第11話 「白と黒の選択 ―①」
院長室のドアが開き、空調の風が書類を揺らした。
院長は椅子から立ち上がり、正面のふたりに視線を向けた。
あいかとお美々。
その横に、白衣ではなく研究用のパスを胸に提げた芽瑠が静かに立っていた。
「今日から本格運用だ。ヘブンズゲート科は二拠点制で行く」
院長は資料を一枚置き、指先で机を軽く叩いた。
「院内は――あいかくん、君がリーダーだ。
外部拠点、大型複合商業施設の連携ルームは――お美々くん、任せる」
お美々の肩がぴくりと跳ねる。目が見開き、期待と不安が入り混じった笑みが溢れた。
「え、え、えっ、そ、外ですか!? 初日から!? えっ、あ、あの、わ、私が!?」
語尾が跳ね続ける。
院長は小さく笑みを浮かべた。
「外部拠点場所は駐車スペースが広い。救急車両の乗り入れが可能だ。
市内の人流が最も集中する週末、リスクも高い。
だからこそ、ヘブンズルームの価値が発揮できる。君に任せる」
お美々は両手を胸の前でぎゅっと握りしめて、顔を赤くした。
緊張というより――わくわくと誇らしさが勝っていた。
「は、はいっ! 任せてくださいっ!」
院長が次に視線を横へ流す。
「森乃さん。君は観察だ。処置には参加しない。
あくまで研究職として、症例を記録し、行動と判断を追う。
その場の決定に口を挟まない。それが条件だ」
芽瑠は無表情に近い冷静さで頷いた。
「了解しました。行動観察・記録に徹します」
その口調は淡々としていたが、目の奥に光が宿っていた。
理屈を貪る研究者の目。未知の治療体系へ触れること自体が、刺激なのだ。
「以上だ。五分後に動く。準備して」
院長の声が落ちるとほぼ同時、
院内スピーカーがけたたましく鳴り響いた。
【救急車両三台同時到着――ヘブンズゲート科、急患対応準備】
あいかが反射的に顔を上げた。
「来た……!」
廊下の奥、ストレッチャーの軋む音。
酸素ボンベの金属音。
隊員の声が跳ねる。
「搬送します!! E.O.S.推定ステージ2!! 膨張度判定不明!!」
処置室前の空気が一瞬で冷えた。
看護師が次々と手袋をはめ、フェイスシールドを降ろし、
モニターが立ち上がり、ジェルトレイが並ぶ。
「あいかさん、第一ベッドお願いします!」
「了解、ルート確保準備!」
あいかは走りながら指示を飛ばした。
その後ろを、芽瑠が静かに追う。
白衣の裾は揺れるが、足取りは乱れない。
観察者の視点で事象を吸い上げる者の歩き方だった。
一方その頃――
お美々は院外搬送用のワゴンに備品を積み込み、
商業施設の地図を胸に抱えたまま、
ニヤニヤが止まらず、頬をぺちぺち叩いていた。
(やばい……ヘブンズルーム任された……!
え、私が……え、今日から……!)
大型商業施設『MIRAI CROSS 7th Avenue』。
週末は十万人が行き交う。
その裏側に救急車両の専用搬入路が設けられ、
ヘブンズルームの仮設拠点が設置されている。
あいかが院内で重圧を背負うのとは対照に、
お美々はどこか遠足前の学生のような高揚感で胸がいっぱいだった。
(やっと役に立てる。やっと、任された)
顔が熱くなり、軽く笑みが漏れる。
「ヘブンズルーム1号車、出ますっ!」
ドアが閉まり、車体が動き始めた。
お美々はシートベルトを締め、
ウキウキした声で運転手に話しかける。
「いやー、今日デビューなんです、私!」
「そりゃあすげぇ。緊張してる?」
「いや全然!! ……たぶん!!」
外の陽光が車体を照らし、
病院の白から商業区の色鮮やかな看板へ景色が切り替わっていく。
ヘブンズルーム初日。
彼女にとっては成功の未来しか見えていなかった。
だが――
院内の空気は、まるで別世界だった。
ストレッチャーが運び込まれ、
第一ベッドに患者が移される。
「状態悪い、血圧低下!」
