第15話 「白と黒の選択 ―⑤」
ヘブンズルームのサイドパネルが開き、外気に少し湿りを含んだ春の温度が流れ込む。
患者搬送は救急車ではなく、一般車両。
助手席のドアが勢いよく開き、女性が先に飛び出してきた。
「誰か!助けてください!早く!早く!!」
声が裏返っていた。
運転席側から降り立った三十歳前後の男性は、脚をかばうように前屈姿勢で、
腰のあたりを押さえている。顔色は悪く、額には冷や汗。
ヘブンズルームの外で待機していたお美々が、すぐに駆け寄る。
「こんにちは!ヘブンズルーム担当、ナースのお美々です。まず状況を確認しますので、
こちらへお願いします」
女性はお美々の胸元の名札を見た瞬間、敵対するような目になった。
「女の人に触られるなんて困るんですけど!!」
周囲の視線が一斉に集まる。
人が立ち並ぶ商業施設の駐車スペース。
お美々は笑顔を崩さない。
「大丈夫です、触れる前に、必ず説明からしますね。ご主人の安全を最優先にしますので」
「説明とかじゃなくてっ……!その!…そこを触られるのが嫌なんです!!」
「“そこ”の治療なんです。触れずに治療できる疾患じゃないんです」
お美々の声は柔らかい。だが、揺れていなかった。
男性が苦しそうに言葉を継いだ。
「俺は……平気だ。頼む……痛みが……なんか……破裂しそうで……」
“破裂”という言葉を聞いた瞬間、
お美々の表情がほんの僅かに締まる。
「ステージ2後半、進行中と判断します。奥様、危険な状態です。
迷っている時間が負担になります。中にご案内します。奥様も同席できますよ」
その一言で、女性の足が止まる。
同席できる――それが、警戒の針を少しだけ戻した。
「ほんとに……一緒にいられるんですね?」
「もちろん。ご主人の視界の範囲で、ずっと」
女性は唇を噛み、小さく頷いた。
ヘブンズルームの中へ案内され、男性は処置台に横たえられる。
制限された空間、モニターの淡い光。
外のざわめきは遮断され、内側に静寂が作られる。
「まず、呼吸だけ意識しましょう。吸って……止めて……少し、ゆっくり吐きます」
奥様の指先は落ち着かず、彼の腕を握る角度が一定しない。
お美々は横目で確認しつつ、正面から男性に向けて語り続ける。
「怖いと思います。でも“わからない怖さ”が、いちばん圧を上げます。
今の状態は“わかっている怖さ”。こちらが制御に回れます」
奥様が涙声で返す。
「怖いに決まってるじゃないですか……!それを止めてくれるなら……でも……」
「止めます。“ここで止めるための車”ですから」
お美々はモニターを見て、手袋を締め直す。
「薬液はフェーズ1。段階変更は波形を見て判断します」
処置開始。
緊張が三人の呼吸の中を移動する。
奥様は震える手で夫の指を握りしめ、夫は浅い呼吸のまま横目でお美々を見た。
「……頼む。頼みます」
「任されました。怖さごと預かります」
その言葉は、奥様の耳にも届いた。
握る手の力が、少しだけ変わる。
“突っぱねる角度”ではなく、“委ねる角度”に。
お美々はモニターに目を配りながら、処置手順に移る。
「では、精排液起点部に触れます。痛みが走るかもしれませんが、確認が必要です」
その“触れます”の一言の直後だった。
「えっ……触る?!触るって……ちょ、ちょっと待って!触る!?
あの、その……うちの人の――そこ、触らないでぇぇぇ!!」
奥様のボリュームは、一気に車内容量の限界を突破した。
処置台の外に配置されていた補助ナース二人が振り返る。
駐車場誘導係の運転手が目を丸くしながら近寄る。
「奥様、落ち着いてください!生命に関わる部位の確認です」
「いやっ見てる!絶対見てる!!誰!あんた誰!!ナースなの!?ほんとにナースなの!?
