第14話 「白と黒の選択 ―④」
午後の会議室は、午前中の喧騒を忘れたかのような静けさに満たされていた。
丸テーブル中央に設置された大型モニターには、昨日の処置室映像と、簡易の統計データが並ぶ。
院長、須志有喜次長、救急科の白岩教授、内科、外科、
森乃芽瑠 特任研究官、そして現場のリーダーとして五鈴あいかが座っている。
「では――議題①。
昨日の救急搬送ラッシュ時に行われた“左右並列での同時処置”について」
事務局の職員が読み上げると、視線が一斉にあいかへ向いた。
そこに責める色はなかったが、期待と緊張が混ざった空気が漂っていた。
「記録映像、再生します」
モニターに映るのは、処置台を左右に二台並べ、あいかが中央に立って指示を飛ばす場面。
救急隊員の声、トリアージ看護師の報告、機材音。
そのすべてが重なり、現場の熱が会議室にまで伝わってくる。
映像が一時停止される。
あいかが左右の患者に同時に声をかけ、片方の圧を読み、
もう片方のラインを調整しようとしているタイミングだ。
「まずは五鈴さん。本件について、現場説明を」
院長の声は落ち着いていたが、重さがある。
「あの時、搬送車五台同時到着、うちステージ2が三名。
処置室は一杯で、観察ベッドも埋まっていました。
放置すれば膨張度の波が上がり、破裂のリスクが近づく。
――間に合わないと思いました」
あいかの声は、抑えているのに熱が乗っている。
昨日の喧騒がまだ身体に残っているのだ。
「本来、並列処置は原則禁止です」
白岩教授が言う。
「はい。理解しています」
「あれは、もし片方の状態が急変したら、誰が責任を取るのか。
五鈴さん、あなた一人に負担が集中しすぎます」
「患者を失うリスクと、院として負うリスク。
どちらを優先するのだ?」
院長の言葉は淡々としているが、刺さる。
「院長。失うのは“院の信用”ではなく、“その人の生”です」
場が静まった。
「もちろん、理解はしています。
しかし医療は再現性が重要です。“できた”は、次もできる証拠になりません」
白岩教授は譲らない。
「破裂の危険は、あの時点で最も高い状態でした。
処置が遅れれば、取り返せない」
「しかし救急医療はチームです。
五鈴さん一人が支える形は、組織として不安定です」
「……あの時、他に選択肢はありませんでした」
視線が須志有喜次長に向く。
彼は腕を組んだまま、モニターを見つめていた。
「五鈴さん。あなたがした判断を、私は否定しません。
だが組織としては“想定外の成功”を肯定材料にできない」
「病院としてはどう結論する?」
院長が問いかける。
「原則――並列処置は禁止とする。
ただし、例外的状況において、現場リーダーの判断により、
最終決断を一時的に委ねる」
「つまり、五鈴さん。あなたの判断だ」
白岩教授が言った。
(そう……結局、“やるかやらないか”は現場が背負う)
「あの日のような搬送が続くなら、また同じ場面が来るかもしれません」
あいかは正面を見る。
「その時、また同じ判断をします。
一人でも生きて出口から帰れるなら」
会議室に、言葉としてではなく、温度が落ちた。
それは冷たさではなく、覚悟の温度。
「記録にはこう残しましょう」
院長がゆっくり言う。
「“推奨しない”。
ただし、救命のための最終決断を、現場リーダーに委ねる」
あいかは、深くは頭を下げなかった。
ただ、目の奥に火だけを残して座っていた。
議題①の議論が落ち着き、会議室の空気がわずかに沈静する。
モニターが切り替わり、新しい資料が映し出された。
◇
「議題②。ヘブンズルーム稼働状況について」
事務局の声に合わせ、視線が数名動く。
現場でその車両に立ち続けたお美々、
その横には研究観察名目で派遣されている 森乃芽瑠 特任研究官が、
タブレットを構えたまま控えている。
「では、お美々さん。お願いします」
「はいっ、お美々です」
明るい声だが、浮ついた調子ではない。
彼女は手元のメモを一度見てから話し始めた。
「ヘブンズルームでの処置は――
初日に合計六名の患者さんに対応しました」
数字は事務報告だが、声には“顔を見た数”の重みがあった。
そのまま芽瑠が補足に入る。
「全員、院外拠点での処置によって安定へ向かいました」
「院外の車両内で、六名を」
院長が確認するように言う。
「はい。商業施設の駐車スペースを利用し、
搬送ゼロの状態で開始できました」
芽瑠がタブレットを操作し、波形グラフを映し出す。
「データ上では、処置開始から膨張度の下降へ移るまでの時間が、
院内処置より平均で一割早くなっています。
“落ちるまでの角度”が浅い印象です」
「薬剤の投入量は?」
須志有喜次長の問いは、単刀直入だ。
「フェーズ1薬液のみで全例対応。
フェーズ2の使用はゼロです」
「薬剤単価が抑えられるのは大きい」
紙資料をめくりながら次長が口にする。
