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【閑話】 「E.O.S.あおはるトライアル」

 外来処置室の空気は、午前帯特有の消毒薬の匂いが濃かった。

壁面の陰性圧換気口が低い唸りを上げ、検査台の上にはE.O.S.評価用の生体反応センサー、

皮膚電位計、局所温度モニター、ピピローションクリームの試薬ボトルが整然と並んでいる。

 

 大学四年生の男女二人は、まるで実験実習に戻ってしまったかのような顔で立っていた。

就職先から提出を求められた「E.O.S.陰性証明」。

この時代では一般的な書類だが、二人にとっては未知の検査だ。


 担当するのは、緑川唯、あいか、お美々──三名のジェル資格保持ナース。

三人がそろうと、どうしても場の空気が少しだけ柔らかく、

そしてどこか悪ノリ気味になるのは外来では有名だった。


「じゃあ、検査ね。彼氏くん、そこに座って。深呼吸して。怖くない怖くない、まだ何もしないから」


 唯の声は医療者らしい落ち着きと、明らかにからかい半分の色が混じっている。

 男子学生は喉を鳴らしながら椅子に座り、わずかに膝を閉じた。


「まずは安静時の局所血流チェックね。脈波と温度、基準値内ならそのまま刺激試験に移るわ」


 唯が淡々と説明する一方で、あいかは既に機器を準備していた。

皮膚電位パッドを慎重に貼りつけ、モニターには滑らかな基線が現れる。

 一方、お美々は明らかに楽しそうにピピローションのボトルを軽く振っていた。

学生カップルは同時に視線をそらす。


「彼女さんもこっちへ。だって将来さ、もし急に発症したら応急処置するのは隣にいるあなたよ? 

