第10話 「会議室からの黒影 ー③」
翌週の朝。まだ日差しが柔らかく、救急搬入口に光がゆっくり降りてくる時間帯だった。
その白い光の中に、二台の影が滑り込んだ。
病院の壁と同じ白をまとった、見慣れない大型車両。
救急車と似ているようで、違う。
災害派遣車両とも、民間の搬送車とも違う。
ただ、直感だけが先に語る――これは “病院が移動してくる” 類のものだ、と。
職員たちの足がゆっくり止まる。
歓声はまだ出ていない。
理解が追いつく前の静けさがあった。
最初に車両の扉が開いた。
ゆっくりと降りてきたのは――森乃芽瑠。
スーツは黒、名札は正式なもの、姿勢も声も“派遣者”の温度を持っていた。
玄関前に院長が出ると、それだけで空気が整う。
「本日より研究観察名目で当院に派遣されます、森乃芽瑠 特任研究官です」
芽瑠はゆっくりと一礼する。
「研究機構より派遣されました。現場の邪魔をしないこと、そして必要な記録と連携を第一に務めます。どうぞよろしくお願いします」
公式の言葉。
抑制された声。
しかし、その奥に熱を隠しきれていないのがわかる。
――再会の視線が交差した。
人だかりの中から一歩進み出たのはあいか。
仕事の顔と、学生時代の顔が同居する複雑な表情。
「……芽瑠るん。来たんだ」
芽瑠の口元が一瞬だけ、昔の温度に戻る。
「来たよ。あいあいがここにいるって、正式書類にも書いてあったからね」
その言い方は軽く聞こえるのに、どこか覚悟を含んでいた。
お美々が後ろからそっと顔を出す。
「先輩……大学の同期って、本当に?」
「ああ。研究志向で、いつも私より二歩くらい先を歩いてた」
芽瑠が肩をすくめ、小さく笑う。
「いや、一歩半くらいだったと思うけど」
そのやり取りが、周囲の緊張を少しだけ緩めた。
そして、視線は自然と――後ろへ吸い込まれる。
二台の白。
無機質で、美しくて、現実感が薄い存在。
院長が短く告げる。
「正式名称、移動式E.O.S.簡易処置ユニット――“ヘブンズルーム”」
職員たちが息を飲む。
「あれが……処置できる……?」
「現場で?」
「病院じゃなくて?」
芽瑠が言葉を継ぐ。
「形としては“手ぶらで行くのも格好がつかない”という理屈みたいです。……らしいよ」
その皮肉のような言い回しが、少しだけ胸をざわつかせた。
あいかは、目を離せなかった。
できなかった処置ができるかもしれない。
届かなかった患者に届くかもしれない。
夢が形を持ったとき、人は逆に言葉を失う。
その白の奥に希望が見えて、同時に影も見えた。
院長が周囲へ指示を飛ばし始める。
受領手続き、鍵の管理、設備説明の時間割、研修の段取り。
あいかたちは一旦解散となり――人の集まる場所では聞こえない声が、別の場所で始まっていた。
◇
院長室の扉が閉まる。
カップに注がれたコーヒーから湯気が消えていく。
香りはあるのに、温度がない。
向かい合うのは黒のスーツの男。
肩書きを名乗らない。
名刺も出さない。
だが、どの席に座る人間かは仕草で分かる。
男が先に切り出す。
「ヘブンズルームの件、予定通り配備されました。研究機構と政府の協同成果という形です」
院長は受け取った書類を一度閉じ、
「“手ぶらでは格好がつかない”――便利な文言ですね」
男は笑う。唇だけで。
「整備費と管理費は当面特別会計。国会承認までは仮置きです」
「……“当面”?」
「状況が変われば、名目も変わります」
院長は理解していた。
道具が増えるほど、
それを扱う手と、
責任を負う首が増える。
持てば自由になり、
持てば縛られる。
医療も政治も、それは同じ。
男は淡々と続ける。
