第19話 「空港封鎖ー②」
最初に異変を告げたのは、警報でも怒号でもなかった。
成田空港・第一ターミナル。
国際線到着ロビーの一角で、空気の流れが止まった。
人の流れが、そこでだけ詰まったように淀む。
誰かが倒れたわけではない。
誰かが叫んだわけでもない。
ただ、立ち止まった男がいた。
三十代後半。スーツ姿。
入国審査を終え、携帯端末を見下ろしたまま動かない。
係員が声をかけた。
「お客様、通路を――」
男は顔を上げなかった。
代わりに、腹部を押さえ、喉の奥で息を詰めるような音を立てた。
その瞬間、近くにいた空港医療スタッフの一人が、足を止めた。
彼女は救急救命士ではない。
医師でもない。
だが、EOS症例の初期兆候を、誰よりも多く見てきた。
(……違う)
汗の出方。
呼吸の浅さ。
そして何より、立位のまま体を前に折ろうとしない姿勢。
それは単なる腹痛ではない。
「無線、こちらAブロック」
彼女は即座に連絡を入れた。
「男性一名。下腹部緊張、皮膚蒼白。反応鈍化あり。
EOS疑い。初期じゃない」
返答は、通常より早かった。
『確認。追加で症状を』
「――下腹部膨隆、自己制御不能の兆候。
局所圧、視認レベルで異常です」
周囲の一般利用客は、まだ異変を理解していない。
だが、医療系オペレーターだけが察していた。
これは単発では終わらない。
男の背後で、もう一人が立ち止まった。
さらに二人。
間隔を置かず、同じように腹部を押さえる。
「……増えてる」
彼女の声が低くなる。
「Aブロックで複数。
発症タイミングが近すぎる」
無線の向こうで、一瞬の沈黙。
『……指令本部に上げる』
その言葉が出た時点で、
これは空港医療の管轄を超えた。
数分後、場内放送が流れる。
《ただいま技術的確認のため、一部エリアの通行を制限します》
言葉は穏やかだ。
だが、動きは速い。
保安要員が導線を切り、
警備が人の流れを逆転させる。
同時に、医療回線が一本に束ねられた。
「こちら、成田臨時医療統制。
EOS疑い、同時多発。
感染経路、未特定」
その報告を受けた瞬間、
指令本部の判断は一段階跳ね上がる。
『……空港封鎖、部分発動』
それはまだ「最終」ではない。
だが、引き返せない線だった。
彼女は、男の一人に近づく。
「聞こえますか。
今から医療対応に入ります」
男はかろうじて頷いた。
次の瞬間、別方向から声。
「こちらCブロック。
同様の症状、二名追加」
「Dブロックでも一名」
数字が、意味を持たなくなる速さ。
彼女は理解した。
(これは――
“空港で起きたEOS”じゃない)
空港そのものが、発症場になっている。
その認識が、全身を冷やす。
無線が再び鳴る。
『ヘブンズゲート科、出動準備。
移動医療車両、二台要請』
その一文で、事態は完全に切り替わった。
彼女は、深く息を吸い、短く吐いた。
「了解。
ここはもう、現場判断じゃ足りない」
遠くで、シャッターが下りる音がした。
空港が、静かに閉じ始めていた。
◇
成田空港・医療統制回線。
私の端末には、数値だけが並んでいた。
映像はない。
叫び声も、混乱も、ここには届かない。
あるのは、圧縮された情報だけだ。
「Aブロック、発症六名。
うち二名、ステージ2後半に移行」
オペレーターの声は淡々としている。
感情が混ざる余地を、意識的に排除している声だ。
私は即座に応答する。
「了解。
発症間隔は?」
『最短で三分。最長でも八分以内』
「……揃いすぎている」
自然発症ではない。
偶発でもない。
ばらつきがなさすぎる。
「既往歴の一致は?」
『確認中。ただし国籍・年齢・職業、すべてバラバラです』
私は一瞬、目を閉じた。
EOSは“個人差の病”だ。
発症速度も、進行曲線も、本来は揃わない。
それが、揃っている。
「感染型……?」
口に出した瞬間、否定する。
「違う。
感染“だけ”じゃ説明がつかない」
感染症なら、潜伏時間が必要だ。
だが今回の症例は、空港に入ってから発症している。
つまり――
「曝露点が、空港内にある」
私の声は冷静だった。
そうでなければ、判断を誤る。
「空調系、確認して。
換気ブロックごとに発症分布を出して」
『了解』
別回線が割り込む。
『こちらCブロック。
男性一名、局所圧急上昇。
バイタル圧、3.9域突破』
「早すぎる……」
通常なら、ステージ2後半まで最低でも数十分はかかる。
それが、数分。
加速因子がある。
「血液検体は?」
『確保困難。
現場、トリアージ優先で処置に移行』
「いい判断」
私は即答した。
データより命。
それは、研究官である前に、人としての前提だ。
だが同時に、思考は止めない。
(増幅剤……?)
