第5話 「ロビーの光と、同僚達の決意─②」
処置室の扉が閉じた瞬間、空気は一段階重くなった。
あいかの声が張りつめる。
「ベッド中央、頭側15度。お美々、ファーストチェックお願い!」
「了解、先輩。皆さん、位置ついてください!」
「「「はいっ!!」」」
その返事に、有喜はほんの一瞬だけ安心したが、
すぐ次の瞬間、腹部の奥がまた跳ねた。
「っ……!」
お美々がモニターへ向かい、数値が即座に立ち上がる。
血圧:102/64
脈拍:118
SpO₂:94%
膨張度:23.8→24.9→27.3%(※通常の初期値は15〜18%)
表層温:37.9℃
推定排液量:120〜160ml
粘度予測:1.8〜2.1(通常=0.8前後)
「……先輩。粘度、高すぎます。少しでも遅れたら跳ねます」
「分かってる。久保田さん、腹部触れるよ。押圧テンポ確認!」
「はいっ」
久保田さんが手袋をはめ、下腹部を静かに押した。
指先が沈んだ瞬間、内部で“ピクッ”と跳ねる小さな反応が返る。
「……反応、0.21秒ズレ。深層筋膜が遅れてます。ヤバいタイプです」
あいかが息を呑む。
「やっぱり……軽症外来と同じタイプだわ」
有喜の顔色が落ちる。
(私……いや……みんなと同じ? ロビーの……?)
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【押圧テンポの“0.2秒遅れ”とは】
膨張度の異常では、腹部押圧に対して内部の筋膜が反応するまでの“反応ラグ”が重要指標になる。
0.1秒未満は疲労域だが、0.2秒を超えると深層の滑走層が固まり始め、内部圧の暴走が始まる前兆 とされる。
特に変異型では痛覚が鈍いため、患者自身が危険に気づかない。
――――――――――――――
お美々が端末を操作し、簡易モニターの光ログを院内ネットへ取り込む。
「先輩、解析入りました。さっきの光は“内部乱流波形A-3型”」
あいかの表情が一気に険しくなる。
「A-3……ロビーの軽症三名と同じ……!」
戸田さんが短く息を吐く。
「つまり……感染じゃなくても、“同じ場で発火してる”ってことですね」
「考察は後。今は助けるのが先!」
あいかの声が響く。
「お美々、初期排液の準備!三輪さん、吸引ライン確保して!」
「はいっ」
有喜が弱く声を漏らす。
「……そんな……大げさだよ。私はまだ……」
あいかが真横にしゃがみ、目を合わせる。
「有喜さん、“歩ける・話せる”は当てになりません。
膨張度はもう27%です。普通の人の倍以上の速さで上がってます」
「そんなに……?」
「見てください。波形がこんなに揺れてる……
これは“破裂前の揺れ”です」
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【破裂前の“揺れ”とは】
破裂直前には、膨張度が急激に上昇する前に“揺れ”が出る。
これは内部の血漿濃度が上がり、筋膜が一時的に滑走しなくなるために発生する微振動で、
痛みではなく“違和感”だけが出る最悪のパターン。
この揺れを検知できるのは、医療者の手首か簡易モニターのみ。
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有喜は唇を震わせた。
「……迷惑……かけるな……」
あいかが即座に遮った。
「迷惑じゃありません!
あなたは私たちの同僚で、仲間で――
絶対に死なせません!」
そして、声を張りつめさせる。
「有喜さんの担当は私です。
毎日3回でも4回でも排液してもらいます。
いいですねっ!?
生き返らせますから!!」
その熱に、有喜が目を見開く。
お美々が続ける。
「次長……大丈夫です。
私たち、こういう時の連携は病院で一番強いんですよ」
久保田さんが追加の器具を運びながら言う。
「患者さんの前では優しく。
でも仲間を前にしたら……私たち、本気です」
三輪さんと戸田さんも頷く。
「「 任せてください!! 」」
あいかが状況をまとめる。
「膨張度:27.3% → 状態Ⅱ前期。
初期排液量は……お美々、どれくらい?」
お美々が粘度計算を確認する。
「序盤で70ml、第二段で50ml前後……
合わせて120mlは固いです。
粘度2.0……吸引、重いですよ。先輩」
「重いなら二段階にする。
無理に一気に減圧すると、逆にスパイクが跳ねるからね」
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【二段階排液の理由】
粘度が高い排液を一度に吸引すると、圧力差が急激に変化し、
“リバウンドスパイク”と呼ばれる危険な跳ね返りが起きる。
二段階で行うことで内部負荷を均等化し、
膨張度の乱高下を抑え、筋膜損傷を防ぐ効果がある。
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あいかが深く息を吸い――
処置全体の舵取りを決めた。
「よし……初期排液、行くよ。
お美々、最終チェック!」
「はい先輩!
皆さん――配置につけますか!?」
「「「 はいっ!! 」」」
有喜は目を閉じ、震える指でシーツを握った。
(怖い……でも、この人たちがいるなら……)
あいかが優しく声をかける。
「有喜さん、大丈夫。
私がついてます。
――始めますよ」
処置室の空気が、さらに静かに、鋭く締まった。
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◇
処置室の壁際に立ち、私は無言でモニター群を見ていた。
あいか達の声が飛び交う中、医師である私はあえて口を挟まない。
ここは彼女ら看護師のホームグラウンドであり、
私の役割は“余計な音を立てずに全体像を読むこと”だった。
血圧102/64。悪くはないが、正常とは言い難い。
脈拍118、これは自律神経の過覚醒。
SpO₂は94%――呼吸が乱れればすぐ落ちる数値だ。
膨張度27.3%。
外来の“軽症”と分類された患者でも、ここまで上がらないことの方が多い。
粘度予測2.0。
この時点で、私は内部の代謝挙動をほぼ確信した。
細胞外液の増加と血漿濃縮。
つまり、“本人が痛みを感じないタイプの危険域”に入っている。
ロビーで同じ波形が複数出た、と三輪ナースが言っていた。
単独症例ならただの体質差として片づけられる。
しかし複数例が同じ場所で、同じ揺れ方で、同じテンポでズレている。
疫学的に見るなら、これは“因果がある”と判断せざるを得ない。
看護師たちの連携は見事だった。
あいかが陣頭、段取りはお美々、支えは久保田・戸田・三輪。
私は血流音の変化を聞きながら、有喜の呼吸の深さと胸郭の動きを確認する。
吸気のわずかな引っ掛かり。
吐くときの“無意識の抑制”。
これらは本来、本人が意識すべき自覚症状なのに――
彼はそれすら症状として認識していない。
(……痛みがないのは良いことじゃない。気づけないという意味だ)
内部乱流A-3型。
深層筋膜の遅延0.21秒。
外来軽症三例と一致。
偶然とするには材料が揃いすぎている。
私は誰にも聞こえない程度の小さな声で、ただ一度だけ呟いた。
「……この揺れは、ロビーの空気が同じ“条件”だった証拠だな」
それだけ言って、また黙った。
必要なときだけ言葉を使う――それが医師としての最も冷静な振る舞いだった。




