第18話 「空港封鎖-①」
成田国際空港。到着ロビーのスクリーンには、欠航と遅延の赤い文字が一定間隔で流れ続けていた。
だが乗客たちはその内容を確認する余裕すらない。
サイレン。怒号。泣き声。
そして、時折混ざる──くぐもった、獣のような呻き声。
《こちら成田国際、第二ターミナル。局所封鎖完了。搬送不能者、推定十七。
歩行可能の疑似症例込みで約二十名》
その報告が病院の危機対策室へ届いた瞬間、院内の照明がわずかに落ち、非常回線が点灯した。
通常の救急指令音とは違う、低く長い振動。
有事認定の証だった。
通信卓に座る芽瑠が、ほとんど瞬きもせずにデータを読み取る。
「感染拡大、局所集積……潜伏時間の変動幅が極端。個体差が大きい」
指先で数値の波形を送信車両へ共有しながら、
「空港内で同時多発的に発症。漏出あり、破裂予兆、無症候、この三種が混在。
動線、全て封鎖方向へ調整を」
その横で、対策室の空気を割るように専用回線が鳴る。
《認定コード S-11-α。情報暗号化。第三機関傍受警戒中》
院内が、一瞬沈黙する。
芽瑠がマイクを下げ、声の高さを変えず返答。
「こちら森乃芽瑠。特任研究官。状態観察及びヘブンズルーム支援担当。
暗号化レベル維持します。状況続報を」
オペレーターの声は落ち着きすぎていて、逆に緊張を帯びていた。
《空港内、感染源は不特定。拡散媒体不明。航空貨物、乗客、外部侵入者、現段階推定不可。
軍警合同で監視中》
お美々の声が後方から飛ぶ。
「推定不可って、どういうこと!? 感染経路、空気?接触?食物?液体?液体!?
どっちの液体!?どれなの!?」
芽瑠は紙コップのコーヒーを取るかのような自然さで返す。
「不明ということ。それ以上でもそれ以下でもない」
「いや“それ以下でもない”は怖いやつぅ!」
お美々が椅子の背もたれ越しに身を乗り出し、画面に顔を近づける。
そのとき。
《補足。感染者の一部、局所圧推定3.8域、4.2域まで上昇。暴走リスク。
排液試行は“状況許可次第”。周囲リスク高い》
芽瑠「……空港で破裂が起きれば、国内初の集団感染。規模は指数関数的」
お美々「言い方静かだけど内容こわすぎる!?」
あいかは黙っていた。
ヘブンズルーム2号車の後部、器材点検を繰り返しながら、目線は一点を縫うように落として。
グローブをはめ、除菌、器材、パッド、インジェクター……
同じ動作を繰り返し、しかし手元の迷いはない。
小さく、誰にも届かない声で。
「助ける……諦めない。抜いてやる」
車両内通信が一斉に鳴る。
同時に二台のヘブンズルームのエンジン音が唸り始めた。
《ヘブンズルーム1号車、認証完了》
《2号車、認証。軍警ルート優先通行許可。成田第二ターミナル、北側搬入口まで独占走行》
芽瑠「1号車、三名の漏出予兆を優先。局所圧3.0域台中心。破裂前倒しを防ぐ処置。」
「2号車は無症候だが波形不安定な症例を。潜伏の急加速例、今回の核心かもしれない」
お美々「はいっ! 了解──ていうか今回核心ってなに!?