「モニター、反応不良! 再起動!」
その中心に立つのは、あいか。
表情は冷静。
声のトーンも一定。
だが目だけが鋭い。
「芽瑠るん、そこ、見えるかな?」
芽瑠はカメラとタブレットを構え、角度を変える。
「うん。視野良好」
「なら、始めます」
その瞬間、処置室の空気がさらに張り詰めた。
ただの看護ではない。
E.O.S.患者。膨張度判定不明。
そして、先の見えない症例。
あいかは息を吸い、
静かに手袋の表面を鳴らした。
「第一処置、開始」
第一ベッドに横たわる男性患者の腹部は、わずかに脈打つように盛り上がり、
皮膚の緊張は通常の内圧では説明がつかない硬度を示していた。
呼吸数は増加、鼓動は早い。
瞳孔はやや散大、意識は保っているが視線の焦点が合わず、恐怖と疼痛の間を彷徨っている。
「痛い……破裂、する……感じが……っ」
患者が声を振り絞る。
その言葉は決して比喩ではない。
E.O.S.ステージ2以降、膨張度の異常亢進は臓器圧迫に直結する。
破裂=臓器崩壊。
その危険は、手技の失敗や遅延によって現実になる。
「あいかさん、バイタル確認入りました!」
「読み上げて!」
「収縮期92、拡張期58、脈134!」
「低い……っ」
あいかは眉間にわずかな皺を寄せる。
それでも声は落ち着いている。
「意識反応あり。会話可能。
でも膨張速度が速い。ジェル処置急ぐよ」
「ジェル準備、完了!」
助手が差し出す冷却ジェルパッドと薬液注入ライン。
あいかは患者の腹部中心から側腹部へ視線を滑らせ、触診を行った。
(熱い……炎症反応だけじゃない。内部圧の上昇が速い。
この速度――変異型の可能性がある)
「六時方向、圧最も強い。ジェルパッド局所集中」
「了解、六時方向に配置!」
芽瑠はその指示をタブレットに記録し、
近づきすぎない距離で角度を変えながら撮影する。
「“六時方向からジェル局所集中”記録。
その判断理由は、触診による温度差と硬度差?」
「そう。中心より側腹に逃げてる。
膨張度が偏ってるのが特徴」
「変異型の可能性がある、という判断?」
「まだ決めつけない。
症例少ないから、決定は危険」
言葉を交わしながらも、手は止まらない。
あいかはジェルを中圧で押し当て、
患者の皮膚温がわずかに低下するのを指先で感じ取った。
「どうですか、痛み?」
「……少し、楽に……」
「よかった。呼吸整えて。今から第二工程」
モニターのグラフが揺れる。
脈はまだ早いが、わずかに下降傾向。
しかし安心するには早すぎる。
「ルート確保。20G、右前腕」
「了解、刺入します」
助手の手がわずかに震える。
あいかは横から軽く肩を叩く。
「大丈夫。深呼吸。いつも通り」
短い言葉だが、その一言で助手の動きの緊張が解けた。
針が皮膚を貫き、確実に血管へ滑り込む。
「ルート確保成功!」
「薬液投与準備。膨張度抑制、フェーズ1」
あいかは薬液を確認し、慎重に量を測る。
「フェーズ1、投与開始……」
薬液がラインを通り、患者の体内へ流れ込む。
芽瑠が息を呑むような小さな音を立てた。
「これが……フェーズ1の速度……
研究資料と数字では見ていましたが、実際の速度は……」
「ゆっくりに見えるけど、速いよ。
身体の反応が追いつかないこともある」
投与直後、患者の呼吸が一瞬止まる。
「っ……!」
「落ち着け、大丈夫、呼吸して」
数秒後、患者の胸郭が再び動き始めた。
その瞬間、モニターのグラフが安定に向かう。
「脈122、下降。血圧98/62!」
「反応あり。フェーズ1維持」
あいかは安堵の息を少しだけ吐く。
だが完全に油断する表情ではない。
「芽瑠さん。これも記録して」
「はい。患者の即時反応――抑制効果、良好」
その時、別の処置ベッドから看護師の叫びが響いた。
「第二ベッド、膨張度急上昇!
