第8話 「会議室からの黒影 ー①」
厚労省の会議室は、朝なのか夜なのか分からない白い光で照らされていた。
カーテンはなく、外の景色は遮断され、時間の流れさえこの部屋だけ異質だった。
円卓には十数名のスーツが並ぶ。
軽症急増、院内での同時波形、そしてP-034試験導入――それが議題。
「では次に、現場対応の即応性について」
淡々と進んでいた空気が、次の資料でわずかにざわついた。
――『移動救命医療車両2台 派遣予定』
誰かが静かに息を吸う音がした。
「災害医療用の流用ですか?」
「いいえ。災害対応“も”可能ですが、本命は隔離と排液、さらには観察を同時進行で行えるモデルです」
「メーカーは?」
数名が同時に顔を上げた。
しかし資料のその欄は黒く塗りつぶされていた。
「提供者の詳細は……まだ開示できません。ただ、現場の負担軽減は確実です。
同時に二名処置可能。外部電源不要。即応移動手術にも耐えます」
「即応で? 排液後の管理も?」
「ええ。日本では例がありませんが、海外仕様の転用です」
岸に打ち上げられた波のような沈黙が、一瞬だけ場を押し戻す。
「あいか、という看護師がいるそうですね」
その言葉を落としたのは、末席ではなく中央寄りの男だった。
肩書きを名乗っていないが、資料の扱い方から役職の重さが分かる。
「緑川唯の後輩……と聞いています。現場評価は高い。
P-034の扱いにも柔軟で、施術精度に関しては既に上位の報告がある」
淡々と、事実を読み上げる。しかし語尾にわずかな温度があった。推している。必要以上に。
「彼女を見ておきたい――そういう声が“上”に上がっています」
誰の“上”なのか、誰も確認しない。ただ、水面下で糸が動く音が聞こえた気がした。
「病院側との連携強化のため、研究所から人材を派遣します」
席の後ろで、補助スタッフが封筒を配る。中には名前が一つだけ印字されていた。
――森乃芽瑠
「特任の肩書きで送ります。現場と行政の橋渡しとして」
「急ぎ過ぎでは?」
「いいえ。拡散に備えた準備は、早すぎるくらいで丁度いい」
会議はそれきり表向き沈静したが、誰も完全には座り直せなかった。
終了の挨拶のあと、人々はぞろぞろと会議室から出ていく。
廊下の蛍光灯が冷たく、誰の靴音も乾いていた。
そのなかの一人が、エレベーターには向かわず、別の無人の部屋へ入り、ドアを閉めた。
暗い室内で、小さな端末だけが光る。
通話ボタンが押される。名は呼ばない。ただ、繋がる。
「――動きました。予定より早い。現場の判断ではありません」
沈黙ののち、低い声が返る。
『車両は計画通りか』
「二台。処置二名同時。仕様はほぼ向こうのままです」
『誰に渡る』
「表向きは病院に。実際は……観察対象の近くに運ばれます」
『例の“後輩”か』
「まだ確定では。ただ、緑川の線は今も影響を持っています」
『予定は崩すな。焦るな。 “鍵”はこちらに向かわせる』
「了解」
通話は切れた。しかしその男は、端末を閉じた手をしばらく見つめていた。
そこに迷いがあるのか、安堵なのか、決意なのか――表情は読み取れない。
そのころ、別の場所でスマートフォンが震えた。
「あいあい、ひっさしぶり! ニュース見た? 派遣決まった!」
明るい声が弾む。
「芽瑠るん……ほんとに?」
「うん! なんかすごい話でさ、移動医療車。新車で2台並ぶらしいよ!!
それに、まさか、あいあいに会えるとは思ってなくてもうテンション上がってるんだけど!」
その声には嘘はなく、純粋な喜びだけが乗っていた。
あいかはスマホを耳に当てたまま、ゆっくりと息を吸った。
嬉しい。心強い。けれど――胸のどこかが小さくざわつく。
「……来るの、楽しみにしてるよ。ただ、こっちは少し慌ただしいかも」
「任せなさいよ。友達の職場に役に立ちに行くって最高じゃん」
あいかは笑った。声だけは自然に。
でもその指先には、微かな力がこもったままだった。
病院に届く二台の車両。
研究所から派遣される友人。
政府の声。
名前の出ない影の声。
それらが一本の線を形成する手前で、まだ誰も気づいていない。
ただ、静かに。
気配だけが現場へ向かっていた。
◇
――薄暗い室内で、照明はつけられていなかった。
壁一面に貼られた地図と、光を落とす端末だけが、その部屋に人の気配を留めていた。
男は椅子に深く腰掛け、指先でゆっくりと机を叩く。
一定のリズム。呼吸に似たテンポ。
その静けさに、何度も恐れを抱いた者がいた。
端末に表示された三つの名前。
緑川唯。
五鈴あいか。
須志有喜。
「緑川は……やはり早すぎた」
男は呟いた。
それは失望ではなく、副作用のような静かな敬意だった。
「成功例でもあり、失敗例でもある。
“人”は数字と違う。予測不能だ。
緑川は制御に足りなかった。……いや、制御しようとした者達が浅はかだった」
画面には、生前の緑川唯の資料をベースに、数値が揺らいでは整っている。
手術数、適応判断、処置の成功率。
どれも均衡の上に立った数字。
だが最後の一行だけが異質だった。
――《自分の判断を優先》
男は微かに笑った。
表情というより、輪郭が動いただけに近い。
「だから消える。
従う者より、逆らう者が“危険”だ」
再び指が机を叩く。
緑川唯の名前がゆっくり画面から滑り落ち、次の名前へ切り替わった。
五鈴あいか
その名前だけ、画面のフォントがわずかに濃く見えた。
錯覚か、システムなのか、観察者は判別しようとしなかった。
「五鈴……この名前が再び出てくるとは」
男の指が止まった。
「――血統か、偶然か。
“鍵”は血で決まるのか、環境で育つのか」
画面に映るのは、E.O.S.処置データ。
排液量安定。
判断速度適正。
膨張度との相関。
P-034施行数の推移。
「緑川の後継……と考えるには早い。
だが、現場が欲しがる“手”はそう多くない」
男はゆっくり立ち上がる。
「あいかが動けば、お美々も動く。
あのチームは群れとして連動する。
単体ではなく、“群れ”が動く。
それが厄介でもあり、価値でもある」
照明はつけられないまま、部屋を歩く靴音が低く響く。
最後の名前 須志有喜 が画面に表示される。
男はその前で立ち止まり、何秒も言葉を探すように静かに息を吐いた。
「内部からの崩壊は、外からの攻撃より早い。
現場の副次的例が、生き残ってしまうのは計画外だ」
計画外。
事故。
成功。
失敗。
それらの単語は、この部屋では時に同じ意味を持つ。
「ただの職員が“選ばれた者”の隣に立つと、連動が起きる。
思考も、行動も、忠誠も、感情も」
男は端末の電源を落とし、暗闇が部屋を取り戻した。
「緑川の時のようになるのか。
それとも……“次”になるのか」
暗闇の中で、声だけが低く落ちた。
「血で選ばれる鍵なのか。
選ばれる場所に血が集まるのか。
――五鈴、さてどちらだ」
電源の切れた端末の液晶に、反射だけが残った。
それは映像なのか、自分の表情なのか、
誰にも分からなかった。




