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第4話 「赤信号の夜」

救急搬送は、なぜか夜に集中する。

昼間は外来や処置室の定期患者で忙しいが、夜は突発的な症例が重なる。今日も例外ではなかった。


「新型精液過多症、ステージ3、到着まであと2分!」

インカム越しに救急隊員の声が響く。


あいかは手袋を引き締め、器具台のジェルと使い捨て器具をチェックした。

横でお美々が、慌ただしくカーテンの内側を整えている。


「……あいか先輩、さっきの患者さん、抜いた後もかなり動悸が残ってました」

「そうだったね。あの人はギリギリだったから」


ステージ3の症例は時間との勝負だ。体内圧が限界を超えれば、下半身から全身の循環系に負担がかかり、脳や心臓の血流障害に直結する。

単なる性器症状ではなく、命を奪う全身疾患――それが新型精液過多症の恐ろしさだった。


ストレッチャーが処置室に滑り込む。救急隊員の声が張り詰めていた。

「発症から40分経過!すでに漏出あり!」


患者は20代前半の男性。呼吸が荒く、全身が薄く汗ばんでいる。

下半身はズボン越しでも膨張がわかる。顔色は蒼白、口元が小刻みに震えていた。


「あいか先輩、固定入ります!」

「お願い」


腰と太ももを固定し、あいかは保護シートを敷く。

ジェルのボトルを握り、患者の目を見る。


「すぐ処置します。楽になりますから」

「……お、お願い……早く……」


塗布。組織吸収を待つ間、患部の色調を観察する。

発赤、血管突出、皮膚張力――典型的ステージ3。

薬剤が浸透すると、患部が瞬間的に痙攣し、その直後、体内圧が排出衝動に変わる。


「よし、圧、落としていきます」

吸引器が作動し、機械音に合わせて排液ラインが震える。

弁の開度、流量、粘度の変化。

それらを同時に把握し、過負荷を避けつつ排出を促す。

内圧ゲージは2.5→2.0→1.6。

患者の胸郭がわずかに緩み、心拍が規則性を取り戻し始める。


「……助かった……」

小さな声。あいかは短く頷き、片付けに移る。


しかし安堵は束の間。インカムが再び鳴る。

「搬送2件目!ステージ4疑い、到着まで5分!」


「……お美々、次は重症だよ」

「んっ、わかりました」


ステージ4――それは、もはや通常手技が通じない段階だ。

排出が自律暴走し、体力が急速に削られる。

体液量の崩壊、血漿濃縮、心筋負荷、意識消失。

“間に合わない”という現実が、この病気にはある。


患者が到着したのは4分後。

ストレッチャー上の男は意識朦朧、呼吸浅く不規則。

タオルの下から、ゆっくりと液の滴る音。

身体はすでに極度の脱水徴候を示し、指先は紫がかっていた。


「始めます!」

ジェル塗布。しかし薬効が届くより先に心拍モニターが警告音を発した。

「血圧低下!心拍も落ちてる!」

手技速度を上げ、吸引量を調整。

粘度が急落し、排液路が詰まりかける。

フィルター交換、吸引圧再設定――秒単位の操作。


だが数十秒後、波形は一本の直線に変わった。


「……っ」

お美々が酸素マスクを外し、タオルで顔を覆う。

処置室に重い沈黙。


「……間に合わなかったね」

「……はい……」


お美々の手は震えていた。袖口のジェルが乾き、白くこびりつく。

唇を噛み、でも泣かない。現場は泣き場ではないと、叩き込まれているから。


あいかはその様子を見て、小さく息を吸う。

「お美々。あなたの判断、間違ってない。…次で取り返そ」

その声は震えていない。

自分が新人の頃、ゆぃゆぃ先輩に言われた言葉を思い出しながら。


その時、休憩室の扉がわずかに開き、白衣姿の女性が顔を覗かせた。

ゆぃゆぃ先輩だ。夜明け前の巡回で戻ってきたらしい。

視線だけで現場の空気を読み取ると、

「……二人とも、手、震えてるわよ」

と柔らかく言い、コップに水を注いで差し出した。


「戦いは続く。でも、呼吸を捨てる必要はないの。生かすために、まず自分が息をして」

それは“叱咤”ではなく、“引き上げる声”だった。

あいかもお美々も、その一言でわずかに肩が下りる。


だが遠くで、またサイレンの音が鳴る。

夜は終わらない。

救える命と、救えなかった命を抱えたまま、手を止めることは許されない。


あいかはフェイスシールドを付け直し、静かに言った。

「……次、行こう」

お美々も頷く。

ゆぃゆぃ先輩は、二人の背中を軽く叩いた。

「まだ夜は長いわよ。行ってらっしゃい、ジェル班」


そして三人は、再び光のない患者搬入口へ向かう。

この夜もまた、命の重さを手で受け止めながら。

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