「ただし、ヘブンズルーム維持には費用がかかる。
燃料、保守、定期点検、内部消耗品」
「はい。それでも、
“院内の処置室を塞がずに救命ラインを増やせる”という利点があります」
芽瑠が淡々と返す。
そして、お美々が少し息を整え、言葉を選ぶように口を開いた。
「数字とは別に、体感として――
患者さんの反応が、少しだけ違う気がします」
教授陣が表情を変えずに耳を傾ける。
その瞬間、空気がひとつ深くなる。
「病院のベッドだと“治療を受ける側”って感覚が強く出ることがあります。
正しいことなんですけど……人によってはそれが、
“怖さを強くする角度”になることがあるんです」
「怖さの角度?」
院長が問う。
「はい。
ヘブンズルームは狭い密閉空間ですが、
周囲の視線がない、音が閉じられる、外のざわめきが遠い。
それが“守られている”感覚に繋がるんじゃないかと」
芽瑠がその流れを受け、数値を添える。
「恐怖反応曲線がゆるやかに下降するタイミングが、
患者の表情変化と一致しています。
環境刺激と生理反応の同期と考えられます」
院長は視線を落とし、ゆっくりと人差し指で資料の端を叩いた。
「数字と、感情の方向性がリンクしている可能性がある、か」
「はい。
まだ仮説ですけど、“環境が心理を、心理が身体を引っ張る”
そんな流れがある気がします」
その言葉は柔らかいが、
この議題の重心を少し動かした。
「初動六名の結果として、
ヘブンズルームは効果を示していると判断してよいか?」
「現場としては、はい」
「データとしても、一定の成果が見られます」
「薬剤コストの抑制も可能性あり」
三者三様の温度だが、方向は一致していた。
院長は短く息を吸い、そして吐く。
「では結論。
ヘブンズルームは今後も当面運用継続。
ただし稼働基準・費用・成果指標の整理が必要。
お美々さん、芽瑠さん――詳細報告書をお願いします」
「はい」
「は、はい!頑張ります!」
お美々の声だけが一段明るく、
会議室にわずかだが自然な呼吸が戻った。
◇
議題②が終わり、会議室の空気は別の硬さへ移った。
院長が資料のページを押さえたまま、視線をお美々へ向ける。
「先ほど、“角度”という言葉が出ましたね。
どういう意味で使っていますか?」
指名されたお美々は、一瞬まばたきをしてから、
手元のメモをそっと閉じた。
「はい。
わたしが現場で患者さんと向き合っている時、
どうしても気になる瞬間があるんです」
「それは具体的に?」
「ひとことで言うと――“身体が帰ってくる角度”です」
会議室の空気が、わずかにざわつく。
患者が“帰る”。
その言い方が妙に響いた。
「膨張はしてるんです。
でも、怖さや焦りが少し緩む一瞬に、
身体が“戻ろうとする方向”が見えるんです」
教授の一人が眉を寄せる。
「戻る方向……物理的な角度の話ですか?」
「はい。
薬液が効いたからでも、力が抜けたからでもなく、
“心が先に折れた時”に、身体があとを追うように動く。
そんな印象があります」
院長が、薄く息を吸った。
「すると、
“心理が先”で“生体が従う”という理解でいいですか?」
「まだ言い切れませんが、
そう感じる場面が、六名のうち三名にありました」
「角度の変化は具体的にどの段階で?」
「恐怖が“逃げる”から“諦める”に変わった瞬間です。
言い換えると――『どうにかなるかもしれない』から
『どうしようもないけど、任せよう』に変わる境界」
院長が肘に手を添え、深く考える姿勢になる。
そこへ、芽瑠がタブレットを回転させ、
波形のグラフを映し出した。
「今のお美々さんの言葉を、データの側から補足します」
波形は三種類、色分けされている。
「恐怖が“警戒”の段階では、波形は細かく乱れます。
“防御”に入ると、一度大きく波が立ち上がる。
そして“諦め”に近い反応が出ると、
波形が深く沈んだ後に、緩やかになります」
「角度と波形の関係があると?」
「断定はできませんが、
“心理段階ごとに、波形と姿勢が変化している”可能性」
芽瑠は言葉を選ぶ。
研究者の慎重さと、興奮を押し殺す癖が滲む。
「つまり、“角度”とは比喩ではなく、
心理が身体姿勢を変える手がかりとなる指標である、と」
「はい。
現場の看護師が“感じていたこと”と、
データの側が“示しつつあること”が、
部分的に一致しているように見えます」
院長は指先で資料を軽く叩いた。
「興味深い。
患者心理の計測と、角度の実測値を連動させられるなら、
治療判断の材料に成り得る」
教授が補足する。
「波形が乱れている段階では介入を避け、
波形が落ち着く気配を見てアプローチを変える――
そういった“次のフェーズ”の運用が考えられる」
院長は視線を巡らせ、最後にお美々へ戻した。
「現場感覚を侮るべきではないということか。