「緑川唯、五鈴あいか、須子有喜……名前が残る人物が必要になります」
“名前が残る”
それが称号か、
犠牲か、
象徴か、
まだ分からない。
院長は、静かに視線をそらさず告げた。
「現場は象徴で動いていません。……人で動きます」
男は返さない。
沈黙は否定でも肯定でもなく、“議事録に残らない答え”としてそこに落ちた。
◇
夕刻。
搬入口にはまだ、白が残っていた。
光が角を拾い、影を長く伸ばしている。
あいかは少し離れた廊下からそれを見ていた。
芽瑠も横に立つ。
「……現場って、こんなにざわつくんだね」
「病気も、人も、止まってくれないから」
あいかが小さく言うと、芽瑠はわずかに表情を緩めた。
「でも、“動ける病院”は悪くないと思うよ」
「私も、そう思う」
その言葉のあとに、風が通った。
希望にも、影にも通じる風。
芽瑠は少しだけ遠くを見て言った。
「この白が、救う白か。縛る白か。……見極めないとね」
あいかは答えない。
答えられないのではなく、今は答えがないから。
ただヘブンズルームは、そこにあった。
白い病院の横で。
まだ誰も使っていない “未来の形” として。
~「移動式E.O.S.簡易処置ユニット/ヘブンズルーム」~
ヘブンズルームは、E.O.S.対策に特化して設計された「移動式前線医療ユニット」である。
ベース車体は**ISUZU製、中型輸送シャーシ(4tクラス・8t免許対応)**を専用改造。
全長9.8m、幅2.4m、高さ3.3m。
市街地走行と病院内搬入口の通過を想定し、全高を抑えつつ室内容積を最大化している。
内部区画は三構造になっている。
① 前室(陰圧調整エアロック)
② デュアル処置ブース
③ 隔離観察・データ収集ゾーン
まず前室には負圧コントロールユニットが組み込まれており、外気と内部の気圧差を7Paで維持。
感染症や膨張度急変による不明リスクへの一次防護を担う。
消毒剤の噴霧とUV照射が自動化され、1サイクル2分でクリーンレベルを前線使用基準へリセット可能。
中央の処置ゾーンは、E.O.S.特有の“膨張度モニタリング”に連動するバイタル統合パネルを備える。
膨張度・心拍・血流抵抗値・筋緊張、そしてジェル反応アルゴリズムをリアルタイムで数値化。
施術者のタッチレス操作(指示ジェスチャー)に対応し、
手袋を汚染したまま画面操作を避けるための仕組みだ。
二名同時処置が可能ながら、ベッドの間には可動隔壁があり、片側に緊急陰圧をかけつつ、
もう片側は通常モードを維持できる。
これは片側が重症化しても、隣の軽症者の処置継続を可能にするための仕様だ。
後部の観察ゾーンには、最大6時間の継続滞在を想定した簡易リクライニング席と、
膨張度推移の自動記録システムを搭載。
症例ごとの反応曲線がクラウド経由で病院・研究機構・政府医療データベースへ自動転送される。
ただし送信には三段階認証が必要で、院長・研究機構・政府側担当、
それぞれの承認キーが揃わなければ閲覧不可という設計。
建前は“研究倫理”だが、実際には“政治的安全装置”でもある。
電源は車体下部にハイブリッド蓄電ユニットを搭載し、
ジェル冷却・陰圧装置・照明など主要系統は最大11時間稼働可能。
外部からのAC給電にも対応し、避難所・野戦病院・空港検疫ラインなど、
多用途運用が前提となっている。
そして何より特徴的なのは、**固定病院と違い“動けることそのものが武器”**という点だ。
E.O.S.患者は膨張度の変動が読めず、搬送中悪化が多い。
ヘブンズルームは“患者が病院に来る前に病院が来る”を可能にする。
このユニットは派手さより、「助かるはずの命を拾う時間」を稼ぐ機械と言える。




