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第17話 「白と黒の選択ー⑦」

物語には、明らかに語られた出来事と、何も知らないふりをして静かに横たわる出来事があります。

第一章で積み重ねた場面の中には、後になってから形を変える“点”が、いくつか眠っています。

それが偶然だったのか、意図だったのか——

この回あたりから、わずかに輪郭が浮かび始めるかもしれません。


もし、1章 第12話「増幅剤の影」を読み返した方がいれば、

今回の空気は少し違って感じられるはずです。ただ、それだけでは足りません。

第一章には、まだ触れられていない“別の点”が三つほど、思っているより静かに潜んでいます。


それが伏線なのか、回収されない余白なのか、読み手によって答えは変わるでしょう。

私たちもまだ、そのすべてを明かす段階にはいません。


ですが、少しだけヒントを残すなら——“気づいてしまった人ほど、この先の景色が変わる”

その準備だけして、読み進めていただければと思います。

 画面は、最初から真っ黒だった。

 輪郭も、肩も、指先すら映さない。高性能マイクだけが、かすかな呼吸音を拾っている。


「はじめまして、あるいは、お久しぶり」


 聞き覚えのない声。低くも高くもない、中庸の男声。

 だが、響きだけは妙に滑らかで、ゆっくりと耳に絡みつくようだった。


「今から話すことは、誰かにとっては冒涜で、誰かにとっては救いだろう。

 それでも“聞かされてしまった以上”、聞かなかったことにはできない」


 コメント欄が一瞬だけざわつき、すぐに沈んだ。

 視聴者数のカウンターだけが、じわじわと増えていく。


「人は長いあいだ、死を“終わり”だと思い込んできた。

 だが本当は、死ほど“開始”に近い現象はない」


 くす、と笑う気配だけがマイクに触れた。


「考えてみてほしい。

 今、あなたの手の中にある薬。あなたの家族を延命させた治療。

 それらはどこから来た?」


 一拍の沈黙。


「それは、数え切れない“失敗例”からだ。

 試験に落ちた薬。たどり着けなかった患者。

 カルテの片隅で、小さな記号にされて埋もれた死の一つ一つが、

 “次の誰か”を救う手順になってきた」


 コメント欄が再び動き始める。

 〈なにこれ〉〈宗教?〉〈医者か?〉〈やめろよ〉

 ひらがなと罵倒と絵文字が、黒い画面の下で踊る。


「みんな、わかっているはずだ。

 医学は、人の死から学んできた。

 そして今も、学び続けている」


 声色は淡々としていた。怒りも高揚もない。

 事実だけを置くような調子で続ける。


「人は、その恩恵を喜んで受け取る。

 延命された家族を抱きしめ、回復した自分の体を撫でながら、

 誰もこうは言わない。“あの誰かの死のおかげです”と」


 軽い舌打ちのような音が、マイクに触れた。


「そしてある日、知るのだ。

 “今度の犠牲者”が、自分や、自分の家族かもしれないと。

 そうなった瞬間、人は叫ぶ。“話が違う”と」


 声が、ほんの少しだけ低くなる。


「“なぜ自分がこんな目に遭わなければならない?”

 “誰が悪い?”

