第1話 「静かな朝と、ギザギザの前兆ー①」
朝の病棟は、まるで誰かが息をひそめているかのように静かだった。
夜勤明けの気配がまだ壁に残っている廊下では、消毒液の匂いとモニター音だけが細く揺れている。
天井の照明は朝色への切り替え前で、白んだ光が床に薄く伸びていた。
あいかは処置室前の壁にもたれ、胸の奥に残る数日前の記憶を押し込めるようにゆっくり息を吸った。
変異型を疑った連続症例の夜。救えた命と、救えなかった兆候。
手袋越しの感触がまだ指先に残っている気がした。
「……あいか先輩、また難しい顔してるー」
軽い声が近づき、お美々が紙コップを差し出してきた。
「コーヒー淹れてきましたよ。顔に“重症波形です”って書いてますってば」
思わず笑ってしまい、あいかの張り詰めた空気が少しだけほぐれた。
そのとき、壁のパネルが点滅した。
“ミニカンファレンス開始まで五分”。
二人は白衣を整え、会議室へ向かった。
会議室ではすでに一人の男性が資料を広げていた。
病院事務局 次長・須志有喜。
診療部ではなく、病院全体の予算・薬剤発注・外来統計を統括する事務側の幹部だ。
普段は看護部のカンファに顔を出すことはない。
しかし最近は、
・P-034の導入に伴う薬剤予算の変動
・外来患者数と症状カテゴリの急な推移
・受付ロビーで見える“明らかに以前と異なる来院傾向”
──こうした報告を直接医療側と突き合わせる必要が出ており、事務局として今朝は参加している。
有喜次長は、ペンを持つ指が落ち着かない様子で資料をめくっていた。
「あ、あいかちゃん。お美々ちゃんもおはよう」
「おはようございます、有喜次長」
「今日は……いろいろ聞いてほしいことがあってね」
モニターが点灯し、ゆぃゆぃが映る。
「おはよー! あいかちゃん、お美々ちゃん! ……あ、有喜次長も!」
「ゆぃゆぃ先輩、今日もフィリピンですか?」
「うん、こっちは暑いし、外来はもっと暑いよー!」
軽い挨拶が交わされたところで、有喜次長が資料の画面を共有した。
そこには、大きく印字された文字。
――増幅剤 P-034。
「これが今日いちばんの議題だ」
有喜次長の声は普段より硬い。
「国から“重症例に限る”という前提で、P-034の試験導入が通達された。
薬剤の発注量、予算、管理体制を事務局としてすぐに整えなければならない。
それで……看護部にも直接話しておく必要があると思って」
資料には細かな投与条件と、厳しすぎるほどの管理項目が並んでいた。
「こんなに細かい条件、珍しいですね……」
お美々が眉を寄せる。
「それもそうだが、審査が異様に早かった。新薬は半年かかるのに、これは二週間で許可が出た」
あいかは喉の奥が少しだけ冷えるような感覚を覚えた。
早すぎる承認。細かすぎる条件。
不自然に整いすぎている。
ゆぃゆぃが画面の向こうで言う。
「フィリピンにも似た通達きたよ。“変異型って言葉は現場で不用意に使うな”ってさ。
こっちも混乱中」
有喜次長は静かに頷いた。
「事務局側にも、外来の動きが気になっている。
最近、受付ロビーで“軽症っぽいのに来る頻度が不自然に増えた人”が目につくんだよ。
統計でも微妙に跳ねている。何か、背景がある気がしてならなくてね」
会議室に、言葉にできない重さが落ちた。
「……とにかく、今日の外来は軽症中心のはずだ。気をつけていこう」
有喜次長の言葉で、会議は締められた。
院内放送が流れる。
“外来受付を開始します”。
あいかとお美々は処置室に戻った。
廊下には患者の足音や受付スタッフの声が流れ込み、一気に朝のざわつきが立ち上がる。
処置室の前にスーツ姿の男性が早足で近づいてきた。
「すみません! 今日ちょっと詰まりぎみで……サクッと出して帰れますか?」
軽症でよく見るタイプの患者さん。