基本だけ今のうち覚えちゃいなさい」


 その言葉は完全に正論だったが、言い方の“ニヤッ”がすべてを台無しにした。

彼女の耳がみるみる赤くなる。


「えっ、わ、私が……? あの、その……そんな……」

「そうよ? E.O.S.は発症急速型だと、10〜15分でステージ2に入ることだってあるんだから。

そしたらあなたが一次排泄誘導をして、古い精液を処理してあげないと。ね?」


 唯の声は真面目なのに、内容だけが生々しく、しかし医学的には一切ウソがない。

 男子学生の肩がビクッと跳ねた。


「で、彼女さん、ここがポイント。発症したらね、男性器の根元側の陰茎背静脈圧が上がってくるの。

これを外から手技で逃がす“圧排ライン”ってのがあって──」

 唯は人差し指で空中に曲線を描く。

「このラインに沿って、体表上から軽く押し下げる。くれぐれも握りこんじゃダメ。

圧が上がりすぎると逆に破裂リスクが増すから」


 説明は完全に医学講義だった。だが、内容はどうしても“それっぽく”聞こえてしまう。


 あいかが加わる。


「そうそう、あとね、発症直後は前立腺圧が急上昇するから、無理に止めちゃダメなの。

彼氏さんの命に関わるのよ? だから“出した方が安全”って頭に切り替えることが重要なの」


 彼女はさらに耳まで赤くし、両手で顔を覆った。

 男子学生は「待って、俺の命がそんな理屈で……?」と小声でつぶやいたが、誰にも届かなかった。


 唯がニッコリ笑って続ける。


「じゃ、ここから刺激試験いくわね。といっても触らないわ。

外側から低周波だけかけて反応指数を見るだけ。陰性なら10分で終わるから安心して」


 そう言いつつ、唯は絶妙にいたずらっぽい目をしていた。


 お美々が付け加える。

「彼女さんも、彼氏さんの反応モニター見てて。

これがね、異常亢進のときは波形がビッて持ち上がるの。可愛いでしょ?」

「可愛くはないです……!」

「ある意味、生きてる証拠よ?」


 彼女はさらに赤くなった。


 男子学生の腿がわずかに震えているのに気づき、唯が軽い声でフォローする。


「緊張して血圧上がってるわね。でも大丈夫、これは医学的検査だから。

恥ずかしいなんて思う必要はこれっぽっちもないの。

私は慣れすぎてて、昼ごはんのメニュー考えながらでもできるし」

「やめてくださいその例え……!」


 モニターには、脈波と皮膚電位の変化が精密に描画されていく。

 唯が設定した低周波が流れ始めると、男子学生の下腹部反射が微細に動いた。

 医学的には正常反応だが、彼女は息を飲む。


 唯は彼女の肩を軽く叩いた。


「こういう微細反射が、発症の早期兆候を見つける材料なの。覚えておくといいわ。

あなた、応急処置上手そうだし」

「そ、そんな……」

「大丈夫よ。“いざという時は、出してあげるのが正義”って覚えておけばいいの」


 あいかとお美々が同時に吹き出しそうになる。

 内容は完全に医療なのに、言い回しがおかしすぎるのだ。


 男子学生は「俺の dignity……」と呟いて俯いた。


 検査は続く。

 唯はモニターの値を丁寧に読み取りながら、真顔で言った。


「反応指数、正常。基準値内。陰性の可能性が高いわね。じゃあ、後半の“パートナー説明”いくわよ」


「ま、まだあるんですか!?」と男女同時に声が揃った。


 唯は明るく微笑む。


「大事なことだからね。男性のE.O.S.急性型は、

誰かがそばにいてくれるだけで救命率が15%上がるのよ。

だから彼女さん、あなたが彼氏さんの命綱なの」


 その瞬間、彼女の表情が一変した。

 赤面は残るものの、必死に真剣さが浮かんでいた。


「……はい。彼が困ったら、私、ちゃんと出してあげます!!」


 唯は満足げに頷いた。


「いい子ね。じゃあ次、もし“暴走期”に入った場合の姿勢固定だけ教えるわ。

ここで大事なのはね、股関節の角度──」


 あいかが横から小声で囁く。


「……唯先輩、これ、絶対いま必要ないやつですよね」

「ええ、完全にお遊びよ。でも教育って名目なら全部許されるの」

「先輩……」


 唯はストレッチャー横の簡易モデルを引き寄せ、まるで講義のように手を添えて見せた。

 彼女は姿勢固定のポイントを“明確に医学的に”語りながら、しかしどこか説明の順番がおかしい。


「股関節は少し開くくらいでいいの。開きすぎると腹圧が逃げて逆効果。

 で、骨盤の角度は……そう、こんなふうに。ここが固定できると安全に“排泄誘導”できるのよ」


 カップルは完全に固まっていた。

 しかし説明している唯は、医学的には一切ウソを言っていなかった。


「あと、彼女さん、これが“前処置タオル”。必ず1枚は携帯してね」

「えっ……常にですか?」

「彼氏さんの突然の体調変化は時間を選ばないでしょ? 恋人の健康を守るって、そういうことよ」


 彼女は何度目か分からない赤面をしながら頷き、タオルを胸元でぎゅっと握る。

 もはや“恥ずかしいから反射的に拒否する”という段階を越えて、

 使命感らしきものが芽生えてしまっている。


 男子学生は彼女の横顔を見て言葉を失った。

 いや、失ったというより──彼女があまりに真面目に頷くので、否定する隙がなかったのだ。


「あの……唯さん。これ全部、本当に必要な知識ですか……?」