 “誰を糾弾すれば気が済む?”」


 コメント欄の動きが少し遅くなる。

 何かを打ちかけては、消しているような間の空き方だった。


「教えてあげよう。

 訴えたいなら――“医学”を訴えるといい」


 そこで初めて、声がわずかに笑った。


「あなたの家族を完璧には救えなかったのは、この時代の医学だ。

 あなたが望むレベルまで、まだ届いていない医学だ。

 だが――恩恵を受けるときだけは、それを“当たり前”として受け入れているはずだ」


 息を吸う音が、はっきりと聞こえた。


「残酷なのは、人ではない。

 仕組みそのものだ。

 進歩の裏側で、誰かが必ず間に合わない。

 そのとき、その死をどう呼ぶか」


 黒い画面に、白い文字が流れる。

 〈ふざけるな〉〈じゃあ諦めろってか〉〈希望ってそういう意味?〉


「我々は、それを“希望”と呼ぶ」


 言い切った。


「死は、次の誰かを救うための希望になり得る。

 排除され、統計の片隅に追いやられた症例が、

 次の指針を生む。

 そのことを、医療はよく知っている」


 そこで「医療」という言葉に、わずかな皮肉が滲んだ。


「だが、国家は違う。

 国家は、“失敗”を嫌う。

 数字を汚す死を嫌う。

 だから、延命を優先し、隠蔽を選び、責任の所在を曖昧にする」


 声のトーンは落ち着いたままだったが、

 その落ち着きが、かえって冷たさを増幅させる。


「我々は、そうした“帳尻合わせの医療”をやめたい。

 本当の意味で、死に意味を与えたい。

 命を、国の所有物ではなく、個人の自由に取り戻したい」


 “自由”という単語だけ、わずかに高く響いた。


「そのために、我々は増幅剤を使った。

 潜伏時間を短縮し、発症を加速させ、

 “見えなかった病”を、誰の目にも見える形に押し上げる」


 コメント欄に〈増幅剤〉の文字が一斉に浮かぶ。

 中には一章十二話の報道切り抜きを貼る者もいる。


「隠されてきた病を、隠せないところまで持ち上げる。

 それが、我々のやり方だ。

 犠牲は出る。もちろんだ。

 だが、その犠牲を“無意味な不幸”として埋めるのか。

 それとも“次の希望”として刻むのか」


 一呼吸。

 視聴者数は、開始時の数倍になっていた。


「我々は、前者を拒み、後者を選ぶ。

 それだけの話だ」


 その口調は、あまりにも平板で、

 だからこそ狂気がよく見えた。


「もし、あなたが今の医療に満足しているなら、

 我々は間違いなのだろう。

 それで構わない。

 だが、あなたが――

 “こんなはずじゃなかった”と、どこかで噛みしめているなら」


 声はほんの少しだけ、優しくなった。


「ようこそ。

 我々の言う“希望”の定義へ」


 コメント欄が、一瞬だけ真っ白になった。

 罵倒も称賛も、皮肉もスタンプも、全部が重なり合って意味を失う。


「止めたければ、止めればいい。

 増幅剤の流通を止め、我々の“解放計画”を止め、

 失われた命の数を数え上げて、

 それでも“正しい”と胸を張るなら」


 マイクの前で、誰かが椅子から立ち上がる微かな軋み。


「それが、あなたの正義だ。

 我々は、我々の正義を選ぶだけだ」


 カメラのスイッチが切れる寸前、

 最後の一言だけが、わずかに低くつぶやかれた。


「――これが、医療に取り残された者たちの、ささやかな革命だ」


 画面が、完全な暗転に戻った。


 ◇


  深夜一時。

 タイムラインは流れていなかった。燃えていた。


《さっきの地下配信って本物?》

《声だけって逆に信用できん》

《“死は希望”とか、笑えない》


 動画本体より早く、切り抜きの方が増殖していく。

 十七分の談話は、一分の刺激に加工され、

 字幕とBGMで“意味”を装飾され、

 発言者の意図だけが置き去りにされていた。


《増幅剤 P034 検索》

《何も出てこない方が怖いんだが》

《試験段階の没データじゃね?》


 違うタブで誰かが投稿する。

 全く関係ない猫動画に、何百という「かわいい」が並び、

 同じ画面上で、希望と絶望が肩を並べてスクロールしていく。


《臨床経験者として言う 犠牲は出る》

《“犠牲”って単語サラッと言うなよ》

《でも実際そうなんだろ?》

《論理的=正しいって勘違いしてそう》


 匿名の医療者らしきアカウント、

 それを嘲笑する学生のアカウント、

 引用RTで煽るまとめ系アカウント。


 理屈も嘘も感情も、

 同じ文字の太さで刺さるのがSNSだった。


《空港で倒れた人、この件?》

《救急車のサイレン聞こえた動画あったよな》

《どこの空港?》《それが分からない》

《フェイクだろ》《でも削除されたのは本物ってこと》


 噂の震源は見えない。