かつて資料で見た仮説物質。
EOS症状を強制的に前倒しする試験段階の薬剤。
廃棄されたはずのもの。
「指令本部。
過去のP-034系、流通履歴を洗って」
『……確認します』
声が、わずかに強張った。
この段階で、その名前を出す意味を、向こうも理解したのだ。
さらに情報が入る。
『Dブロック、破裂前兆一名。
局所皮膚変色、圧制御不能』
「……もう来てる」
私は、拳を軽く握った。
空港という場所が、
“発症させるための舞台”になっている。
これは事故じゃない。
設計された状況だ。
「ヘブンズゲート科の到着は?」
『移動医療車両二台、現地へ向かっています』
私は小さく息を吐いた。
「……間に合って」
それは祈りではない。
時間計算だ。
この発症速度なら、
あと十五分遅れれば、救命率は大きく下がる。
そのとき、別の回線。
『一般利用者の一部にパニック兆候。
情報統制、どこまで行いますか』
「――必要最低限」
私は即答する。
「“EOS”という単語は伏せて。
原因不明の体調不良、医療対応中で統一」
『了解』
真実を伏せることに、ためらいはあった。
だが、ここで情報が暴走すれば、
二次被害の方が大きい。
私は、端末に次々と表示される数値を見つめながら思う。
(これが……拡散の始点)
一点で起きた異常が、
線になり、面になり、
やがて世界を覆う。
研究者として、
私はその構造を理解している。
だからこそ――
「……止めなきゃ」
声に出した言葉は、それだけだった。
次の瞬間、回線が切り替わる。
『芽瑠さん。
次、現場から直接繋ぎます』
私は背筋を伸ばした。
理論はもう十分だ。
ここから先は、現実との接続になる。
◇
統合指令本部は、静かだった。
大型スクリーンに映し出されるのは、成田空港の平面図。
赤、黄、橙。
色分けされたブロックが、刻一刻と塗り替えられていく。
「発症推定、現在二十二名」
情報将校の声は、乾いている。
「うち、ステージ2後半が八。
破裂リスク域、三名」
別の席から、即座に声が重なる。
「時間当たりの増加率は?」
「初動五分で四。
現在は三分で二。
指数関数的上昇、確定です」
誰も顔を上げない。
数値だけを見ている。
医療連携担当が割り込む。
「ヘブンズゲート科、移動医療車両二台、空港外周に到達。
現地医療統制、引き渡し可能」
「了解。
トリアージ権限、現場側に委譲」
指令官が短く頷く。
「――これは災害じゃない。
有事だ」
その一言で、部屋の空気が切り替わる。
「警察公安、状況は?」
公安連絡官が即答する。
「テロ関連の直接情報なし。
ただし、三日前から不審な医療系掲示板投稿を確認。
“空港”“症状加速”“評価”の単語が共通」
「評価?」
指令官の眉がわずかに動く。
「はい。
観測者がいる可能性があります」
軍事連絡席が口を開く。
「空調経路、確認完了。
特定ブロックでのみ曝露が集中。
拡散意図が明確です」
「……実験か」
誰かが呟いた。
医療顧問が淡々と続ける。
「EOS自然発症とは乖離。
増幅因子の関与、ほぼ確実」
「P-034系?」
「可能性高。
ただし既存データより発症速度が速すぎる」
一拍。
「……改良型か」
指令官は、机に置いた指を組み直した。
「空港封鎖、全面に拡張。
ただし“感染症”という言葉は使うな」
「報道は?」
広報調整官が答える。
「“原因不明の体調不良”で統一。
映像は制限。
SNSは、もう止まりません」
スクリーンの端に、別ウィンドウが立ち上がる。
リアルタイムで流れる投稿。
≪成田、なんかヤバいらしい≫
≪男の人が急に倒れて…≫
≪空港封鎖ってマジ?≫
「……情報拡散、止められない速度に入ってます」
「分かっている」
指令官は即答した。
「だから“止める”んじゃない。
