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第20話 「空港封鎖ー③」

成田空港は、すでに“止まった場所”ではなかった。


封鎖は続いている。

だが、人は動き、作業は進み、案内放送は一定の間隔で繰り返されている。


保安線は引き直され、仮設の導線が作られ、

医療スタッフと警備員は、誰に指示されたわけでもなく

それぞれの役割を黙々と果たしていた。


空港は混乱していない。

それが、かえって異様だった。


ベンチに座る人々は、携帯端末を見つめ、

立ち入り禁止区域の前では足を止め、

「待つ」という行為を受け入れ始めている。


理由を知らなくても、人は順応する。


アナウンスは曖昧な言葉を選び続け、

具体的な原因には触れない。

それでも、誰も大きな声で問い詰めない。


その一方で、医療エリアの奥では

ストレッチャーが途切れなく出入りし、

一定のリズムで消耗品が補充されていく。


空港は、

「異常が起きている場所」から

「異常を処理する場所」へと変わっていた。


ここで何が起きているのか、

正確に説明できる者はいない。


それでも、誰もが理解している。


——これは、もう“一時的な封鎖”ではない。



その一角だけ、空気が裂けたようにざわめいた。


「ひで君!! ひで君ってば!!」


 若い女性の声だった。

 甲高く、切羽詰まっていて、周囲のざわめきを一瞬で押しのける。


 声の先にいたのは、床に崩れ落ちた若い男性と、その傍らに膝をつく女性。

 二人とも、まだ新しい服を着ている。

 旅行用の小ぶりなスーツケースが、少し離れたところで倒れていた。


 新婚旅行帰りだろう、と誰かが思った。

 根拠はない。

 ただ、二人の距離の近さと、女性の呼び方がそう感じさせただけだ。


「誰か……誰かぁ……!」


 女性は周囲を見回し、必死に助けを求める。

 だが、人は集まらない。


 正確には、集まれない。


 男性の下腹部は、衣服の上からでもはっきりと分かるほど異様に膨らんでいた。

 人の身体の形として、どこか決定的におかしい。


 その“異常”が、無意識の距離を生んでいた。


 数歩近づいては、止まる。

 視線を逸らし、足を引く。

 誰もが「見てしまった」ことを後悔するように、視界から外そうとする。


「ひで君、ねぇ、起きて……お願い……」


 女性は男性の肩を揺すり続ける。

 泣き声は、もう叫びに近い。


 だが男性は応えない。

 呼吸は浅く、荒い。

 額には脂汗が浮かび、唇の色がわずかに変わり始めている。


 誰かが小声で言った。


「……触らない方がいいんじゃ……」


 その言葉は、善意から出たものだった。

 だが同時に、関わらない理由にもなった。


 女性はその声を聞き取れなかったのか、聞き取らなかったのか。

 ただ必死に叫び続ける。


「ひで君……!

