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第6話 「ロビーの光と、同僚達の決意─③」

 処置室の照明が一段階だけ落とされ、反射光が有喜の腹部に集まる。

 呼吸は浅く、脈拍は126まで上がっていた。

 膨張度は―― 27.3 → 28.9%。


 「……上がってる。先輩、急ぎます」


 お美々の声が緊張で細くなっている。

 だが手はぶれない。


 「久保田さん、下腹部ホールド。戸田さん、吸引ライン10番。

 三輪さん、二段目のチューブスタンバイ!」


 「「「はいっ!!」」」 


 あいかが手袋を締め、静かに有喜の横へ寄る。


 「有喜さん、始めますよ。

  深呼吸……そう、吐いて……大丈夫。

  “私たちの患者さん”ですから。絶対に助けます」


 その声は震えていない。

 むしろ、どこか温かくて、有喜は無意識にシーツを握る手を緩めた。


 お美々が器具の先端をセットする。


 「粘度2.0……通常の倍ですね。吸引重量は重いです」


 「なら二段階でいく。第一段、ゆっくり、絶対に跳ねさせないようにね――」


 あいかは有喜の下腹部に軽く手を添え、テンポを読む。

 押圧に対する内部の反応は 0.21秒の遅延。

 時間の猶予は少ない。


 「よし……第一段、入るよ。

  吸引――開始」


 キュ……という微細な音。

 続いて、重たく濁った感触がチューブの中をゆっくりと移動する。


 「……っ、重い……」

 戸田さんが眉を寄せる。

 粘度2.0の排液は、本当に“引っかかり”が強い。


 有喜がかすかに息を呑む。


 「大丈夫です、有喜さん。いま最初の60mlが来てます。

  張りが少し軽くなるはずですよ」


 お美々の声が優しい。


 あいかがテンポを合わせ、腹部の揺れを読む。


 (……まだ跳ねてない。筋膜の抵抗は強いけど……落ち着いてる)


 チューブの中を、濃い排液が通っていく。

 その粘りは、まるでゼリーのように重い。


 「第一段……60ml通過。

  粘度、予測より少し高いです。2.1……」


 「黒い点、混じってますね。細胞崩壊の初期かも」

 三輪さんが低く呟く。


 あいかが判断する。


 「第二段行くよ。

  久保田さん、少し押さえ強めて。筋膜の遅れがまだ0.21秒のままだから……跳ね返り気を付けて」


 「はいっ!」


 あいかの指示で、再び吸引がゆっくり再開される。


 「有喜さん、ここが正念場ですよ。

  深く吸って……吐く……ゆっくり、いい子です……」


 呼吸誘導に従うと、内部の負荷が少し解けていく。

 第二段の50mlが、じわり、じわりと通過していく。


 (……あ……軽い……)


 有喜は腹部の圧が薄くなるのを感じた。


 モニターが反応する。


 膨張度:28.9 → 24.1%

 脈拍:126 → 109

 血圧:102/64 → 108/66


 お美々の目が見開かれた。


 「先輩、落ちました! 値……全部、落ち着き始めてます!」


 「……っ、よし……よし!!