アイドルじゃないの!?」
(なぜアイドルという発想に飛んだのか謎だが)
お美々は慣れた調子で笑顔を崩さず答える。
「ナースです。アイドル力は低めです」
「低め!?比率あるの!?どんな病院よ!!」
助手席から降りてきた男性運転手が、半ば抱えるように奥様を後ろへ下げようとする。
「奥さん、危ないですから、まず少し下がりましょう」
「いやっ、いやーー!!そこっ!!うちの人のそこはぁぁ!!」
形容が曖昧すぎて、逆に状況説明が難しい。
補助ナースが静かに肩へ触れ、視線を合わせながら落ち着いた口調で言う。
「奥様、私たちは“そこ”を守るためにいます。
触らないと守れません」
奥様の呼吸が乱れ、涙が浮かぶ。
「本当に……守ってくれるんですか……?」
「はい。
触るのは、守るためです」
その言葉に、お美々も続ける。
「どんなに不安でも、手を離さないでください。
ご主人が“怖さで角度を失わないように”、奥様の存在が支えになります」
奥様は噛みしめるように床を見る。
そして震える声で言った。
「……怖いのは……私の方かもしれません」
「それでいいです。怖さごと、ここに置いてください」
お美々が再び処置位置へ向き直る。
奥様は夫の指を握り、深呼吸を合わせた。
モニターには、数値が細かく揺れながらも確実に下降していく波形が映っていた。
その画面は、ヘブンズルームの車体から、目に見えないどこかへ。
映像も音声もなく、ただデータだけが送られていく。
◇
白い壁、窓のない狭い室内。
卓上には端末が一つ。
そこに連続して届く波形と、処置時間と、投薬量のログ。
「……いいデータが取れている」
低く抑えた声が、乾いた部屋に吸い込まれた。
「現場の判断には個体差が出る。その“揺らぎ”こそが材料だ。
安定してしまえば研究は狭まる。揺れる医療こそ、価値がある」
端末の画面に、さらに新しいパケットが届く。
「ヘブンズルームは、使い方次第だ。
治療にも、制御にも、示威にも」
男は椅子を組み替え、卓上の端末に黒い布を被せるように閉じた。
◇
院内通路。
白い光が床に淡く反射し、少し寒さを感じさせる。
院長と須志有喜次長が、反対方向から歩いてきて、すれ違う寸前で足を止める。
「……ヘブンズルーム、順調ですね」
「順調すぎるという声もある」
須志がわずかに笑みを浮かべたように見えた。
「順調は、費用対効果という視点では悪くないはずですが」
「医療にかかる費用は、“どこから出るか”で意味が変わる」
院長の声は抑えているが、淡々とはしていなかった。
「支援が広がれば、管理する者が増える。
管理する者が増えれば、語る者も増える。
語る者が増えれば、介在する金の向きも変わる」
「見返りが発生する……と?」
「見返りを求める者は、いつも最初に現れる」
須志は一度視線を落とし、また戻した。
「では、次の会議は“条件”の話ですか?」
「条件の話は嫌いだ。
だが、避けられないこともある」
一拍置き、互いに歩みを再開する。
須志の足音は軽く、院長の足音は重かった。
同じ方向を向いていない音だった。
件名:配備と近況、それからちょっと愚痴
本文:
ゆぃゆぃ先輩。お元気ですか?
そちらの食べ物はお口に・・・あっ食品ですよ?
ご存じの通り、例の院外処置車両――ヘブンズルームが正式に配備されました。
病院の外で“そのまま処置を完結できる部屋”なんて、先輩がいた頃には想像もしなかったですよね。
搬送の時間を救命に変えられるのは大きいです。
そのぶん、責任も景色も変わりましたけど。
それから、研究観察名目で、わたしの友人の芽瑠が派遣されました。
医療者じゃないのに、現場の空気に真正面からいる子です。
データを拾って、考えて、前に歩こうとする。
その姿を頼もしく思う反面、少しだけ心配もしています。
この場所は優しくて、同時に残酷ですから。
お美々は相変わらず明るくて、患者さんの怖さを和らげる才能があります。
あの子の声は、不思議と信じさせる力があります。
成長が嬉しくて、ちょっとだけ置いていかれる感じもします。
わたし達の周り、数字が会話に混ざり始めました。
成果が価値になると、温度の扱い方を忘れそうになります。
先輩、帰ってきたらまた教えてください。
わたし、ちゃんと“抜き屋”出来てますかね? ^^
あいか、より




