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第9話 「会議室からの黒影 ー②」

 病院の会議室に集まったのは、いつものチームではなかった。


 あいか、お美々、久保田、戸田、三輪――外来処置の“前線組”が中央のテーブルに並び、

対面には院長、事務局次長の有喜、そして医師代表として内科教授の白岩が腕を組んで座っていた。


 窓はあるがブラインドは半分ほど下ろされ、外の天気が分からない。

蛍光灯の白い光だけが、書類の端を硬く照らしている。


 扉が静かに閉まると、空気は一段階だけ重くなった。

さっきまで廊下にあった生活音が、ここだけ切り離される。


 院長は会議の冒頭から、腕を組む白岩でもなく、有喜でもなく、前線の五人を順番に見ていた。

視線は穏やかだが、そこに乗るものは決して軽くない。


 ――ヘブンズゲート科。まだ半ば非公式の部署名。


 紙の上では正式な診療科ではなく、院内の「プロジェクト」として扱われている。

だが、そこに集められた症例と、積み上げた処置データは、もはや小さな一科の枠に収まっていない。


 その成果は既に政府の耳に届き始めている。

厚労省の会議室で交わされた議論の断片が、時間差でこの会議室にも落ちてきた。


 政治のテーブルに乗せるには、政府に貸しを作るほうが早い。森乃芽瑠の派遣。

移動式の医療車両二台の提供。


 それはリスクであると同時に、窓口をこちら側へ引き寄せる千載一遇の好機。


 “彼女が最前線を見る”ならば、“こちらの苦しみも政治の視界に入る”。


 院長は、内心で静かに計算を進めていた。計算と言っても、数字ではない。

誰がどこに立ち、どこまで削れてもらうか――その配置図だ。


 有喜が配布資料を揃え、咳払いひとつして口を開いた。紙束が机の上で小さく鳴る。


 「まず、先日の厚労省での協議結果の正式な文書が届きました」


 前線組の視線が、一斉に白い紙へ落ちる。ページの一枚目、上段には固い文字が並んでいた。


 『E.O.S.対策現場観察・データ収集名目による人員派遣および移動医療ユニット二台の供与』


 読点と漢字が多いその文面は、現場の熱とは正反対の温度を持っている。


 有喜が、別の紙を一枚取り上げ、読み上げる。


 「“研究観察名目での人員派遣”――森乃芽瑠さん。来週から、この病院に入ります」


 その名前は、あいかにとっては既に“知っている音”だった。

それでも、活字になり、公印の押された紙の上に乗っているだけで、別物に感じられる。


 指先で紙の端をつまむ力が、ほんの少し強くなった。


 「……森乃、芽瑠……」


 隣でお美々が小さく目を丸くする。


 「先輩……電話で話してた方ですよね? “芽瑠るん”って」


 「うん。大学の同期。研究志向で、向こうのほうがずっと優秀だった。

政府の研究機構に行ったって聞いてたけど……まさか、こっちに来るなんて」


 白岩教授が、机を指先でコツコツと叩きながら言う。叩く音は小さいが、会議室ではやけに響いた。


 「五鈴君、彼女とはどの程度の関係かね?」


 「あの……友人です。昔は“あいあい”って呼ばれてました」


 その柔らかい呼称だけが、この空気の中では場違いに響く。


 院長が資料の端を揃え直しながら、視線を全員に巡らせる。


 「政府からの書類には、五鈴さんの名前が“推奨者”として明記されていました。

“第二の緑川唯となり得る存在”――そう書かれていた」


 部屋の空気が、きしむように締まる。


 ――“第二の緑川”。


 お美々が小さく息を呑み、唇を噛んだ。


 「唯さんの名前……簡単に使ってほしくない、ですね……」


 緑川唯。かつてE.O.S.初期対応の中心にいた看護師であり、

その功績と代償は、ここにいる誰もが知っている。


 有喜は、その言葉を資料の上から見下ろしながら、内心で別の計算をしていた。


 ――“第二の〇〇”。


 人を称えるようでいて、誰かの代替として名を記す言い回しは、

どこか人間を部品のように扱う匂いがする。


 だが同時に、政治とは“象徴”を扱う世界だということも、よく分かっている。

象徴があれば予算は動き、人は動き、意見が形になる。


 「利用する気か」と問われれば、否定はできない。


 “守るために利用する”。それは事務局として背負うべき汚れ役だと、有喜自身が最もよく知っていた。


 「それから、移動医療ユニット二台について」


 有喜はページをめくり、次の項目を指で示した。


 『移動式E.O.S.簡易処置ユニット 計二台 供与』


 その下には、細かい仕様が並んでいる。

しかし、最も肝心な欄――提供元と製造ラインについての記述は、黒い帯で塗りつぶされていた。


 「災害医療用の流用か?」


 三輪が眉を寄せる。


 「一部はそうです。ただ、本命は隔離と排液、さらに観察を同時進行で行えるモデル、とのことです」


 「メーカー名すら出せないとは、ずいぶんと“慎重”ですね」


 白岩の皮肉に、有喜は肩をすくめる。


 「提供者の詳細は、今の段階では開示されませんでした。ただ、現場の負担軽減は確実です。

同時に二名処置可能。外部電源不要。院外での膨張度変動への即応が想定されています」


 久保田が低く唸る。


 「……前線基地を丸ごと押し出してくるようなもんですね」