圧、臨界近い!!!」
あいかの眼差しが鋭く振り向く。
「――次、行く」
手袋の表面を鳴らし、
滴るジェルを払うように歩み出す。
まだ、始まったばかりだ。
院内ヘブンズルーム初日。
外ではお美々が笑っている頃――
ここには、笑う余裕は一秒もない。
◇
大型商業施設「MIRAI CROSS 7th Avenue」。
休日の午前にして、すでに多くの人が行き交い、ガラス張りの吹き抜けには柔らかな陽光が満ちていた。
その一角――従来ならイベントブースや物産展が行われるスペースに、臨時のパーティションと医療機器が並び、「ヘブンズルーム 外拠点」が存在していた。
しかし、お美々にとっては違和感より先に誇りがあった。
(えへへ……これ、今日の指揮、私……)
パーテーション越しに見える通路。
足音、笑い声、店員の呼び込み。
生活音に囲まれた空間で医療を行うという、異質でありつつ、必要とされた場所。
「お美々さん、搬送きます!」
インカム越しの声に、お美々がくるりと振り返る。
「ステージ判定は?」
「施設警備からの連絡、推定1後半。歩行可能ですが不安定です」
「了解、では“にっこりモード”でお迎えしましょう♪」
その言葉にスタッフがくすりと笑う。
緊迫、切迫、重症――院内のあいかの現場はそうだろう。
けれどこちらは違う。
“余裕がある患者の場所”。
だからこそ、お美々の声や空気が治療を助ける。
ほどなくして、警備員に両脇を支えられた男性がよろよろと到着した。
額には汗、呼吸は少し浅い。
「は、破裂するんじゃ………」
「しませーん! 安心してくださーい♪」
そのテンポとリズムは、あいかに比べれば明らかに軽い。
しかし軽さと軽率は違う。
お美々の声には温度がある。
「はい、椅子に座りましょう。そこ。座れたら100点満点です。
立ちっぱなしのままの不安より、座る安定感って凄いんですよー」
言われるがまま腰を下ろした患者が、少しだけ肩を落とす。
お美々はあえて表情を明るく保ったまま、淡々と手袋をはめる。
「お名前だけお願いします。呼び間違えると“残念ポイント”入っちゃうんで」
「え、あ、あの、山下……」
「山下さん。はーい、覚えました! では山下さん、呼吸すこーし早いですね。
でも私、こう見えて“呼吸と仲良しのプロ”なんで」
室内の空気が、笑いと緩さで一瞬ほぐれる。
お美々は患者の膨張部位を確認し、軽く触診。
ただの“触れる”ではない。
反応、痛みの跳ね、熱、緊張の方向――その全部を読み取る。
(ステージ1後半。だけど進行速度は遅い。
圧も安定。動揺反応が強いタイプ……)
患者が少し震えているのを見て、お美々はトレーのジェルを手に取った。
「冷たくないやつ持ってきまーす。うちのジェル、あったか仕様なんです。
優しい文明って素晴らしいですよねぇ〜?」
「え、あったかいの……?」
「そう、あったかいのー。初めてでもびっくりしませんからねー」
軽くほぐすようにジェルを乗せると、患者が「あれ……痛くない……」と呟く。
「そうなんです。よく聞かれるんです、『なんでこんなに楽になるの?』って。
でもね、秘密なんですよ。企業秘密。国家秘密。私の笑顔も込みです」
「……はは……」
患者が少し笑う。
お美々はその変化を見逃さない。
(この人、痛みより“破裂するのではないか”という恐怖が強い)
ならば――とお美々の声の温度が、少しだけ深くなる。
「山下さん。聞いてください。
今の段階で『破裂』って言葉は、脳内イメージの方が強いです。
身体より想像のが暴走することって、人間のあるあるなんです」
患者が視線を上げる。
「じゃ、じゃあ……」
「ええ。いま、ここで私たちが見て、触って、管理してます。
“破裂”は、私たちが許可しません」
断言。
軽さの中に、芯がある。
患者の呼吸が、ゆっくり、深くなった。
「では、薬液フェーズ1準備しましょう。
山下さん、痛みの波が来たら言ってくださいね。
その『来た』って一言で、処置タイミングが変わります。
あなたの声が治療の一部です」
その言葉は温かく、しかし役割を与えていた。
「投与開始」
ラインを設置し、看護スタッフが薬液を送り込む。
数秒後、患者の表情が和らいだ。
「楽に……なった……?」
「なりましたねー。ほら、顔が『助かったー』って言ってる」
「たしかに……」
患者が微笑む。
お美々も細く笑い返す。
そのとき通路を行く買い物客が、パーテーション越しにちらりと見た。
日常の音と医療の音が混ざった空間。
お美々はそれを肯定するように胸を張る。
(ここは“非日常”が溶け込む場所。
そして“救われるべき日常”が続くための場所)
「山下さん。はい、今日のあなたの頑張り、98点でーす」
「2点は?」
「私に水でも買ってくれたら満点でしたねー。
……なんて冗談です。終わり! 無事クリア!」
患者が笑って頷いた。
その背中を送り出しながら、お美々はインカムを触る。
「ステージ1後半、処置完了。次、受け入れ準備しまーす」
その声は軽い。
けれど、確かな自信と優しさを含んでいた。
院内では緊迫が続き、
外では日常の中に救いが存在する。
それぞれのヘブンズルームの初日が、
同じ空の下で稼働していた。
山下啓介四十三歳。
身長は百七十三センチ、やや猫背気味。
二年前に離婚し、現在は独身。
仕事はシステム系の開発会社、現場とデスクを行き来する生活で体型は中肉中背。
特筆する見た目の特徴もなく、本人も自己評価は「街に溶け込む一般男性」。
そんな彼が、この巨大な商業施設のど真ん中で、人生最大級の恐怖を覚えていた。
(破裂する。これは、する……!)
