【閑話】 「粘度1.8倍の衝撃」
夜勤明けの処置室裏。
アルコール綿とジェルの匂いがまだ空気に残っている。
私とお美々は紙コップのコーヒーを握りしめ、ぐったり座り込んだ。
「……先輩」
お美々が小声で言う。
「今日のあれ……なんか、粘度……もっっっちりしてませんでした?」
「ねぇ、それ言葉のチョイスおかしくない?」
私は笑ったけど、すぐに真顔に戻った。
「あれ、完全に通常粘度じゃなかった。ジェル反応が遅れたでしょ? 神経伝導値も乱れてたし」
「ですよねぇ……私、途中で心の中で思いましたよ。
『これ……スライムでも出てんの?』って」
「お美々、医療者として発言が終わってる」
「だって先輩、あれ絶対スライムですよ!
ほら、先輩の顔にも“もにゅっ”てついたし!」
……確かに、ついた。
ジェルと汗と排液とで、今日の私はいろんな意味で終了していた。
◆
処置後のサンプルはすぐラボへ提出された。
ラボ室の換気扇はフル稼働、分析装置が低い電子音を鳴らしている。
若い男性スタッフが、サンプルを手にした瞬間――
「えっ……これ……濃くない?
ていうか粘る……やば……え、あの、先輩たち浴びたんすか?」
「“浴びた”じゃなくて“助けた”の」
私は冷たい声で返した。
その瞬間、空気は凍り、彼はマイクロピペットを落とした。
ラボ主任が慌ててデータを確認する。
「成分異常なし……だが粘度係数が平均値の1.8倍。
水分保持指数の低下、沈殿率の変動……何だこれは?」
お美々が私の腕を小突く。
「先輩……これ、笑えないやつじゃない?」
「笑えないよ。患者さんの膨張率も上がってた。
ジェル圧の反応速度、普段の倍だったもの」
医療者としての背筋がぞくりとした。
◆
コーヒーを一口飲んで、私たちの会話は再び女子会モードに戻る。
「……ねぇ先輩」
「なに?」
「今日の排液……色も濃かったですよね。
あれ……熟成してました?」
「そんな熟成チーズみたいに言わないでよ」
「いやだって、伸びましたよ? びよーんて」
「お美々、真面目にしなさい……って言いたいけど、
私もびよーんって思った」
二人して顔を見合わせ、笑いがこぼれた。
でも――その直後。
部屋の空気がすっと冷えた。
「……先輩」
お美々が真顔になる。
「ゆぃさん、フィリピンではこんな粘度じゃないって言ってたって、言いましたよね?」
「うん。向こうはいつも通りだって」
「じゃあ……これって、日本だけ?」
私は紙コップを握る手に力が入るのを感じた。
変化は偶然じゃない。
“何か”が、日本のE.O.S.患者に起きている。
まだ誰も言葉にしないけれど――
胸の奥に、ひっそりとざわめきだけが残った。
そのざわめきは、そう遠くない未来の扉をノックしているみたいだった。
◇
ラボでサンプルを扱っていた俺は、正直、背筋が寒くなった。
計測容器の底に沈む“あれ”は、まるでスライムだった。
粘度係数は平均の1.8倍。攪拌棒を入れると、ゆっくり持ち上がり、糸を引く。
液体としての性質を一瞬忘れるほどの、異常な密度。
手袋越しでも伝わる重さに、俺は思わず喉を鳴らした。
(……これ、体の中に溜まるのか?)
想像した瞬間、膀胱あたりがじんわり痛む“気がした”。
E.O.S.患者の膨張度は、俺たちスタッフ全員が理解しているつもりだ。
でも、実際にこの粘度の塊が体内で圧を作ると考えると、理屈抜きで怖い。
詰まりが起これば、圧力は逃げ場を失う。
神経経路にも負担がかかり、血流も変動し、臓器にまで波及する。
(破裂──)
頭の中で言葉がよぎる。
俺は男性だ。
だからこそ、“どこに溜まるのか”を具体的に想像できてしまう。
言葉にすると情けないが、
「こんなの詰まったら、そりゃ破裂するわ」
と本気で思った。
容器の中の白濁は、ただの排出液じゃない。
固まりかけたゼリー状物質と液体が層になっていて、光を当てると緩慢に揺れる。
内部でこれが滞留すれば、導管のどこかで必ず渋滞が起きる。
膨張度が跳ね上がるのは当然だ。
「……マジかよ」
思わず独り言が漏れた。
その時、あいか先輩が横でデータを確認しながら言った。
「ね、怖いでしょ? 患者さんはこれ抱えて来るんだから」
軽い口調だったけれど、その目は冷静だった。
俺は容器を見つめたまま息を呑む。
もし、自分の中にこれが溜まり始めたら……
圧が上がり、痛みが走り、破裂の恐怖が現実になる。
“男なら分かる”話だ。
それゆえに背筋が凍る。
俺は真面目に思った。
――あいか先輩とお美々さん、よくあんなものを浴びながら処置したな。
そして、よく助けてくれたな、と。
容器の粘度を見つめるたびに、
あの患者が処置室で叫んだ表情が頭に浮かぶ。
医療者としての恐怖と尊敬が、じわりと胸に広がった。
お疲れさまでした。
今回描かれた「粘度1.8倍」の排液。スライム化したそれは、ただの“濃い排液”ではありません。
破裂すれば感染する──そう国が結論づけた報告書を読むと、
今日の異常は偶然では済まされないと背筋が冷えます。
ラボは混乱し、病院の上層部は新たな“緑川唯”を量産しようとし、
国は静かに隔離病棟計画へ舵を切る。
一方で、謎の集団は影からこの病棟を観察し、粘度異常を“成功例”と呼ぶ。
私たち現場には、真実は見えない。
ただ目の前の命と、膨張し続ける危機だけがある。
だからこそ──
≪ 国が正しいなら、私たちは間違いで構わない。 ≫
そう思えるほど、守りたい顔がある。
1章の終わりを迎え、静かに世界が動き始めています。
2章は、いよいよ “パンデミック” の扉が開きます。