 さっきまで普通だったのに……!」


 普通。

 その言葉が、この場ではひどく頼りなく響く。


 数分前まで、普通だった。

 数十分前まで、笑っていた。

 それは、この空港で何度も繰り返されてきた前置きだった。


 遠巻きに、スマートフォンを構える人がいる。

 だが近づこうとはしない。


 下腹部の異様な膨張が、

 「これは自分の理解の範囲を超えている」と、無言で告げている。


 女性は、ついに声が枯れ始めた。


「お願い……誰か……」


 そのとき、ようやく人の流れが変わる。


 医療スタッフが近づいてくる。

 だが、それは偶然ではない。


 この空港では、

 こうした声が上がること自体が、すでに想定内になりつつあった。


 悲鳴は、異常ではなく、

 次の処置を呼ぶ合図に変わっていた。



 ◇


 仮設医療スペースに入った瞬間、お美々は空気の重さが変わったのを感じ取った。


 消毒薬の匂い。そして、切迫した呼吸音。


 ——始まった。


 そう理解したと同時に、前方で一人の女性が足を止める。


 緑川唯だった。


 彼女は迷いなく胸元のカードケースを取り出し、周囲に向けてはっきりと掲げる。


「ジェル資格証、提示します。ここから先、私が処置指揮を執ります」


 その声に、周囲の動きが一瞬で揃った。


 空港医療スタッフ、応援に入った看護師、警備側の医療連携要員。

 全員が「指示待ち」ではなく、「役割確認」に切り替わる。


 ——あ、これだ。


 お美々は思う。


 空港封鎖でも、人数でもない。

 現場が一つの意思を持った瞬間。


「お美々ちゃん、第一患者」


 唯が名前を呼ぶ。


「三十代男性。ステージ2後半移行、膨張速度が異常に速い」


「了解!」


 お美々は反射的に動いた。


 ストレッチャー上の男性は、意識はあるが会話は困難。

 下腹部の緊張は視認レベルで明らかだった。


「角度、通常より前傾強め……反射遅延あり」


 モニターを確認しながら、数値を読み上げる。


「膨張率、毎分0.18。排液未実施だと、破裂リスク域まで十数分です」


 唯は即答した。


「排液処置に入る。圧は逃がすけど、急がない。“出し切らない”で安定を優先」


「了解……!」


 お美々は深く息を吸い、手を動かす。


 これは慣れた処置だ。

 何度も経験してきた。


 ——なのに。


(速い……)