痛みではない。
内側から膨張する圧に対して、身体のどこにも逃げ場がない感覚。
張り裂けるような恐怖が先行し、頭の中では「破裂後の自分」のイメージが支配する。
人間の想像は、時に痛みを上回る。
そのことを、この時の山下は身をもって理解した。
息は浅く、手は冷え、汗だけが異常に出る。
このまま意識が遠のけば、楽になるのでは──そんな弱さが喉元までせり上がる。
しかし、現場で最初に聞こえた声は、恐怖を蹴り飛ばすほど柔らかかった。
「はい、座れたら100点満点です」
声の主――お美々。
山下は彼女の名前を知らなかった。
ただ、声と表情と立ち姿で“安心感”が形になるのを見た。
(この人……明るい。軽い。でも、軽くしてくれてるんだ)
触診の際、冷たくないジェルに戸惑い、痛みが和らいだ時、山下の中で何かが反転する。
(破裂は……今はしない……?)
(いや、しないと言ってくれた……)
恐怖が薄れれば、呼吸も整う。呼吸が整えば、思考も戻る。
薬液が入り、痛みの波が引き、全身の緊張がほどける頃には、
山下は周囲の音に気づく余裕があった。
子どもの笑い声。コーヒーショップの抽出音。
日常の音の中に自分が戻っていく。
その終盤、彼女が軽く覗き込むようにして言った。
「今日の角度、とっても素敵でしたよ♪」
「か、角度?」
「はい。痛みと恐怖がピークの時、人は身体を守る方向に傾くんです。
あの瞬間、迷子になりそうな感情を身体が戻そうとしてました」
その説明は医療的でもあり、どこかくすぐったい褒められ方でもあった。
(素敵な角度……)
その言葉の選び方が、やけに印象に残った。
気を抜けば、軽く意識が浮き、――不謹慎にも僅かにムラッとした自分がいたことを自覚する。
(おい、落ち着け俺。今この状況でそれは……っ)
(いやでも“素敵”なんて言われたの久々だし……)
胸の奥が熱を帯び、また余計な方向に内部が反応しそうになった瞬間、
お美々がそっと視線を合わせ、小さく笑った。
「大丈夫。怖かったですよね。でも、ちゃんと戻ってきました」
その笑みは、からかいでも挑発でもなく、
“患者としての自分”を丁寧に扱ってくれる温度だった。
「ありがとうございました、本当に……」
言葉が自然と出た。
見送る看護スタッフたちも、柔らかい表情で手を振ってくれた。
まるでこの場所だけ、医療拠点でありながら、生活の延長のような温度があった。
(破裂すると思った俺が、今こうして歩いてる)
足取りは軽くはないが、しっかりと地面を踏めている。
買い物客の間をすり抜け、吹き抜けから差し込む光を受けて、山下は息を吐いた。
(素敵な角度、ね)
その言葉が、妙に救いだった。
恐怖を形にせずに笑いに変えてくれる。
医療にそんなアプローチがあることを、彼は初めて知った。
(あの人の声が、今日の俺を繋ぎ止めたんだ)
破裂の恐怖で縮こまった心が、
その一言で、少しだけ人間らしさを取り戻した気がした。