 男子学生の弱々しい問いに、唯は爽やかに笑った。


「もちろんよ。全部“万が一の時には必要な可能性がある知識”。

 そしてあなたの彼女さんみたいに、真面目に吸収してくれる人はとても貴重なの。

 看護学生の一年生より素直だわ」


 彼女はとうとう口元を押さえ「一年生より……」と小さく呻いた。

 お美々は隣で肩を震わせながらモニターの整理をしていた。


 そして唯は、さらに追い打ちをかける。


「じゃ、最後に“自己評価法”ね。これは彼氏さん自身も知っておくべき。

 陰茎背静脈圧、亢進してくると下腹部の鈍痛として出るの。これ、放置すると危険だから」


 唯が説明しながら自分の下腹部あたりを軽くトントンと叩いて見せると、

 男子学生は条件反射で姿勢を正した。


「ほんの少し痛むとき、どうします?」

「え、えっと……休む?」

「違うわ。すぐに彼女さんに伝えて、体表圧排をお願いするの。あなた一人じゃ調整が難しいから」


「え、僕、するの……?」

「するのよ。だって命に関わるんだから」


 圧倒的な正論。

 しかしやはりどこか雰囲気がおかしい。


 彼女は一生懸命ノートアプリにメモを取り始めていた。


「あの……手の角度……圧排ライン……左右対称……っと……」


 唯は満足げに微笑む。

「あいかちゃん、この子、本当にいい奥さんになるわよ」

「ですねぇ……真剣さがキラキラしてて、ちょっと眩しいです」

「お美々ちゃんもそう思うでしょ?」

「はい……私より覚えてます……」


 男子学生はついに椅子から腰を浮かせ、

「俺、なんか……すごく申し訳ない気持ちになってきた……」

 と小声でこぼした。


 唯は「罪悪感は不要」とばかりに背中を軽く叩いた。


「彼氏くん、安心して。あなたは陰性の可能性が高い。彼女さんに負担が実際にかかる確率は低いの。

 だからこれは“保険”みたいなものよ」


「……そう、なんですね……」


 彼はほっと息を吐き、彼女の手を軽く取った。

 彼女は握り返し、少し照れながら言った。


「だって……もし何かあったら、私が助けられるなら……助けたいし……」


 唯・あいか・お美々。

 三人とも一瞬、表情が和らいだ。

 悪ノリ混じりのふざけた講義だったが、この瞬間ばかりは純粋な好意があふれていた。


 唯はにっこり笑い、場を締めるように言った。


「よし、じゃあ最終評価して、陰性証明書出すわね。

 二人とも、本当に仲良しね。きっと社会に出ても大丈夫よ」


 彼女は照れ笑い。男子学生は胸に手を当てて安堵。

 あいかとお美々はカルテをまとめつつ、静かに目を合わせた。


(……唯先輩、やっぱり今日もちょっと悪ノリしてたな)


(でも、彼女さんの覚え方が真面目すぎて……それはそれで可愛いですよね)


 小さな囁きは換気音に消えた。


 最後に唯が二人へ向けて、柔らかく、けれど少しだけいたずらな声で告げた。


「とにかく──発症したら慌てずに“出す”。これだけ、しっかり覚えておけば十分よ」


 彼女は真っ赤に、男子学生は青く、

 そしてナース三人は満足げに笑った。


お美々がカルテ棚に腰掛けながら、肩越しに窓の外を眺める。

「さっきのカップル、上手くいくといいですねー」


あいかが書類を整理しつつ、眉をひそめて小さく笑った。

「練習の再現率、どうだったかしらね。

圧排ラインや陰茎背静脈圧の感覚、ちゃんと覚えてくれたかしら」


唯は自分のマグカップを傾けながら、どこか遠くを見る目でつぶやく。

「……ああ、朝晩、毎日抜いてあげるように言うの忘れたわ」


二人が一瞬沈黙する。お美々がきょとんと目を見開き、あいかも書類を持つ手が止まる。

「……え?」


唯は肩をすくめ、涼しい顔で言った。

「何? 若いんだもの、普通よ。排出誘導のタイミングも早めに覚えておかないと、

ステージ2になった時に血管圧が上がりすぎて危ないでしょ」


お美々が小声でつぶやく。

「いや……でも、朝晩って……ステージ2管理の間隔的にはちょっと……」


あいかがため息交じりに補足する。

「確かに、生理活性物質によるピピローションクリームの効果持続時間を考えたら、

24時間に1〜2回で十分だけど、心理的なリズムも大事か……」


唯はコーヒーを置き、テーブルに肘をついて得意げに笑う。

「圧排のリズムは科学的に重要。微細反射も見逃さずに、陰茎背静脈圧をモニターしつつ、

毎回確認しながらやるのが理想なの。若いんだから、多少多めでも覚えられるわよ」


お美々が顔を赤らめて目を逸らす。

「いやー、普通の社会人カップルが聞いたら卒倒しそうな話ですよ……」


あいかは微笑みながら書類に目を落とし、ぽつり。

「まあ、でも現場で本当に必要な知識は、

 こういう“毎日のケア”の積み重ねでしか身につかないってことよね」


唯は肩をすくめて笑った。

「ええ、経験値が命を救うの。だから若いんだし、普通に毎日抜くくらいの話よ。

 心配しなくていいよ」


三人の間に一瞬の沈黙が流れ、そしてまたお美々が笑いをこらえきれずに吹き出した。

「……先輩、下世話すぎますって」

「医学的に正しいんだから問題なし」唯はにやりと笑い、あいかも思わず顔をほころばせた。



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