 反応が、揃いすぎている。


 触れる前から、身体が“準備されている”ような違和感。

 通常のEOSとは、どこか違う。


「お美々ちゃん、数値だけ追わないで」


 唯の声が飛ぶ。


「顔色、呼吸、全部見る」


「……はい!」


 言われて初めて、お美々は患者の目に焦点を合わせた。


 怯え。混乱。

 それでも、必死に意識を保とうとしている。


「大丈夫ですよ。今、楽にしますから」


 声をかけながら、排液ラインを調整する。


 数値がわずかに下がる。


「膨張率、減衰。0.11まで落ちました」


「よし。そのまま安定域まで持っていく」


 唯の判断は迷いがない。


 お美々は気づく。


 ——私、判断しなくていいんだ。


 自分は“手”でいい。この現場には、全体を見ている人がいる。


 それだけで、動きが変わった。


「次、来ます!」


 別のスタッフの声。


 視線を上げると、すでに次のストレッチャーが待機している。


 数が、多い。


 助けても、助けても、終わらない。


 それでも——


「お美々ちゃん、次も行ける?」


 唯が確認する。


 お美々は、迷わず頷いた。


「行けます。……まだ、手は動きます」


 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。


 恐怖はある。違和感も、嫌な予感も消えない。


 それでも。


 目の前の一人が、確かに楽になっている。


 それが、答えだった。


 唯が短く指示を飛ばす。


「次、同じ手順。ここは“止める場所”じゃない。安定させる場所よ」


 その言葉に、お美々は小さく笑った。


「……はい。 安定させます」


 安堵はない。達成感もない。


 あるのはただ、処置が始まってしまったという実感だけだった。



 ◇



 空港の外では、別の流れが生まれていた。


 最初は、誰かの曖昧な投稿だった。


≪成田、なんか止まってる≫

≪知り合いが足止めくらってるらしい≫


 それは噂にもならない、ただの独り言だった。


 次に現れたのは、短い動画だ。

 遠巻きに撮られた、規制線。

 ストレッチャーが通る一瞬。

 顔は映らない。音も途切れ途切れ。


≪救急?≫

≪事故?≫

≪感染症じゃないよね?≫


 コメントが重なり始める。


 事実は少ない。

 だが、解釈は無限に増えた。


 まとめサイトが拾う。


≪【速報】成田空港、一部封鎖か≫

≪原因不明の体調不良、複数名発生との情報≫


 「原因不明」という言葉だけが強調される。


 テレビは慎重だった。

 昼のニュースでは、アナウンサーが言葉を選ぶ。


「現在、成田空港で体調不良を訴える方が複数確認されており——」


 その続きを、視聴者は待たない。


 SNSでは、すでに別の物語が走っていた。


≪政府が隠してる≫

≪また新型?≫

≪空港って、もう危なくない?≫


 誰かが言う。


≪知り合いの知り合いが言ってたけど、男の人が急に……≫


 文は途中で切れる。

 だが、その「切れ目」こそが、想像を呼び込んだ。


 専門用語が混ざり始める。


≪EOSじゃない?≫

≪あれって男性限定のやつだろ≫


 正確な説明はない。

 だが、言葉だけが独り歩きする。


 別の投稿。


≪成田で医療車両めっちゃ来てた≫

≪ナースさん走ってた≫


 それだけで十分だった。


 医療が動いている。

 =危険がある。


 この短絡が、瞬時に共有される。


 報道番組のテロップが変わる。


《成田空港 一部エリアで立ち入り制限》


 画面の隅に、小さく注釈。


《詳細は調査中》


 その一文は、ほとんど読まれない。


 人は、分からないものを怖がる。

 そして怖いものを、自分なりに説明し始める。


≪感染してるなら、もう全国に広がってるでしょ≫

≪空港使った人、全員危なくない?≫


 誰かが反論する。


≪デマやめろ≫


 だが、その言葉は届かない。


 不安は、訂正より速い。


 拡散は、意図ではなく反射で起きていた。


 誰も、現場を知らない。

 誰も、処置を見ていない。


 それでも、語る。


 語らずにはいられない。


 空港で起きていることは、

 もう「空港の問題」ではなかった。


 画面の向こうで、

 人々はそれぞれの言葉で事態を組み立てていく。


 そして、そのどれもが、

 現場の実感とは噛み合っていなかった。


 空港の中では、

 ただ静かに、処置が続いている。


 外では、

 静かではない何かが、確かに広がり始めていた。



 

――須志 有喜(病院事務局次長)


 空港で起きた出来事を、私はまだ「事件」とは呼んでいない。

 だが、これを「偶発的な混乱」で済ませる気もない。


 ひとつだけ、はっきりしていることがある。


 もし、同じ事象が規模を拡大して起きた場合。

 現状の医療体制では、確実に“足りない”。


 人も、場所も、判断も、すべてだ。


 仮にだ。

 国際空港という一拠点で、E.O.S.疑い患者が同時に二十名発生したとする。


 まず必要になるのは、ベッドや薬ではない。

 横にできる身体の数だ。


 ストレッチャーは最低でも十数台。

 患者を「待たせる」という選択を取るなら、それでも足りない。

 立たせたまま、座らせたままでは、事態は悪化するだけだ。


 次に、人。

 医療判断ができるナースや医師はもちろんだが、

 実際に足りなくなるのは、運べる人間である。


 一人の患者を安全に管理するには、最低でも三人。

 処置判断、補助、固定・搬送。

 二十人なら、六十人。

 そこに指揮、連絡、記録、補給が加わる。


 七十人規模の人員が、即座に動けるか。


 ほとんどの施設では、答えは否だ。


 場所も同様だ。

 一人あたり八平方メートル。

 十人同時処置で八十。

 待機と動線を含めれば百五十平方メートル以上。


 これは「空いている会議室」では足りない。

 最初から潰す覚悟のある区画が必要になる。


 そして最後に、判断。


 誰が指揮を執るのか。

 どこまでを現場裁量に委ねるのか。

 いつ封鎖し、いつ開放するのか。


 これらは、現場に投げてはいけない。

 現場は、救うためにある。

 決めるためにあるのは、管理側だ。


 私は事務屋だ。

 人命を直接救うことはできない。

 だが、救える人間を増やす環境を整えることはできる。


 だから、あえてここに書く。


 空港パンデミックに備えるというのは、

 「医療を強化する」ことではない。


 失敗を前提に、失敗しても崩れない構造を用意することだ。


 足りないものを、足りないままにしておくこと。

 それこそが、最大のリスクである。


 今回の件が、

 「何事もなかった」で終わることを、私は願っていない。


 終わらせてはいけない。

 これは警告だ。


 次は、想定外では済まない。

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