看護師が掴む“瞬間”が、治療の鍵を持っている可能性がある」
お美々は小さく頷き、
「はい。
わたし達が触れているのは、身体だけじゃなくて、
怖さそのものなんだと思います」
その言葉は飾り気がなく、
妙に会議室の白い壁に沁みた。
◇
院長は資料を閉じ、指先で一度その表紙を軽く叩いた。音はほとんど響かない。
しかし、その小さな動作が、長い議論の終わりを告げる合図となった。
「本日の議題三件、結論を述べます」
会議室にある空調の風切り音だけが、外界との境界を感じさせた。
「まず一点目。左右同時処置について。
これは即時救命を優先した苦渋の判断であり、成功例として記録される。
しかし再現性が担保されていない以上、原則禁止とする。
ただし破裂リスクが顕在化している症例に限り、担当責任者二名以上の判断を必須とする。
安全は偶然によって担保されるべきではない」
“成功”という言葉を使いながら、その声には僅かな棘があった。
(成功は美談ではない。単なる結果だ。だが人は結果に酔う──)
その思いを飲み込み、言葉を続ける。
「二点目。ヘブンズルームの運用について。
処置効率、移送時間の削減、心理反応の緩和、いずれも有意な可能性を示している。
よって稼働を継続する。
ただし、運用基準・費用対効果・安全規程を明文化し、正式に運用ガイドラインを策定する。
機能は評価する。だが、現場依存の“感覚”で走らせてはならない」
目線だけで、お美々の方へ一瞬向ける。
咎めではない。抑制でもない。ただ“自覚を促す視線”。
(若さは力だ。だが時に、それはとがり過ぎる。だが鈍らせては意味がない)
最後の議題へ。
「三つ目。角度と心理反応の相関について。
これは極めて興味深い。治療が身体にのみ作用するという前提を覆す可能性がある」
教授陣の間に、僅かな驚きが走る。院長は続ける。
「患者心理が身体制御に影響する──
これまでも言われてきたことではあります。
しかし、それを“治療指標として扱う”段階に踏み込むかどうかは、別次元の判断です。
研究対象として切り分け、波形と姿勢角度の相関、薬液反応の変化を追跡する。
森乃特任研究官、あなたの領域だ。医療側と協力し、資料整備を」
芽瑠の指先が、タブレットの縁を強く挟んだ。
緊張か、昂ぶりか、それは読み取れなかった。
(我々は、医学と心理、科学と感覚の境界に足を置いた。
それは進歩であると同時に──新しい責任の始まりだ)
院長は背もたれにもたれず、前屈みの姿勢を保ったまま言葉を締めに入った。
「一点、忘れてはならない。
人は恐怖のもとで形が変わる。
だが我々が扱うのは“形”ではなく“人”だ。
角度がデータになっても、数字が波形に現れても──
患者が不安を飲み込み、任せると決めたその瞬間に、我々の責任は最大化する」
空気が、音もなく引き締まった。
「治療の拡張は、我々を強くする。
だが同時に、未知へ手を伸ばすことを意味する。
慎重であれ。怯むな。
私達は──未知を恐れ、しかし踏み込むために医療に立っている」
一拍置き、
「以上。総括とします」
誰もすぐには椅子を動かさなかった。
言葉よりも、その残響の方が長く会議室に滞在した。
椅子が静かに軋む音だけが、重く冷えた余韻を割った。
誰もが立ち上がるタイミングを掴めず、資料を閉じたり、手元を整えたりする仕草で間を埋める。
須志有喜次長は、会議室の端に置かれた予備椅子に掛けられたままの上着を拾いあげ、袖に腕を通す。
その仕草は乱れがなく、むしろ余裕すら漂わせていたが、目だけは資料の一点を離さなかった。
六名分の処置データ。
薬剤使用量の欄だけが、他の数値と違う角度で彼の思考を刺していた。
――薬液コストが抑えられる。
――移送削減。
――ヘブンズルーム二台体制の意味。
そして、院長の総括の中に、ただ一度だけ含まれた言葉。
「未知へ介入」
須志は小さく笑った。
誰にも聞こえない程度の、ため息に似た笑い。
(未知は、計画の敵ではない。
未知は、利得の余白だ)
上着のポケットで、彼のスマート端末が震えた。
着信名は表示されない。
番号を知っている者は多くない。
短く通話ボタンを押し、口だけで言う。
「──終わった。議題は通ったよ。予定通り、“動かせる段階”に」
受話の向こう側、声は聞き取れない。
ただ数秒、無言の圧だけが返ってくる。
「ええ。角度の件も、こちらが拾います。研究枠と現場、両方ね。
……心配はいらない。彼らは忙しい」
通話が切れた。
スマート端末の画面はすぐに闇へ沈む。
会議室の出口付近で、芽瑠がタブレットを抱えたまま立っていた。
彼女は須志を見送るわけでもなく、ただ、研究者としての目で彼を分析するように瞬きをした。
須志は笑う。
柔らかく、しかし中身のない笑みで。
「研究は嬉しいことですね。予算が動く」
そう言って、足音を残さずドアの向こうへ消えた。




