第16話 「白と黒の選択ー⑥」
ヘブンズルームの扉が閉まる瞬間まで、奥様の声だけは外に漏れ続けていた。
「触らないでって言ってるでしょ!!」
車内は外界と切り離された密閉環境。
揺れを吸収する床材、淡い照明、冷却循環の低い唸りだけが続く。
その静寂に、患者の粗い呼吸音が妙に強く響いた。
「奥様。いまから説明しますね」
お美々の声は、柔らかいが芯があった。
タブレットを奥様の目の高さへ傾け、簡易モニターの数値を指で示す。
「いま膨張度が 2.6域 にいます。
このまま五分放置すると 2.9越え=破裂リスク。
破裂すると、失うのは“サイズ”じゃなく“機能”です」
奥様の肩がわずかに震えた。
怒りに見えていたものの奥に、恐怖があった。
「……どうして……急に……」
「急じゃないです。ゆっくり進んで、今日“表に出た”だけです」
お美々は患者に目線を戻し、
冷却ゲルのパックを開封する。
ゲルが空気に触れて一瞬曇り、ひんやりとした香りを立てる。
「冷たく感じますが、呼吸を止めないでくださいね」
ゲルを起点へ沿わせ、角度をつけながら薄く広げる。
患部が逃げる方向を読み、圧をかけずに誘導する。
奥様が顔を逸らしたが、すぐに戻した。
見なければ安心できない、しかし見たくない――
その矛盾が表情に滲んでいた。
「は……っ……」
患者の腹部が波打つように上下し、
膨張の張りつめた光沢が、ゲルでわずかに緩む。
モニターの波形が 2.6 → 2.5 → 2.45 と微細に下がる。
「はい、波落ちてきました。
ここから“逃げ道”作ります」
お美々は角度を変え、基部近くへ指を滑らせる。
指先の腹を使って圧ではなく流す。
“押す”のではなく“戻す”――経験の指が記憶している動きだ。
「奥様、呼吸、合わせてください。
ご主人と同じテンポで」
「な……なんで私が……」
「ご主人の体が“守ろう”として固くなるので、
それを緩めるには、近くの安心が必要なんです」
奥様は、少し戸惑い、
それでも患者の横へ膝をついた。
「……はぁ……はぁ……」
夫婦の呼吸が、重なる瞬間。
波形が 2.38 → 2.30 に落ちた。
「そう、それです。
そのまま。大丈夫、怖くない」
お美々は排液誘導の準備へ移る。
トレイをセットし、角度と呼吸のタイミングを図る。
「奥様、後ろに下がってください。
服に付くと、落ちませんので」
「え、落ちないって……?」
「ええ、落ちません」
呼吸が浅くなる直前、
患者が強く目を閉じた。
――その瞬間。
小さな破裂音のような音とともに、
トレイへ白濁した排液が落ちる。
量は多い。
数滴ではなく、間違いなく“出た”。
排液の粘度が、一定のテンションを持って糸を引く。
トレイの底に当たる音が、車内に淡く響いた。
「……っ……あ……」
患者の肩の力が抜け、息が深く落ちる。
モニターの数字が 2.30 → 1.95 → 1.70 へ。
ピークを越え、安定域へ移行した。
「成功です」
お美々がトレイを持ち上げ、
奥様へ見せることはしないまま説明する。
「量は多いですが、粘度は問題なし。
色調も許容範囲、異臭なし。
今回は対応できました」
奥様は、膝に手を置いて俯いた。
怒りの温度が、別の色に変わっている。
「……いくら病気とは言え……
あんなに……出るものなんですね……」
声は震え、夫へ向けられた感情は複雑だった。
怒りと、安堵と、恥と、わずかな呆れ。
「帰ったら……あなた……話があるわ」
患者は微妙な笑みで視線を逸らす。
お美々はその表情を見て、小さく息を吐いた。
「はい、今日はこれで終わりです。
お疲れさまでした」
ヘブンズルームの扉が開き、
日常の喧騒が一気に流れ込む。
患者と奥様がゆっくりと外へ歩き出し、
お美々は静かにモニターを消した。
◇
病院の外、夜風が少し冷たい。
街灯の下で立ち止まった奥様は、腕を組んだまま夫を睨みつけた。
「……まったく。いくら病気とは言え、あんな……
あんなに人前で出して……っ」
夫は気まずそうに頭をかき、それでもどこか軽い声だった。
「いや、俺だって好きで出したわけじゃないし。
でも……ほら、機能は問題ないって確認できたみたいだし?」
「……え?」
「その……今夜、ちょっと試してくれたらさ……
問題なかったって、俺の中でも実感できるというか」
奥様の顔が、一瞬でさっきの怒りとは違う赤さに染まった。
「い、いや、その……病み上がりでしょ?