 画像が貼られ、否定され、削除され、

 誤訳付きで別国に再投稿される。


 SNSの地図では、国境は翻訳精度でしか区切られない。


《例の“あの部分”押さえてうずくまってる画像見たけど》

《加工っぽい》《でも影の位置自然だった》

《うちの国に来たら終わるよな》


 ソースを追う者はいない。

 追うより、共有する方が速いからだ。


 疑惑は否定されず、肯定もされず、

 ただ、“存在する空気”として拡散する。


 その空気の正体が

 恐怖なのか、期待なのか、

 救済なのか、破滅なのかすら不明のまま。


 矛盾と断片が、正論のふりをして歩き始める。

 それだけで、十分だった。

 噂が真実に追いつく準備としては。


 ◇


  朝の光は、病院の廊下を白く照らしていた。

 徹夜明けの目には、その白が少し刺さる。

 休憩室の自動ドアが開くと、コーヒーの香りだけが温かかった。


「見た?あの……地下配信のやつ」


 紙コップを両手で包みながら、少し年上の看護師が言った。

 声の温度は低いが、興味が無いわけではない。


「見た。途中までだけど」


「死は希望、って」


 誰かが、その単語の並びを避けるように目を伏せる。


「患者の家族の前で言える言葉じゃない」


 それは正論だった。誰も否定しない種類の正しさ。


 しかし別の看護師が、

 紙コップを机に軽く置いてから、静かに言った。


「……でも、“医学は死から学んだ”って部分、間違いではないよね」


 空気が、わずかに揺れる。

 怒りでも反論でもなく、揺らぎ。

 “それを口に出すかどうか”で、線が引かれていくような感覚。


「学ぶために死んだ人が望んだと思う?」


「望んだかどうかを、本人が判断できる状態じゃないから問題なのよ」


「でもさ、望んだかどうか確認してる暇がない現場もある」


 沈黙が、会話より雄弁だった。

 答えはあるのに、声にすると形になる。

 形になると立場になる。

 立場になると、距離になる。


 誰かが淡々と付け加える。


「諦めることを“希望”と呼び替えるのは……嫌だな」


「でも、生かされ続けることが罰になる人もいるよ」


 反論は強くない。

 むしろ弱い声ほど刺さった。


「革命だって騒いでる連中が言ってる言葉に乗る気はないけど」


「“選択肢”があるって考える人が出るのは、理解できなくもない」


 賛同でも、拒絶でもない。

 理解という言葉が、もっとも危うい中間に位置すると思った。


 あいかが口を開いたのは、会話が一度途切れた頃だった。


「私は……救えるなら救いたい。

 その先が不幸か幸福かなんて、判断できないから」


 素朴で真っ直ぐな答え。

 それを笑う者はいなかった。


 だが反対に、すぐ肯定する者もいなかった。


「救えなかったとき、どう思う?」


 ぽつりと落ちた問いは、責める響きではなく、ただの確認。


「あのとき、できなかった。悔しい。申し訳ない。それだけ」


「それだけで済むの?」


「済まない。でも、済ませるしか進めない」


 まるで、地下配信の“誰か”の論理が

 医療現場の真ん中に落ちてきたかのようだった。


 死は終わりか、開始か。

 犠牲は理不尽か、希望か。

 人を救うことは、救える側の自己満足か。


 そのどれもが、正しくて、間違っていた。


「……ただね」


 あいかが紙コップを見つめながら続けた。


「死を希望って言葉に変換するのは、

 患者じゃなくて医療側だったら、傲慢だと思う」


「でも、迷ってる人にとっては救いの言葉かもしれない」


「だから怖いのよ」


 そこだけ、声に力があった。


「優しい嘘って、人を急に追い詰めることもある」


 誰も返さなかった。

 返せなかった。


 もし返せば、それは“立場”になる。

 立場になれば、派閥になる。


 休憩室のドアが、静かに開いた。

 院内放送の音がタイミング悪く割り込む。


《救急車両三台同時到着――ヘブンズゲート科、急患対応準備》


 反論も賛同もないまま、全員が立ち上がる。


 思想ではなく、現実が呼ぶ音だった。


 コーヒーの香りだけを残して、

 白い光の中へ歩き出す。


 ◇


 午前7時21分。

 第1ターミナル国際線ロビー。

 床表面温度 18.6℃、湿度 42%。

 冷えた空気は、膨張する熱とは相性が悪い。


 男性は、最初に違和感を覚えてから約9分が経過していた。

 最初の疼痛が“気のせい”で済まされる限界が5〜6分だとすれば、

 その倍の時間、誤魔化せる痛みではなかった。


 下腹部皮膚温:36.9℃ → 38.2℃ → 39.1℃

 衣服越しでも熱がわかる。


 膨張度:+23.4%(推定)