 会議室に漂うのは、期待と不安と、言葉にならない警戒心が絡み合った匂いだ。


 “前線で戦う者”と“記録し評価する者”は、本来立つ場所が違う。


 その境界が曖昧になるほど、現場の鼓動は揺れる。


 院長が、前線組を見ながら静かに言う。


 「五鈴さん。あなたが窓口になれば、これまで通らなかった要望も通るかもしれない。

ジェル、検査機器、スタッフ増員……命を守るための“物”は、

政治のテーブルの上にしか乗らないことも多い」


 ――窓口。


 その単語は、風が通る穴なのか。あるいは、何かが入り込む隙間なのか。


 お美々が、あいかの袖口を指先でつまみながら囁いた。


 「先輩……悪い話じゃないと思います。今の装備、本当にギリギリですよ。

あのロビーの波形の件だって、もっとデータが取れてれば――」


 でも、とお美々はそこで言葉を切った。あいかの表情が、重く沈んでいるのを見たからだ。


 「……分かってる。現場の武器は、喉から手が出るほど欲しい。患者さんをもっと救いたい。

だけど――」


 息を吸い込み、言葉を噛みしめるように続ける。


 「“芽瑠るん”を、政治の窓口みたいに扱うのは……正直、気が引ける」


 会議室に、少し長い沈黙が落ちた。


 院長が、その沈黙ごと包むような声で言う。


「五鈴さん。あなたが“彼女を巻き込みたくない”と思うのは、決して間違いではない。

ただ、彼女は研究者だ。こちらに来ると決めたのなら、それは彼女自身の意志でもある」



 そのとき、不意に控えの机の上の端末が震えた。小さな振動音が、妙に大きく響く。


 画面に浮かんだ名前は――


 《森乃芽瑠》


 あいかの心臓が、ひとつ跳ねる。


 院長が目だけで促す。


 「あいかさん。出てください」


 あいかは小さく頷き、通話ボタンを押した。


 「……もしもし」


 《あいあい? 聞こえる?》


 懐かしい、だが少し遠くなった声。


 「芽瑠るん……久しぶり」


 《ふふ、“お世話になります”って言うべきなのかな。決裁通ったって。

来週から、そっちの病院に派遣だって》


 “通った”。その一語が、紙の冷たさと同じ温度で重く響いた。


 「どうして……うちの病院なの? 他にも候補はあったでしょうに」


 電話越しの間合い。だが、その沈黙は短かった。


 《理由? あいあいがいるからだよ。それだけで十分》


 笑い混じりの声。そこには、打算の匂いはなかった。


 だからこそ、余計に落ち着かない。


 通話が切れた後も、しばらく誰も口を開かなかった。


 お美々が、ぽつりと言う。


 「……先輩。芽瑠さん、本当に嬉しそうでしたね」


 あいかは微笑みに似た表情を浮かべるが、その目の奥に一瞬だけ揺れが走る。


 「うん。あの人、昔からそう。大変な仕事ほど、面白そうって笑うタイプだから」


 自分とは、少し違う。だからこそ、頼もしくて、少しだけ怖い。


 院長が、会議を締めくくるように告げた。


 「――来週、森乃芽瑠特任研究官、着任。迎え入れの準備をお願いします。

移動ユニット二台についても、受け入れ体制を整えましょう」


 椅子の軋む音が重なり、人々は会議室を後にする。

廊下へ続く扉が閉まり、靴音が遠ざかっていくなか――会議室の片隅には、一つの影だけが残っていた。


 その人物は、先ほどの端末を手に取り、画面に残った履歴を見つめる。


 《五鈴あいか》

 《森乃芽瑠》


 指先で、ゆっくりとその文字列をなぞり、小さく呟く。


 「……緑川唯、五鈴あいか、須子有喜。名前が、少しずつ揃っていく」


 その声には、喜びも怒りもない。ただ事実を確認する者の響きだけがあった。


 端末の画面を伏せ、椅子から立ち上がる。影は振り返らず、静かに扉の向こうへ消えていく。


 外は既に夕方に差しかかっているはずだが、この部屋には光の変化はほとんど届かない。

蛍光灯の白だけが、紙の端と机の木目を同じ明るさで照らし続けている。


 ――決裁という名の光は、影を連れてくることもある。


 その影が誰のものなのか。何を照らし、何を隠そうとしているのか。


 今のところ、それを知る者は、誰もいなかった。




~あいか、から芽瑠るんの紹介~

 森乃芽瑠――“芽瑠るん”。

 私にとって、その名前は懐かしさと、少しの緊張が同時に胸に落ちてくる存在です。

 学生時代、私は臨床寄り、彼女は研究一直線。

 それなのに、いつも実験室から抜けてきては「現場の声を聞かせてよ」と笑っていました。

 あの頃から、研究者なのに“机上だけの人”ではなかった。

 性格は柔らかいのに、考えは鋭い。遠回りしているようで、気づけば目的地にいるような人。

 私は頑張って追いかけて、それでも届かない背中に見えて――でも、それが嫌じゃなかった。

 今回、政府研究機構からの派遣。

 偶然なのか、意図なのか。

 彼女の声は昔と変わらず穏やかで、でもその裏に、誰かの指示なのか、

 彼女自身の意志なのか……私にはまだ、読み切れません。

 ただひとつ。

 芽瑠るんが現場を知る研究者であることは、私はよく知っている。

 だから私は、恐れつつ、期待もしている。

 “友人”が来るのではなく、“研究者”が来るのだと。

 そして、私たちの現場が、もう後戻りできない地点に踏み込んでいく予感も。



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