流す方向を制御する」
沈黙。
その判断に、異を唱える者はいない。
「海外反応は?」
国際連携担当が報告する。
「米国、CDCが事態を把握。
“EOS類似事象”として監視レベル引き上げ」
「C国は?」
「独自ルートで情報収集中。
公式声明はまだ」
指令官は、小さく息を吐いた。
「……来るな」
それが、誰に向けた言葉かは分からない。
医療連携担当が、もう一度口を開く。
「現地から更新。
破裂症例、一名発生」
部屋の空気が、一段冷える。
「救命は?」
「……不可」
短い報告。
指令官は、視線をスクリーンから外さずに言った。
「記録は?」
「全て確保。
生体データ、映像、音声」
「……評価されるな」
その言葉は、ほとんど独り言だった。
だが、全員が理解した。
これは、誰かに見られている事態だ。
テロでも、事故でもない。
観測され、測定され、次に繋げられる現象。
最後に、若い通信士が声を上げる。
「指令……米軍横田基地から、暗号通信です」
「内容は?」
「……解析中。
ただ、冒頭に“SECOND POINT CONFIRMED”の文字が」
指令官は、初めて目を閉じた。
「……第二波がある」
誰も否定しなかった。
空港封鎖は、始まりに過ぎない。
~おまけ♪~
「空港封鎖時・E.O.S.対応の実務設計(試算)」
本件のように、国際空港で突発的にE.O.S.疑い患者が同時多発する状況を想定する。
ここでは「最悪を前提にしないが、楽観もしない」現実的なラインで整理する。
① ストレッチャーは何台必要か
前提条件:同時発症・疑い患者:最大20名。ステージ2後半〜3前段を想定
「待たせすぎないが、全員即処置もしない」運用
結論:ストレッチャーは最低12台、理想は15台
理由は単純で、即時処置対象(重症寄り)約6〜8名。経過観察・準備待機 約6〜7名
全員を寝かせる必要はないが、立位・座位での管理はE.O.S.ではリスクが高い。
「横にしておける余裕」は、結果的に救命率を押し上げる。
② 患者搬送・対応スタッフは何人必要か
患者1名あたりの最低構成(危険域待機を許容する場合):
ジェル資格ナース:1名(処置判断)
補助ナース:1名
搬送・固定要員:1名
→ 患者1名につき最低3名
20名想定の場合:
現場対応スタッフ:60名
これに加えて
指揮・トリアージ担当:3〜5名
記録・連絡・資材管理:5〜7名
合計:約70名規模
ポイントは、
「医療者が足りない」のではなく“動かせる人”が足りなくなるという点。
③ 処置スペースはどのくらい必要か
1処置ユニット(1患者)あたりの必要面積:
処置ベッド
機器
人員2〜3名の動線
→ 約8㎡(畳約5枚分)
同時処置10名+待機エリアを含めると、
処置エリア:80㎡
待機・動線・資材:60〜80㎡
合計:140〜160㎡(約85〜95畳)
空港の会議室やラウンジ1区画を
丸ごと潰すレベルの広さが必要になる。
④ 24時間体制にした場合の月間コスト(概算)
前提:
3交代制
人件費・消耗品・機器償却を含む
突発対応用の「遊休コスト」込み
概算内訳(月):
人件費(70名×交代要員含む):約1.6〜1.8億円
医療消耗品・ジェル関連:3,000〜4,000万円
機器・車両・通信維持:2,000万円前後
合計:約2.1〜2.4億円/月
重要なのは、
この金額は「患者がゼロでも発生する」こと。
まとめ(経営視点)
E.O.S.対応は、
「医療の問題」である前に、
運用と覚悟の問題である。
空港封鎖とは、
人を止める行為ではない。
資源と判断を一箇所に集める決断だ。
そしてその決断には、
明確な数と、
明確なコストが伴う。
——それでも止めない理由があるか。それを問われるのが、この事象だ。




