第3話 「静かな朝と、ギザギザの前兆ー③」
ゆぃゆぃからの画像を見つめたまま、あいかの背中に薄い寒気が走った。
波形は完全に一致している。
ギザギザの振幅、周期の乱れ、基準値内なのに内部に“別の律動”が潜んでいるあの癖までも。
「……あいか先輩、患者さん……」
背後で、ドアが軽く叩かれた。
次の外来患者が到着していた。
「すぐ入れます。お願いします」
あいかは深く息を吸い、気持ちを切り替えた。
入室してきたのは四十代前半の男性。
顔色はやや悪く、歩行のリズムも微妙に不安定だ。
「すみません……さっきからズキズキして……」
「大丈夫ですよ。すぐ確認しますので、座ってくださいね」
お美々はいつもの柔らかい声で誘導し、あいかはすでにモニターを立ち上げていた。
波形が表示された瞬間――
あいかの胸がわずかに跳ねた。
「……早い……この立ち上がり方……」
基準値には収まっている。
だが膨張度カーブは、先ほどの軽症患者より“明らかな加速”を示していた。
ピークの予測値が、通常よりも20%近く高い。
内部で、何かが膨張を押し上げている。
「お美々、処置開始。ライン確保急ぐよ」
「はい、あいか先輩。力抜いてくださいね、呼吸ゆっくりですからね……」
お美々が患者の肩に触れ、優しく呼吸を誘導する間、
あいかは体表の膨張度を触診し、局所圧の分布を確認した。
(表層は軟、だが深部に“点圧”……浮腫じゃない。繊維質の緩みも違う……何この硬さの方向性)
硬度のピークは時計で言えば“2時の方向”。
局所膨張が不自然に片側へ偏っている。
「偏位してる……これ、破裂線の走り方が普通と違う……」
「先輩、粘度どうです?」
「……まだ正常。けど流動抵抗がじわじわ上がってる。5分以内に変わるかも」
排液ラインをセットすると、チューブ内の予備流動が微細に震えた。
1.05Pa·s。先ほどより高い。
上昇カーブの“先端”がここに来ていた。
(時間がない。ピーク後の下降カーブを待てない……)
「始めるよ。お美々、患者さん支えて」
「はい、大丈夫ですよ。痛くないようにしますからね……一緒に呼吸しましょう」
排液を開始すると、チューブ内を流れる液体がごくわずかに“重く”見えた。
その数秒後――
膨張度グラフが急激に跳ね上がった。
「っ……来た!」
ピーク予測値を超えかける鋭角の上昇。
破裂ラインの手前、わずか1.8ポイントの距離。
「お美々、姿勢変換! 側臥位30度、頭側を少し下げて!」
「はい先輩、ごめんね、少しだけ体を傾けますよ……苦しくないですからね……」
姿勢を変えた瞬間、体表の圧分布が変わり、内部圧の偏位がわずかに緩んだ。
あいかはその隙を逃さず、流速を一定に保ちながら膨張度の下降カーブに入るタイミングを待つ。
(下がれ……下がれ……!)
グラフの角度が緩み、下降しはじめた。
まだ鋭い。だが破裂域からは離れつつある。
排液量が増え、粘度も次第に正常域へ戻る。
「……っは……助かった……」
患者が安堵の吐息を漏らした瞬間、あいかは初めて手を離した。
「大丈夫です。もう安全域です。よく頑張りましたね」
お美々の柔らかい声が、処置室の空気を深く包んだ。
患者が退室し、扉が閉まる。
その瞬間、あいかとお美々は同時にモニターを覗き込んだ。
波形は――
やはり“ギザギザ”。
角度が鋭く、律動が乱れ、基準値の中に潜む“不穏な揺らぎ”。
「……先輩」
「……うん。これ、もう“軽症の波形”じゃない」
あいかは背筋を伸ばし、静かに息を吐いた。
現場の勘――いや、手首の感覚が警鐘を鳴らしていた。
これはもう、偶然や誤差ではない。
何かが、確実に変わっている。
――――――――――――――――――――――――――
処置が終わって、患者さんがシャツの袖を整えながら立ち上がった。
まだ額にうっすら汗が残っているけれど、さっきまでの“破裂ライン直前”の顔色とは違い、
どことなく晴れやかだった。
「あー……しかし……あそこまで膨張するなんて……何年ぶりだろうねぇ……?」
おちゃらけたように笑うその声は、緊張から解放された大人の“照れ隠し”そのもの。
患者さん自身も分かっているのだろう。
――あのギザギザ波形の怖さを、ほんの寸前まで味わっていたことを。
お美々はすかさず、あの柔らかい笑顔で返した。
「ふふっ……あの角度、素敵でしたよ♪
無理しないで、また定期的に出しに来てくださいね。
溜めこむと危険ですから~?」
その“明るくて温かい言葉”が、処置室の空気を一気に和ませる。
医療としての正しさと、ナースとしての優しさの絶妙なバランス。
お美々は、それを本能的にやってのける。
患者さんは照れたように頭をかく。
「いやぁ……そんなに褒められると……なんだか若返った気がしてきますよ……」
あいかは横で、透明容器に溜まった排液を軽く振った。
揺れ具合、沈降の仕方、色調、粘度。
その全部が“正常域”へ戻っていることを確認する、あいか特有の細やかな癖だ。
「まだまだお若いですよ~、ほんとに。これだけ出せるんですし…」
そう言いながら容器をゆっくり回す。
物理的にはただの沈降チェックなのに、言い方がどこかノリノリだ。
患者さんが吹き出す。
「いやいや、そんな……でも、若いって言われるとちょっと嬉しいねぇ」
あいかは肩をすくめて笑った。
「だって、この量と粘度なら、代謝はちゃんと動いてます。
“年齢性膨張度低下”のパターンじゃないですし。
むしろ、溜まり方が若い人のそれに近いくらいですよ?」
「ほほう……そんなデータもあるんですねぇ……」
「ありますよ。溜め込み方にも年齢差が出るんです。
若い人は“急にパンッ”て高ピークが来ることが多いんですけど、
年齢が上がると“じわじわ重く詰まる”傾向が強くなります。
でも今日の状態は完全に前者でしたからね」
お美々が横から、
「つまり若いってことですよ♪」
と追い打ちをかけた。
患者さんは照れ笑いを浮かべつつ、どこか安心した表情で頷いた。
「いやぁ……なんか元気出てきたなぁ。
じゃあまた……“若いうちに”来ますよ!」
「ふふ、ぜひぜひ。次はもっと軽いうちに来てくださいね」
お美々が笑いながら見送り、あいかも容器を机に置いて一礼した。
扉が閉まる。
処置室に残ったのは、わずかな消毒液の匂いと、容器の底で静かに沈んでいく排液だけ。
あいかは小さく息をついた。
(怖い症例でも……こうやって笑って帰ってくれると、本当に救われる)
そんな“医療者だけの静かな満足”が、処置室にふわりと広がっていた。