私たち、何の核心に触れようとしてるの!?」
芽瑠「それも不明」
「もう不明だけで会話成立してるね!!?」
あいかはようやく通信に声を入れた。
「質問は現場で。迷う時間は患者さんの時間を削る。私たちが先に迷ってどうするの」
お美々は口をへの字にし、それでも笑う。
「……はい、リーダー」
芽瑠が平坦な声で補足する。
「1分前。人数変動。推定二十名から二十三名。症状内訳は……さらに多様化」
あいか「全員助ける。判断は現場責任。やるしかない」
ヘブンズルーム2台が病院の敷地を離れた瞬間、
空の色がほんの少し鉛色に変わった。
天候のせいなのか、それとも不吉な予兆なのか、まだ誰にもわからない。
ただ、これだけは確かだった。
病院を出た瞬間から、もう医療だけの問題ではなくなる。
ヘブンズルームのサイレンが伸びていく。
成田へ、戦場へ、進む音だった。
◇
成田第二ターミナルのガラス越しに、灰色の朝がにじんでいた。
到着ロビーへの通路はすでに封鎖され、
「KEEP OUT」と書かれた黄色いテープが複数の線になって床を走っている。
警備員と軍警の制服が混じり合い、誰が誰を指揮しているのか、外からは分かりにくい。
そんな中を、逆行する二人の女がいた。
一人はポニーテールを高く結い、カジュアルなパーカーにスニーカーという、ごく普通の旅行者の格好。
もう一人は落ち着いた色のシャツにジャケット。髪は後ろでまとめ、手には黒いボストンバッグ。
どこか、動きに“現場の癖”が残っている。
「ストップ、ここは立ち入り禁止です。搭乗者の方は、あちらの待機エリアへ――」
軍警が腕を広げて二人の前に立ちはだかった瞬間、彼女は足を止めた。
ポニーテールの女、緑川ゆい。
ゆぃゆぃはマスクの内側で、そっと息を吸い込む。
汗と、消毒液と、人いきれ。
それに混じる、別の匂い。
排液後の、淡いタンパク臭。
ジェルの揮発成分。
それだけなら、ヘブンズゲート科の処置室と大差ない。
だが今、鼻の奥を刺すのは、もっと冷たいものだった。
金属が擦れたときのような、薄い鉄の気配。
ジェル調整物質と、B-9が変性したときだけ立ち上る、あの“増幅された匂い”。
(……ここまで飛ぶのね)
ゆぃゆぃは、視線だけでロビーを一周させた。
床にしゃがみ込んでうめく男。
壁にもたれて顔を伏せる男性客。
荷物の上に座り込んだまま動かない少年。
どこもまだ“本格的な破裂”には至っていない。だが、匂いが示す数字は、明らかにおかしい。
「申し訳ありませんが、これ以上は――」
軍警の言葉を遮るように、ゆぃゆぃはジャケットの内ポケットからカードケースを取り出した。
指先だけで癖のついたカードを抜き、差し出す。
「ヘブンズゲート科、ジェル資格者。緑川ゆい。
派遣帰国中ですが、現時点で一番EOSに近い医療者のはずです」
軍警は条件反射でカードを受け取り、二度見した。
カードの端に刻印されたホログラム。認証コード。
そして所属欄に記された『ヘブンズゲート科』の文字。
「……確認します。少々お待ちを」
無線が動く。
数秒後、声の調子が変わった。
《こちら成田第二ターミナル指令所。ヘブンズゲート科 緑川ゆい、本人確認。
当該区域内での医療指揮権、暫定付与を提案中》
ゆぃゆぃは肩越しに振り返った。
一歩後ろを歩いていた若い女が、きゅっと口を結ぶ。
「尾美津。いい?」
「はい」
短い返事。
瞳は怯えていない。ただ、状況を測っている。
フィリピンの臨時拠点で出会った“見習い”。
ジェル処置の補助経験があり、何人かのEOS患者の手を握ってきた女。
本当はゆぃゆぃがヘブンズゲートへ紹介するつもりで連れてきた。
“いつか”のために。
その“いつか”が、予想より早く着いてしまっただけだ。
《ヘブンズルーム2台、病院を出ました。到着まで約二十五分。
