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第5話 「臨界試験区画」

夜勤開始から三時間。

ヘブンズゲート科は相変わらず熱気と消毒臭で満ちていた。

その空気を切り裂くように、院内放送の特殊チャイムが鳴る。


《至急、臨界試験区画にジェル資格者3名。症例コード:試験体D-05》


私は手にしていたカルテを閉じ、目を細めた。

臨界試験区画――通常の処置室ではなく、研究開発部と併設された実験救命エリア。

呼ばれるときは、決まって「普通ではない」患者が待っている。


「来たわね」

低く落ち着いた声。振り返ると、ゆぃゆぃ先輩が白衣を脱ぎ、防護スーツへと着替え終えていた。

「今日のD-05は遺伝子改良型。内圧上昇速度が通常の三倍。限界点の到達が早すぎる」


お美々が息を呑む。

「三倍……!猶予は……」

「発作から十五分。搬送開始時点で残り十も切ってたそうよ」

ゆぃゆぃ先輩の声は冷静だが、その瞳は鋭い光を帯びていた。


防護スーツを着込み、消毒シャワーを抜け、区画へ入る。

ガラス越しに見える患者は二十代後半。

手足は固定、呼吸は断続的、顔面蒼白。

腹部から下は過圧で脈動し、表皮の微細な震えまで見てとれる。


「内圧、3.4リットル相当」

研究員の報告に、私は本能的に手袋を締め直す。

――通常ステージ4を超えた、臨界域。


「今日はミスできない。これは臨床試験であり、救命よ」

ゆぃゆぃ先輩の声はまっすぐ。

「薬剤はB-9。浸透速度は高いけど、急激な血圧低下リスク。配分を誤れば心停止」


開始指示。

私は器具を装着し、患部へ試作ジェルを塗布。

通常より低粘度。触れた瞬間、熱を奪う鋭い冷感が走る。

薬剤が筋膜下へ浸透した瞬間、局所筋群が強く収縮し、体内圧が排出信号へと変換される。


「吸引機一番起動、逆流弁確認。動脈波形安定……来る」

圧負荷を避けるため、排出路を開き、流量を手首角度で制御。

筋負荷、静脈還流、血管拡張反応――複数の生体反応が揺れ、モニターが高密度に点滅する。

血流再配分が遅れれば、脳灌流が一瞬で落ちる。


「吸引最大!二番タンクへ切り替えます!」

お美々が声を張る。

透明チューブの中を濃色の体液が走り、バルブから微振動が伝わる。

吐出速度は想定以上。二番タンクが急速に満杯へ。

「三番タンク接続!流量調整、負圧維持!」

「手を止めない、速度乱さない!」

ゆぃゆぃ先輩が横圧補助で血管の拡張リズムを整える。


私は吸引圧を一段落とし、回転と押し引きで排出ペースを滑らかに保つ。

手首の角度は5度単位、負荷配分は反射で切り替える。

生きた臓器は、力ではなく呼吸で触れる。誤れば破綻する。


――5分。

ゲージは2.0まで下降。

患者の胸郭が柔らぎ、呼吸の波が整い始める。


「……あと少しで安全域」

ゆぃゆぃ先輩の声に、私とお美々は頷く。

バイタルが安定し、最後の排液が終わると、アラームが静かに消えた。


「内圧0.9。回復傾向、意識レベル改善します」

お美々の報告。

試験区画に静寂――だが緊張は消えない。


防護スーツを脱ぎ、私は深く息を吐く。

ゆぃゆぃ先輩は試作ジェルのボトルを見つめ、静かに言う。

「これが普及すれば……ステージ4の生存率は変わる。でも――病気側も進化を早めるわ」

その先は言わなかった。言葉にすれば、恐怖になるから。


お美々は濡れた額を袖で拭き、震える声を押し殺す。

「……あいか先輩。私、手震えてました。でも先輩の手の動きがわかったから……追えました」

私は微笑み、彼女の手首を軽く叩く。

「十分だったよ。次も一緒に、助けよう」


ゆぃゆぃ先輩が二人を見て、静かに頷く。

「まだ伸びる。あなたたちの手は、命を繋げる手になってる」


遠くで、またサイレン。

夜は終わらない。

私たちが止まれば、命が止まる。


私はフェイスシールドを整え、言った。

「……戻ろう。次の患者さんが待ってる」

お美々は力強く頷く。

ゆぃゆぃ先輩は小さく笑い、

「ジェル班、前進」

そう告げ、歩き出した。


救命は、まだ続く。



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