 歩行時の揺れで内部摩擦が生じ、熱を生成。

 発赤はなく、むしろ蒼白に近い。

 血流より内圧の勝つ状態——“崩壊前夜” の色だ。


 男性は座り、立ち、また座り、

 呼吸数は 18 → 26 → 33/min。

 酸素飽和度を測る器具などここにはない。

 しかし、口呼吸の深さと肩の上下だけで

 助けを呼ぶべきタイミングは読み取れた。


「……たす……っ」


 言葉にならない母音。

 舌の震えと唾液分泌の低下。

 神経伝達が追いつかない。


 圧は、心拍に同期する。

 脈拍数は推定で 120を超えている。

 局所組織がまるで独立した拍動を持ち始め、

 自律のリズムで膨張と収縮を繰り返す。


 皮膚表面の点状出血は、毛細血管の限界破綻。

 一次裂開の前兆だ。

 深呼吸は逆効果。

 横隔膜の動きが圧を促進する。


 男性が“そこ”を両手で押さえつけた瞬間——


 皮膚音が鳴った。

 湿った裂開音。

 圧負荷破裂 第1波。


 滲み出たのは血液ではなく、灰色がかった半透明。

 粘度は血漿比で約1.8倍。

 糸を引く性状。

 精排液と血漿の混合と思われるが、

 通常の粘性値を大幅に逸脱している。


「っ、ぁ……あ……」


 破裂は一度では終わらない。

 内圧が逃げ切るまで、

 第二波、第三波の裂開が連続する。


 第二波で液が量を増し、

 第三波で色が変わる。

 淡灰 → 淡黄混濁 → 暗褐。

 血液比率の上昇。

 組織破壊が進んでいる証拠だった。


 床に滴り落ちた液は、

 タイルの角度に沿って広がる。

 わずか 0.5mmの目地が、液を思考のように分岐させる。

 面積 0.4㎡ に拡大。


 誰も声を上げなかった。

 声より先に、呼吸が止まったからだ。

 本能で距離を取り、

 理性が追いつく前に後退る。


 男性は破裂の瞬間にも目を閉じなかった。

 閉じられなかった。

 乾ききった角膜が光を反射し、焦点が迷子になる。

 音も、匂いも、温度さえ判断できなくなる直前。


 液体の匂いは、血鉄ではない。

 体温に溶けた化学に近い。

 アンモニアと有機酸の中間、

 それが空港の空調に混ざる。


 自動放送が、能天気に流れる。


《まもなく搭乗手続きが開始されます——》


 日常は、異常と同時進行できてしまう。

 ほんの数秒だけなら。


 その数秒が、

 噂を現実に変えるには十分だった。



 医療は、患者のために存在する。

 それは誰もが口にできる“正しい言葉”だ。

 しかし、その正しさは、時代とともに姿を変える。

 治療法が変わり、倫理が変わり、法律が追いつき、

 気づけば十年前の“正しさ”は古く、

 そして、ときに“罪”として扱われることすらある。


 この物語は、未来の話ではない。

 遠いSFでもない。

 今の延長線上にある、近い未来の医療の話だ。

 救命と制度、現場と数字、使命と疲弊。

 誰かを救えるはずの技術が、法に縛られ、倫理に迷い、

 時間だけが容赦なく人の命を奪っていく——

 その矛盾を、現場の人間だけが正面から引き受けている。


 “革命”という言葉は大げさだと思うだろうか。

 けれど、歴史に残った革命は、

 その瞬間に革命と呼ばれたわけではない。

 現場の誰かが、必要な方向に動いた結果、

 後になってそう名付けられただけだ。


 誰かが新しい治療を始めると、

 それは暴挙と呼ばれた。

 倫理の外側だと言われた。

 制度の逸脱だと断罪された。

 しかし、その治療が救いとなったとき、

 人々は言い方を変える。

 「あれは革新だった」と。


 反対する者が悪ではない。

 踏み出す者が正義でもない。

 ただ、どちらも“本気”で命と向き合っている。

 正しさがぶつかり、矛盾が鳴り響き、

その摩擦で火花が散る。

 それが時代の転換点となるのなら、

 炎を恐れる者と、炎を灯す者がいるだけだ。


 この物語は、医療ヒューマンドラマだ。

 英雄譚ではないし、革命伝記でもない。

 ただ、誰かの命と向き合い続けた人たちが、

 現実に押され、制度に追われ、

 そして——

 必要に迫られて、扉を叩く。


 ヘブンズゲート。

 天国の扉と呼ぶか、禁忌の門と呼ぶかは、

 未来の誰かが決めること。


 今はただ、

 “救えるなら、救いたい”

 その思いが、ときに狂気と呼ばれるだけ。

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