それまでの一次対応の可否について、ヘブンズゲート科の判断を仰ぎたい》
「一次対応、こちらで引き受けます。ただし――」
ゆぃゆぃは、待機エリアに押し込められている乗客たちを一瞥した。
マスクの隙間から漏れる不安。
スマホを握りしめる手の震え。
すでにSNSには何本もの動画が流れているだろう。
「“見える症状”だけじゃ、線は引けません。
匂いと歩き方と、汗の出方で、優先順を変えたい」
《匂い、ですか……?》
「ええ。ここ、すでに増幅剤反応の残り香で満たされてる。
通常のEOS波形とは違う。
破裂までの猶予が、教科書と合わないはず」
指令所の向こうで、誰かが息を呑む気配がした。
「ヘブンズルームが着くまでに、“破裂させないライン”をこちらで押さえます。
その代わり、到着直後から即、ジェル排液に入れるよう動線をください」
軍警が目配せし、ロビーの一角が空けられていく。
即席の仕切り、床のテープ、非常用ストレッチャー。
それが、あっという間に“成田空港ヘブンズゲート仮処置エリア”の形を取り始めた。
「尾美津」
ゆぃゆぃが名を呼ぶ。
「はい」
「匂い、分かる?」
尾美津は小さく息を吸い、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
そして、頷く。
「強すぎて、少し。
でも……この中に、“まだ間に合う人”が交じってます」
「そう。じゃあ、あなたは“まだ間に合う”側を拾って」
ゆぃゆぃは言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。
「私は、“間に合わないかもしれない”側を押さえるから」
その線引きが残酷だと分かっていながら、それでも誰かがやらなければならない。
遠くでサイレンの音がする。
ヘブンズルームの音だと気づいたのは、この場でゆぃゆぃだけではなかった。
誰かが顔を上げ、誰かが胸を押さえ、誰かが小さく祈る。
(あいかちゃん……間に合いなさいよ)
心の中だけで、旧友の名前を呼ぶ。
声には出さない。
現場で再会して泣いている暇など、本当はどこにもない。
「――さあ、やるわよ。成田ヘブンズゲート」
ゆぃゆぃがそう言った瞬間、
空港の一角に、医療の“革命前夜”みたいな空気が満ちていった。
◇
発症区域から少し離れたベンチに、一人の女が腰を下ろしていた。
足元では子どもが泣き、隣の列では誰かが叫び、どこかで誰かが吐いている。空港全体がざらついた恐怖で満たされているのに、その女だけは別の場所にいるような顔をしていた。
膝の上には、小さなリングノート。
右手には、使い込まれたシャープペンシル。
左手で胸ポケットから小型レコーダーを取り出し、カチリ、とスイッチを入れる。
「局所膨張、視認できる症例……八例。
疼痛訴えより先に行動制限。意識レベル、ばらつき大。
従来EOSとは発症順序が逆転……やっぱり、“増幅側”前提の設計ね」
女は顔を上げ、隔離ラインの内側をじっと見る。
救護班に囲まれた男性が、壁を背にうずくまり、股間を押さえて震えている。
別の男はストレッチャーの上で歯を食いしばり、汗と涙で顔をぐしゃぐしゃにしていた。
その一方で、椅子に座ったまま無表情に前だけを見つめている男もいる。
「症状の見かけ上の重症度と、感染ポテンシャルが比例してない……。
“見た目”で優先順位を決めると、確実に取りこぼす」
ノートの端に大きくバツ印を付ける。
近くにいた女性客が、その音にびくりと肩を震わせたが、女は気づいていないふりをした。
スマホを取り出し、カメラを起動する。
拡大、縮小、呼吸の上下、腹部から股間にかけての布の張り具合。
決して破裂の瞬間を“見たい”わけではない。
ただ、その直前に必ず現れるはずのパターンを、女は探していた。
「呼吸数、視線、発汗、歩行……。