明るく、緊張も薄い。
「一件目入りましたよ、あいか先輩」
「うん、受付お願い。モニター準備するね」
扉が閉まり、処置室に静けさが戻る。
あいかは、さきほどの通達資料の一行を思い返した。
“膨張度の異常波形に関する統計的有意差なし”。
本当に“なし”なのだろうか。
手袋をはめながら、あいかは患者ファイルを開いた。
朝の静けさが、ただの静けさでありますように──
そう祈りながら。
◇
通達文の最終チェックは、夜中の三時を回っていた。
省内のフロアは静まり返り、非常灯の淡い光だけが、机に散らばる資料の縁を照らしている。
男――厚生医療政策局・医療技術審査室の上席官僚・加茂田は、
冷めきったコーヒーに目もくれず、P-034の申請ファイルをスクロールした。
「……重症例に限る、か。建前としては妥当だがね」
深くため息をつき、端末に指を走らせる。
本来なら、この種の新規薬剤の審査には半年以上かかる。
安全試験、交差データ、国際基準との整合性、そして予算。
だが P-034 は“特例”としてわずか二週間で承認プロセスが通過した。
理由は、明確に存在する。
だが、それを通達文に書くわけにはいかない。
……全国の膨張度データに“揺らぎ”が出始めている。
軽症例の増加。
病院ロビーを占める妙な来院パターン。
波形ログのギザギザとした変調。
そのすべてが、月初の段階で統計室に警報を投げてきた。
「変異型……という単語は、まだ使えない」
加茂田は独りごちながら、クリアランスの高い専用端末にP-034の最新解析を表示した。
薬剤は“補助剤”の名目だが、実際には――
“膨張度の急峻な上昇を、強制的に緩和し、破裂閾値を引き延ばす”
という、応急的な“橋渡し”の薬でしかない。
決して治療ではない。
だが、いま必要なのは“時間稼ぎ”だった。
民間医療機関には知らされていない数字がある。
ここ三ヶ月で、膨張度異常による重篤例は既に 117%増。
救命できた分の裏で、報告されず消えていった症例も複数ある。
国としては、パニックを避ける義務がある。
だが、現場が知らなければ対応が遅れる。
そのギリギリの境界線を、この深夜に男は歩いていた。
「……重症例に限る、で逃げ道は作った。現場は気づくだろうな。特に看護部は」
医師よりも早く“異常の匂い”を察するのは、決まって看護側だ。
彼らが動き始めたら、統計の数字はおそらくもう“兆候”では済まない。
加茂田は通達文の注記を少しだけ書き換えた。
【現行の膨張度異常波形は統計的有意差なし】
→【現段階では統計的評価を保留する】
これ以上は踏み込めない。
だが、わずかな“余白”は残した。
現場が必要とすれば読み取れるように。
最後に送信ボタンに指を置く。
その直前、窓の外の闇がわずかに白んでいた。
「……これで少なくとも数週間はもつ。あとは、現場を信じるしかない」
ENTERキーを押す音だけが、省内の静寂に吸い込まれていった。
~医師の呟き~
E.O.S.の処置において、匂いは決して軽視できない臨床情報だ。
特に“甘くて刺すような匂い”として患者から立ちのぼるケトン臭は、
代謝が極限まで破綻した時に現れる典型的なサインである。
体内の糖利用が破綻し、脂肪を強制的に燃やし始めることで大量のケトン体が発生し、
その一部が呼気や皮膚から揮発する。
数値上はまだ安定して見えても、
この匂いが混じった時点で内部では臓器レベルの代謝暴走が始まっていると判断すべきだ。
E.O.S.患者では膨張度の加速が“匂いの変化”と連動するケースが多く、
機械のアラームより先に、現場の鼻が異常を察知することさえある。
だからこそ、我々はモニターだけを信じない。
わずかな匂いの揺らぎが、破裂ラインに向かう“最初の警報”になることを知っているからだ。




