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第39話 「影は同時に動き出す」

霞ヶ関、第六会議室。深夜でも灯りが落ちない異様な空気が漂っていた。

机上には膨大な紙資料とデータタブレットが積み重なり、

幾人もの官僚たちが険しい顔で数字を睨んでいる。


「ここ数週間の変異型の増加率……異常だな」

「臨界膨張度に達する速度が早すぎる。もはや地方の医療体制では対応不能だ」


 そんな議論の最中、ひとつの封筒が机に置かれた。分厚い紙に「緊急指定・機密」の赤文字。


「例の“破裂後”の件だ。読みたくはないが……」


 開封された瞬間、室内の空気が変わる。誰もが息を呑み、ページに目を走らせた。


『破裂後の患者周囲で、原因不明の感染性事象を確認。

 破裂時の微細飛散液に含まれる成分が、第三者へ影響を与える可能性を指摘。

 詳細な因果関係は不明だが、E.O.S.進行を急激化させる報告あり。』


「……つまり、破裂は個体の終わりで済まない可能性があるということか」

「飛散による“二次暴走”が起こる……?」


 会議室は一瞬で沈黙した。椅子の軋む音さえ、爆発音のように響く。


「ならば……この国の選択肢はひとつだろう」


 最も年長の官僚が、資料を閉じて静かに言った。


「“ヘブンズゲート”に集約しろ。

 E.O.S.患者を一カ所に隔離し、管理しろ。

 全国の危険因子を一点にまとめ、制御下に置く。

 そのために必要な法整備も、人員移動も、すべてここで決める。」


「……本気で言っているのか? あそこは外来だぞ。収容施設じゃない」

「破裂が感染源になるなら、全国分散は危険だ。

 “あの科”なら処置できる。緑川が育てた後進もいる。

 選択肢は、これしかない。」


 誰も賛成とは言わなかった。

 しかし──誰も反対もしなかった。


 こうして、ひとつの国策が静かに始まった。

 その計画の名はまだ誰にも知られていない。

 ヘブンズゲート科のスタッフたちでさえ──。


 * * *


 薄暗い部屋。モニターには処置室の映像データがずらりと並ぶ。

膨張度、粘度指数、排出量、経過時間、ジェル反応速度──数字が淡々と流れていく。


「ヘブンズゲート……実に優秀だ」


 フードを深く被った男が椅子に座り、足を組む。

 モニターの端には、昨夜あいかとお美々が八名を処置し、なお倒れず立ち続けた映像の断片。


「増幅剤(P-034)は想定以上だな。

 粘度反応、膨張加速、神経波形……すべて臨界域へ誘導できている。」


 隣で端末を操作していた別の影が言う。


「緑川唯……彼女の論文が基礎として役立ちました。“圧曲線の谷”を突く設計、あれは使える。」


「ふふ……本人は知らぬだろうが、我々にとって彼女は最高の教師だよ。

 それに──彼女の後輩たちも素晴らしい。

 ヘブンズゲートは実験場として申し分ない。」


 男は指先で机を軽く叩く。


「次の段階に移行する。

 “破裂前”の最終データ……臨界寸前の生体情報が欲しい。

 増幅剤の量をわずかに調整し、もう一段階上げる。

 “彼女ら”なら生還させるだろう。だから、安心して追い込める。」


「了解しました。“供給ルート”に指示を流します。」


 男は薄く笑った。

 その笑いは冷たく、目的以外何も見ていない。


「ヘブンズゲート。

 君たちの献身は、我々の計画を完成させるためにある。」


 * * *


 病院役員フロア。法律事務所のように静かで重厚な空気が流れる一室で、会議が行われていた。


「緑川唯の海外派遣……予定より長引くようだな」

「代わりをどうする? 他科から応援を回したところで、あの技量に追いつく者はいない。」

「だからこそ必要なのだ。“第二・第三の緑川唯”。

 ヘブンズゲート科は、特別な設備でも特殊な環境でもない。

 あの技術を継承できる人材を──増やせ。」


 役員の一人が資料をめくり、あいかとお美々の処置ログを示す。


「膨張度3.8域の患者を同時に四名処置した夜……この数値。

 粘度指数の急上昇に即応し、排圧成功率は100%。

 偶然ではない。二人とも既に“緑川クラス”に近い。」


「しかしまだ不安定だ。経験値は桁違い。

 ……早期教育が必要だ。

 失敗を避けるのではなく、成功を積み上げるために、だ。」


 別の役員が低く言う。


「この病院は、変異型患者が集まりすぎている。

 国も動いている。

 ヘブンズゲートは近いうちに“中心”になる。

 その時に備え、緑川の後継者を育てねばならない。」


 彼らにとって、それは医療のためではなかった。

 立場と評価と資金と、病院の“未来”のため。


「二人にはまだ知らせるな。現場のストレスを増やす必要はない。

 ただし、データは取り続けろ。

 技術も心も、緑川の水準に達するまで。」


 そんな会話が進むなか、

 あいかとお美々は処置室で夜勤の準備をしている。

 その頭上で、自分たちの知らない未来が静かに決められていた。


 * * *


 エピローグ


 夜、処置室の窓から見える東京の街は、どこかざわついて見えた。

 街灯の明るさがいつもより冷たく、風の音さえ落ち着かない。


 お美々が片付けをしながら言う。


「先輩……なんか最近、空気が変ですよね。

 患者さんの膨張度も、匂いも、粘度も……何かおかしい。」


「うん……分かる。」


 言葉にすると、胸の奥がざわつく。

 嫌な予感は、医療者の本能みたいにじわりと広がる。


 でも──まだ知らない。


 国が動き始めていることも。

 謎の組織が視線を向けていることも。

 病院の幹部が、自分たちの未来を勝手に形作ろうとしていることも。


 ただ、ひとつだけ分かっていた。


 “この夜を境に、世界が大きく変わる”。


 それは誰も止められない流れで、

 もうすでに動き始めていた。


 こうして、第1章は静かに幕を閉じる。

 嵐はまだ、誰にも見えていない。



第39サンキューをもって、第1章はここでいったん幕を閉じます。

この章では、日常外来の中で“何かがおかしい”と最初に揺らぎ始める瞬間を描きました。

排液の粘度、匂い、膨張度。

現場で働く者だけが先に気づく、小さな違和感たち。

その積み重ねが、静かな波紋のように広がっていきます。


次章、第2章は 12月1日より開始 します。

舞台はさらに広がり、都市そのものが揺れ始めます。

国の思惑と医療現場の温度差、

封じ込める側と救う側の決定的な価値観の衝突。

そして──

ある場所に“特別な病棟”の準備が進められていることを、

まだ誰も知りません。


第1章を読んでくださった方へ、心からの感謝を。

続く物語の深い闇へ、一緒に踏み込んでください。

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