その……今日は……」
夫は少し笑い、しかし真面目な声で続けた。
「怖かっただろ。俺も怖かった。
だから、ちゃんと確かめたいだけ」
奥様は視線を逸らし、風に押された髪を耳にかけた。
「……はい。
でも……優しくしてよ?」
夫は照れたように笑い、
二人は並んで歩き出した。
さっきまでヒステリーの嵐だった空気が、
気まずく、でもどこか温かく溶けていく。
◇
更衣室の扉が勢いよく開き、半分白衣のままの姿でお美々が飛び込んできた。
その表情は、疲れと興奮が半々で、話を溜めきれずに溢れ出している子どものようだった。
「聞いてください二人とも!!ヘブンズルーム、今日の一件!!」
ちょうど髪をタオルで押さえていたあいかが、片眉を上げた。
芽瑠はロッカーの前でメモを閉じ、視線だけを向ける。
「あのね……今日はすごかったんですよ。もう、めっちゃくちゃ」
お美々は靴を脱ぎながら、興奮が手に残っているのか、動きが少しぎこちない。
まず勢いで語りはじめ――ふと、息を整えた。
「患者さん、奥様がずっと横にいたんです。
“触らないで”って、何度も、何度も。
でも誘導かけても、角度24°から落ちなくて」
その言葉で初めて、あいかと芽瑠の視線が真正面に向く。
「視界に家族がいて、角度維持?」
芽瑠の声はフラットだが、その一言に驚きがあった。
「はい。
一次抑制反射が効かない感じで……
羞恥や拒否より、膨張反応が上回る“あの感じ”。
正直、背中に汗かきました」
「あの空間で、奥さんの視線浴びながら――抑制できない」
あいかがタオルを握る手に少し力を込めた。
「排液量は?」
「58ml。
粘度指数中等、色調分類Ⅱ。
誘導有効域には綺麗に入っていました。
でも……心の方が追いついてない感じで」
お美々の表情が少しだけ揺れる。
その揺れは、冗談でごまかせるものではなかった。
「なんか、人の意思って……
“恥ずかしいから止める”って、ああいう場面では意味を失うんだって……
怖かったです」
静寂が三秒あった。
冗談で埋めて逃げようと思えばできる。
けれど今、その三秒を誰も潰さなかった。
そして、お美々は息を吸い直す。
笑顔をつけ直す。癖のような笑い方で。
「でも!!
結果……すんっごく出た!!
堂々と!奥様の前で!!」
「誇るポイントどこ」
「データとしては成立」
二人の返しは見事に温度差のない、医療者の声だった。
お美々は肩をすくめ、ベンチに座りなおす。
「芽瑠さん、これ研究材料にはなりますよね?」
「情動干渉下での角度維持Δ0。
意思より反射が優位になる可能性の示唆としては十分」
「これ、今後増えたら……?」
あいかが投げる。
「“遮断できない排液反応”。
そう分類される未来はある」
その瞬間、女子会のはずの空気は、
一度だけ医療会議に戻った。
――ピンポンパンポーン。
《救急搬送車3台、まもなく到着。――ヘブンズゲート科、急患対応準備》
あいかがタオルをロッカーに押し込み、天井を見上げながら小さくため息。
「は~……帰りそびれたか……」
芽瑠は髪を結び直す、ためらいのない手つきで。
「そうね。行きましょうか」
「えぇーー!!
言いましたよ!?帰るって!!
今日の私はヘブンズルーム4本分の疲労なんですよ!?」
文句を言いながらも――
靴は履き替えられ、白衣は肩にかけられている。
三者三様、言うことは違う。
でも足は同じ方向へ向かう。
「結局、行くんだよね……」
「行く」
「……行きます」
扉が閉まった瞬間、
また始まった――という気配だけ残した。
件名:慣れれば美味よ?
本文:
あいかちゃんへ。
読んだよ。
相変わらず忙しそうね。
それでも文章の端に、少しだけ楽しそうな匂いが混じっているのが、あなたらしい。
ヘブンズルームの稼働報告、興味深かった。
院外で完結できる処置を実証できているなら、国は予算を絞らない。
ただ同時に、「何故こんな速度で症例が増えているのか」については、
日本からの情報だけでは追いきれない。
それと――芽瑠さん。
彼女を“医療の現場”に巻き込む感覚は、わたしが知っているあなたと少し違う。
悪い意味ではなく、変化の方。
責任の重さを、背中で覚えた人の目になってきた。
疲れたらちゃんと寝なさい。
食べなさい。(どちらでも、お好きなほうをね♪)
笑いなさい。
この三つを欠くと、E.O.S.の前では心が先に折れる。
あなたが折れると、後ろにいる人達も一緒に落ちる。
また返信する。
こっちは相変わらず暑い。
水はまだ慣れない。
でも患者の顔は、どこの国も同じね。
ゆい (Ps:あなたはもう十分に『抜き屋』よ)




