第2話 「静かな朝と、ギザギザの前兆ー②」
処置室の扉が閉まると、外来のざわつきが薄れ、空気がひとつの密度を持った。
あいかは手袋をはめながら、患者ファイルを開く。
スーツ姿の男性は三十代後半、既往なし、前回の排液は一週間前。
普段なら軽症枠で問題のないタイプだ。
「お待たせしました。今日は“少し詰まる感じ”っておっしゃってましたね?」
患者は椅子に座りながら笑った。
「はい、なんか最近忙しくて……ちょっと溜めこんでしまって」
よくある返答だ。
だが、その軽さの裏側に、モニターの数値は微妙な揺れを見せていた。
お美々がタブレットで膨張度モニターを起動する。
画面に現れた波形を見た瞬間、あいかは眉をひそめた。
「……あれ?」
基準値の中には収まっている。しかし波形が、妙にギザギザしている。
細かく上下し、律動がばらけている。
「先輩、これ……誤差にしては荒くないですか?」
「うん。軽症のはずなんだけど……嫌な動き方」
患者には悟られないよう、声は低く。
その間にお美々は笑顔を崩さず準備を進めていた。
「では、処置していきますね。無理はさせませんので安心してください」
患者が頷き、あいかは触診で内部圧の変化と粘度の兆しを探った。
手袋越しの感触は――重くはない。
前回のような“危険な粘度”ではない。
けれど、どこか引っかかる。
「……先輩?」
お美々が小さく囁く。
「うん、まだ大丈夫。けど波形は注視する」
モニターのギザギザは収まらず、まるで何かが“ぐずついている”ような不規則さを保っていた。
「はい、それじゃ……出していきましょう。深呼吸して力を抜いて」
お美々が優しく誘導する声に合わせ、あいかは排液ラインをセットし、
グラフと体表の膨張度を同時に追う。
患者が息を吐いた瞬間――
グラフが一段跳ね上がった。
「……っ!」
だがすぐに戻る。
基準値内。
しかし、跳ね方が鋭い。軽症では見ない角度だった。
(基準値の中だから安全……のはず。なのに、この違和感は何?)
「はい、そのまま……いいですよ。無理はしなくて大丈夫です」
お美々が声で患者の緊張をほぐす。
あいかは波形の乱れを見続けながら、排液量と粘度の変化を細かくチェックした。
数秒後、排液はスムーズに始まった。
粘度は正常範囲、色調も問題なし。
患者も痛みの訴えはない。
処置は淡々と進み、十分ほどで終了した。
「すっきりしました……ほんと助かります」
患者は明るく笑い、深々と頭を下げて帰っていった。
扉が閉まる。
その瞬間、処置室の空気が一段重くなった。
「……先輩。やっぱりさっきの波形、変ですよね?」
お美々がモニターを指差す。
記録された波形は、基準値の“中”でギザギザと跳ね、まるで不規則なノイズの塊のようだった。
「膨張度の乱れ……軽症の波形じゃない。
でも粘度も量も正常。臨床所見は軽症。数字は基準値内」
「全部“軽症の顔”してるのに、波形だけが変、って……」
あいかは無言で頷いた。
(波形だけが先に壊れている……?)
ただの誤差かもしれない。
でも、胸の奥に沈むひっかかりは、誤差という言葉では済ませられなかった。
そのとき、お美々のタブレットが震えた。
「ゆぃゆぃ先輩から?」
「……はい。写真付きで来てます」
画面には、フィリピンの外来で撮影された膨張度モニターの画像。
そこに写る波形は――
あいかとお美々が今見たものと、まったく同じ“ギザギザ”。
《そっちも出てる?こっちは妙に多いよ。軽症ばっかりなのに変なんだよねー》
軽い文面。
なのに背筋が冷える。
「……偶然じゃないね、これは」
処置室の静けさは、さっきまでの“朝の静けさ”とは違っていた。
何かが、小さく軋みながら動き始めている。
排液が開始された直後、あいかは排液ラインの透明チューブを指で軽く弾き、
内部の流速を微細に観察した。
流速は 18~22mL/min の間で緩やかに安定しているが、周期的に 2~3mL 程度の減衰が混じる。
通常の軽症例なら見られない、不規則な微小振動だった。
続いて粘度測定。チューブ越しの流動抵抗は 1.01〜1.03Pa·s 程度で正常域に収まっている。
色調も黄白色で、凝固塊や線維成分の混入はない。
しかし、膨張度の体表曲線は予想よりわずかに遅延して収縮し、
ピーク後の下降カーブが不自然に“平坦化”していた。
(ピーク後の平坦化……炎症性サイトカインの局所残留?それとも微小浮腫?)
あいかは腹壁上から軽く圧をかけ、抵抗の戻りを確認する。
硬さは正常。しかし、その“戻り速度”だけが遅い。
膨張度グラフのギザギザと、この戻りの遅さが妙に符合していた。
「……やっぱり、内部で何か揺れてる」
声には出さなかったが、医学的には“軽症では説明できない揺らぎ”がそこにあった。