“破裂十秒前”を、外観だけで拾えるなら……現場の選別精度は一段階上がる」
誰に聞かせるでもなく、専門用語がぽつりぽつりと落ちていく。
そのとき、足音が一つ、女の前で止まった。
黒いビニール手袋。
首から下げたIDカードには、病院名がかろうじて見えないようシールが貼られている。
「観察、お疲れ様です」
低い声だった。
女は顔を上げず、ノートの同じ場所にもう一度線を引く。
「そちらこそ」
ようやく視線だけを向ける。
男の表情は、疲れているようにも、楽しんでいるようにも見えた。
「ヘブンズゲート科がまもなく、移動式医療車両二台で到着します。
どのように誘導すればよろしいでしょうか」
「……混乱の導線を、自然に。 “選別”が露骨にならないように。
破裂した者と、まだ間に合う者が、 ゆっくり離れていく動線を作ってください」
女は一瞬だけ目を細め、レコーダーの赤いランプをちらりと見た。
ノートの端に、小さく一行だけ書き足す。
──成田空港、実地試験開始。
都内某所。地下深く、圧力扉が三重に続く通信室。
壁一面のスクリーンには、成田空港の映像、各国の衛星地図、感染推計曲線、
SNSの発火ワードが赤く点滅していた。
「報告」
短く、鋭く、息を切る隙もない声。
指令席に座る男が、オペレーターに顔を向けず指示を飛ばす。
「同盟国からの情報提供は?」
「アメリカ、回答待ち。ヨーロッパ二か国、非公式レベルで“認知”のみ返答。」
「つまり、支援はまだ期待できんか。」
「はい。正式声明は“情勢確認中”」
「C国の動きは?」
「水面下で、医療渡航者の動きが活発化。目的地は国境沿い都市へ集中。」
「あの国が動くとややこしい。“表義援助”名目で、裏は資源交渉に繋げてくる。」
「注意喚起、外務省経由で?」
「いや、警戒レベル引き上げ。自衛隊情報部にも共有。」
指令官は息を吸い、舌打ちを我慢するように顎を引いた。
「警察公安に伝えろ。以前から追っている“オカルト系教団”。
今回の混乱に便乗する可能性がある。
“救済”や“昇華”を掲げて信者を動かす連中だ。」
「了解。公安指令にて注意喚起回します。」
別のオペレーターが滑らかに受信盤を操作し、
三つの国内機関と二つの警戒部門に次々接続。
「厚労省へ通知送信完了」
「航空会社、旅客管理局へ感染情報共有ラインオープン」
「海外邦人保護ルート、外務省返信待ち」
「SNS上の炎上ワード監視、AIモニター稼働率120パーセントで継続」
各所へ飛ぶ指示は無駄がなく、無機質で、切れ味だけが残る。
「次。軍事方面。米軍横田基地からの通信は?」
その一言に室内の空気が変わった。
受信担当の若いオペレーターが、
額に汗を浮かべ、ヘッドセットの片側を押さえたまま固まる。
「暗号……です。」
「どういう性質の暗号だ」
「……通常の共同訓練時では使用しない種類です。
“認証済み”ですが――内容を復号する権限が、日本側にはないです。」
指令官の表情が久しぶりに動いた。
嫌な予感を思い出した人間の顔だった。
「米軍側の“医療部門”か、“軍事生物部門”か、どちらの暗号だ?」
「区別、できません。」
「つまり、“同じ鍵”を使っている。」
室内が揺れたような錯覚。
それは誰かの吐いた息か、胸の鼓動か、
それとも別の何かか。
「続報待機。米側に再確認送れ。
“緊急時医療協定に基づく情報開示要請”名目で。」
「送信……完了。」
十秒後――
オペレーターの顔色が変わる。
「指令……横田基地から追加暗号――受信。
内容ヘッダーのみ確認……」
「読み上げろ。」
「――『成田空港、対象確認。遅延、不可』」
空調音だけが鳴り続ける通信室で、
誰も椅子を動かさなかった。
“対象”が何を指すのか。
“遅延不可”が作戦か、実行か。
答えはどこにも書かれていない。