  第二段完了。吸引停止!」


 「「「はいっ!!」」」 


 チューブの先で、吸引された排液が濃い重みを持ったまま容器に落ちていく。


 あいかは自分の額に手をあて、

 ほんの一瞬だけ息を吐いた。


 「……ふぅ……有喜さん。

  よく頑張りましたね……本当に、よく耐えました」


 有喜は、シーツを握ったまま、震える声で答えた。


 「……すまない……ありがとう……」


 あいかは首を振り、優しく微笑む。


 「謝る必要なんてありません。

  あなたは……私たちの仲間ですから」


 モニターの波形がゆっくりと安定に向かっていく。


 久保田さんは下腹部の押圧テンポを細かく刻み、筋膜の揺れ幅を指先で読み続けていた。

 乱れた瞬間があれば即座に止められるよう、身体を落とし膝で支えての“崩れない姿勢”。


 戸田さんは吸引ラインの圧の変化を逃さず、ほんの0.1の抵抗でも流量を調整し、

 スパイクの気配を見逃さない。チューブの濁り具合で粘度を判断し、次の器具を読む鋭さがあった。


 三輪さんはセカンドラインの予備を常に構え、器具の角度や位置取りを、あいかの視線だけで即応。

 排液容器の圧縮音から内部の残圧まで把握している“サブモニター”のような存在だった。


 吸引ラインの内部を通る排液は、粘りが強いぶん抵抗が大きく、

 流れだす瞬間に“コト”という鈍い振動が指先へ返ってくる。


 有喜の腹部は、圧が抜けていくたびにゆっくり沈み、筋膜層の硬さが解けていくのが見てわかる。

 苦痛の顔ではなく、長い張りが緩むときに起きる“微かな息漏れ”が混じる。


 匂いは、甘さの奥に焦げたようなケトンの気配――代謝が限界近くで揺れた証拠だ。

 看護師たちはその匂いを“症状として”評価し、誰も顔をしかめない。

 臨床に染み込んだ静かな集中だけがあった。


 「有喜さん♪ その呼吸、とってもいい角度ですよー。

  はい、そのままキープして……そうですそうです、素敵です♪

  あと少しで張りが抜けますからね、もっと“楽になる瞬間”見せてくださいよー」


 お美々は声のトーンを軽く上げ、緊張を削ぐように笑った。

 その調子に、有喜の肩がほんのわずか緩む。


 「そう、その表情! 怖くないですよ~、私たちが全部やりますからね♪」


 ◇


 処置室の壁際で、私は黙ったまま数値と音だけを追っていた。

 血圧108/66、脈拍109。膨張度24%台。

 だが本当に見るべきなのは“波形の揺れ幅”と“筋膜の追随”だ。

 あいか達は言葉を交わさずとも、そこを読み切っていた。

 深層筋膜の遅延が0.21秒から0.18秒へ――

 この変化に気づいているのは、恐らく私と彼女たちだけだろう。


 吸引音のテンポ。

 排液の粘度。

 有喜の呼吸の深まり。

 それらを総合して、私は“山を越えた”と判断した。


 だが――同時に引っかかりも残る。

 ロビーで同じ波形が三例。

 さらにこの職員例。

 発火点が同じ場所で揃う確率は、統計学的に“偶然ではない”。

 私は心の中でその仮説を整理し、

 ほんの小さく呟いた。


 「……やはり“場”だな。同じ空気を吸った者にしか出ない波形だ」


 再び沈黙し、

 医師としての“観察者の役割”に戻った。



【内科医視点/“もし現実にE.O.S.型の精液過多症があったら”】


 医師として言うなら、もし現実に“E.O.S.型”の精液過多症――

 つまり 排出量が異常に多く、なおかつ粘度がゼリー状に上昇する という事態が起これば、

 まず疑うのは 前立腺・精嚢・尿道腺の分泌異常と、血漿成分の流入 だ。


 本来、精液の大半は前立腺液と精嚢液で占められ、粘度は蛋白質と酵素のバランスで決まる。

 だが、もし“ゼリー状”になるほど粘着度が上がるなら、

 分泌腺が“炎症性の過活動”か“代謝暴走”を起こしている 可能性が高い。

 血漿成分アルブミンやフィブリンが混入すれば、粘度は一気に跳ね上がる。


 量が極端に増える場合は、精嚢の排出リズムが崩れて常に産生し続けている 状態が考えられる。

 これは内分泌系の異常、特にテストステロン系統の暴走か、自律神経の制御不能が原因になり得る。


 問題は“詰まり”だ。

 高粘度・大量の排液が溜まれば 前立腺内圧の上昇 → 血流障害 → 激痛 → 最悪は腺組織の破裂 に至る。

 だから、もし本当にE.O.S.シチュのような症例が現実に起きれば、

 私たち医師は 「排液処置(減圧)」を最優先にする。 命を守るための純粋な医療行為として、だ。


 医学的に見ても――

 “ゼリー状に重い排液が大量に発生する”というのは、生命維持の観点から極めて危険なサインである。



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