全確保のため、成田国際空港の一部エリアを非常事態として一時的に封鎖いたします。

 空港をご利用予定の皆さまには、ご不便をおかけしますが、ご理解をお願いいたします」


 EOSという言葉は、ここでは使われなかった。

 だが、質問はそこに集中する。


「男性特有の症状という情報がありますが?」


 一瞬の間。

 報道官は表情を変えずに答える。


「特定の属性に限定した情報は、現時点では公表できません。

 ただし、体調に異変を感じた場合は、外出を控え、速やかに医療機関へご相談ください」


 自宅待機という言葉が、初めて出る。


「不要不急の外出は控え、体調観察を徹底してください」


 それは強制ではない。

 命令でもない。

 だが、国としての姿勢は、はっきりと示された。


 会見は淡々と終わる。

 説明は十分とは言えない。

 だが、あえて踏み込まないことで、恐怖の拡大を防ごうとしているのは明らかだった。


 この発表を境に、

 事態は「空港の出来事」から「社会の出来事」へと変わっていく。


 原因は不明。

 だが、対応は始まった。


 それだけが、公式に共有された事実だった。



 ◇



 最初は、誰かの不安混じりの独り言だった。


≪成田、まだ動いてない≫

≪理由わからないのが一番怖い≫


 それが数分で重なり、流れになる。


≪公式は「体調不良」だけ?≫

≪男性限定って噂、ほんと?≫

≪空港って、もう安全じゃないよね≫


 断片的な情報が、断定に変わっていく。

 動画の切り抜き、規制線の写真、遠くから撮られたストレッチャー。

 どれも決定的ではない。だが、十分だった。


≪原因不明って言葉、信用できる?≫

≪また隠してるだけじゃないの≫


 否定も現れる。


≪デマ流すな≫

≪医療が入ってる時点で落ち着け≫


 しかし、火は消えない。

 不安は、訂正よりも速い。


 その流れの中に、ひとつだけ、温度の違う投稿が混ざる。


≪“原因不明”は正しい≫

≪まだ名前を与える段階じゃない≫


 誰のものか分からないアカウント。

 フォロワーも少ない。

 だが、言葉は妙に整っていた。


≪重要なのは、どこで止めるか≫

≪止められないなら、備えるしかない≫


 反応がつく。


≪何様?≫

≪専門家ぶるな≫


 だが、投稿は続く。


≪体調に異変を感じたら、無理に動かない≫

≪集団行動は避ける≫

≪恥ずかしさや我慢が、いちばん危険≫


 医療的とも、思想的とも取れる文言。

 具体的な指示はない。

 だが、不思議と恐怖を煽らない。


≪静かに見てる人、多いよ≫

≪これは事故じゃない≫


 誰かが引用する。


≪この人、何か知ってるんじゃ?≫


 すぐに別の声が重なる。


≪扇動だろ≫

≪信じるな≫


 そのやり取り自体が、拡散を生む。


 トレンドに載ることはない。

 だが、確実に“届くところ”には届いていた。


 同時刻、別のアカウントが短く呟く。


≪観測は始まっている≫


 それ以上の説明はない。

 返信もない。


 だが、その一文は、いくつもの画面に残った。


 SNSは、答えを出さない。

 ただ、問いを増やしていく。


 そして人々は、

 公式発表よりも早く、

 それぞれの「納得」に辿り着き始めていた。


 静かな誘導は、もう始まっている。



 ◇



 院長室のブラインドは半分だけ下ろされていた。

 外の騒がしさが嘘のように、部屋の空気は静かだった。


 須志有喜次長は、手元のタブレットを一度だけ確認し、院長の正面に立つ。


「……空港の件ですが」


 院長は椅子に深く腰掛けたまま、視線だけを向けた。


「患者数は?」


「現時点で把握できているだけで三十弱。未把握を含めれば、その倍は見ておいた方がいいでしょう」


 淡々とした声だった。感情は抑えられているが、数字だけは正確に置かれる。


「救急だけでは捌けません。一般病棟も、いずれ限界が来ます」


 須志はタブレットを操作し、ひとつの資料を院長の前に滑らせた。


「以前、お話しした件がありますよね。“隔離病棟計画”」


 院長の眉がわずかに動く。


「……廃院になった旧西棟か」


「はい。構造的に外来と切り離せる。動線も独立しています。

 感染症対応を名目にすれば、行政も止めにくい」


 須志は言葉を選んでいる。

 “感染症”という単語を、あえて強調しない。


「今回の事象は、まだ定義されていません。ですが、“未定義”だからこそ、例外処置が通る」


 院長は黙って資料に目を落とす。


 設備一覧。最低限の陰圧区画、簡易隔離ベッド、処置用スペース。


「未整備なのは承知です。ですが、逆に言えば――」


 須志は一拍置いた。


「今なら、こちらの裁量で“最適化”できます」


 院長が顔を上げる。


「金がかかるぞ」


「ええ。ですが」


 須志は即答した。


「今回の空港対応だけで終わる話ではありません。

 患者は増えます。確実に。そして“受け入れられる病院”に、人も、予算も、情報も集まる」


 言い切りだった。


「……患者が増える瞬間を、好機だと言う気か」


 須志は否定しない。


「良い事だとは思っていません。ただ、“現実”です」


 タブレットに表示された簡易試算。


「隔離病棟を稼働させれば、ヘブンズゲート科の処置効率は上がる。

 現場の無理な同時処置も減らせる」


 一瞬、言葉を切る。


「――あいか達を、ヘブンズゲート科を、危険な判断から遠ざけられる」


 院長の視線が、わずかに揺れた。


「須志……」


「私は、人命を数字で見る役目です。

 ですが、数字を積めば、人が守れることもある」


 須志は頭を下げない。

 懇願もしない。


「既に、西棟の確保は済んでいます。あとは、院長の判断だけです」


 院長は長く息を吐いた。


 沈黙の中で、外から微かにサイレンの音が届く。


「……進めろ」


 低い声だった。


「正式決定ではない。だが、準備はしておけ」


 須志は、静かに頷いた。


「ありがとうございます」


 その表情は、安堵でも、歓喜でもない。


 ただひとつだけ、確かな色があった。


 “ここから、もう引き返せない”

 それを理解した者の顔だった。

 


~須志次長の呟き~

隔離病棟の話が、現実味を帯びてきた。

 病棟という“箱”、専用スタッフ、EOS対策マニュアル。

 どれも覚悟だけでは揃わない。結局、必要なのは金だ。

 だが不思議なもので、危機が可視化された瞬間、

 医療の世界では「出せる理由」が生まれる。

 正義でも善意でもなく、理屈だ。

 救うための金なのか、観測のための金なのか。

 その境界は、いつも曖昧だ。

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