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第38話 「国境の向こうで盗まれたもの」

フィリピンの朝は、湿気まで賑やかだ。

 診療所の屋根を打つスコールの音と、外の屋台の呼び声と、鶏の鳴き声と、

まだ眠そうなナースたちのあくびが全部ごちゃ混ぜになっている。


「ゆぃさん、コーヒー……じゃなくて、今日は砂糖少なめにしました」

 通訳兼ローカルコーディネーターのアリーが紙コップを差し出す。


「ありがと。昨日のポポローションで甘い匂いにやられたからね。しばらく“甘い”は見たくないわ」

 そう言いつつ、一口飲んで「にがっ」と顔をしかめる。


「砂糖少なめじゃなくて、“優しさ少なめ”にしたでしょ、これ」

「医療者はビターの方がかっこいいって聞きました」

「誰情報よ、それ。あとで排液のマル秘方法を伝授してあげるからね」

「こわい冗談やめてください!」


 いつもの、フィリピンの朝の風景。

 だけど、机の上には、いつもはないものが増えていた。

 タブレット端末二台。

 一つには、日本から届いた症例データ。

 もう一つには、自分で書きかけた論文ファイル。

《変異型E.O.S.における膨張率波形と排液粘度の相関性──ジェル処置プロトコルB-9改訂案》

 タイトルだけは立派だが、内容は現場ナースのヒーヒー言いながらのメモの積み重ねだ。

「ゆぃさん、また難しい顔してますね」

「してる? これでも真剣に“優しく抜く方法”を考えてる顔よ」

「優しく……?」

「そう。どれだけ膨張率が暴れても、患者さんの怖さを最小限にしながら排液させる方法。

 ここを詰めないと、B-9プロトコルは“ただのギリギリ医療”のままだから」

 画面には、日本とフィリピンの症例データが並んでいた。

 膨張率の推移グラフ。

 排液量。

 粘度の評価。

 処置時間と合併症の有無。

「ほら、ここ見て。フィリピンの症例は、気温と湿度のせいか、膨張率が一気に上がるんじゃなくて、

 じわじわ長く高値を維持する傾向があるでしょ」

「えーと……この“山”が長いってことですね?」

「そう。だからこっちでは、“急いで抜く”より、“長く安全に流し続ける”排液設計が必要になる」

 そう説明しながら、自分の指が少し震い気味なことに気づいた。

 昨日、日本から届いた一通のメール。

 あいかちゃんから。

《Stage2初期で高粘度・濃黄色排液。膨張率4.5超。逆流傾向あり》

(あっちは“山が高すぎる”ってわけね……)

 同じE.O.S.なのに、国が違えば顔も違う。

 その違いをちゃんと数字に残しておかないと、あとで現場がもっと泣く。

「ゆぃさん」

「なに?」

「さっきから顔は真面目なのに、コーヒー三回も同じところに戻して飲んでます」

「それは……現場あるあるの“考え事飲み”よ」

「論文が仕上がったら、世界中のあちこちで“抜きやすく”なるんですかね」

「なるといいね。少なくとも、“助けられる命”は増える」

 そう言って、自分に言い聞かせるように画面を見つめる。

 B-9プロトコルは“守るための技術”だ。

 膨張を安全に下げるための工夫。

 排液をスムーズにするための視点。

 ──そのはずだった。

* * *

 数千キロ離れた、どこかの地下フロア。

 窓のない室内には、冷却装置の低い唸りと、

 試験管を揺らすオービタルシェーカーのリズムだけが響いていた。

 壁一面のスクリーンには、数式と波形グラフ、そして一つの論文タイトルが映し出されている。

《変異型E.O.S.における膨張率波形と排液粘度の相関性──ジェル処置プロトコルB-9改訂案》

「いい論文だな。現場に根ざしている」

 白い研究衣をまとった男が、そのタイトルを指先でなぞるように見つめる。

 スクリーンの隅には、論文筆者の名前が小さく表示されている。

 ──緑川 唯。

「“優しく抜くための改訂案”か。発想が、あまりにも医療者だ」

 男は静かに笑う。

 横のテーブルには、無色透明の液体が入ったバイアルと、

 淡い青色の液体が入った別のバイアルが並んでいた。

「だが、膨張率を制御できるなら──増幅もできる」

 男はタブレットを操作し、別のファイルを呼び出す。

《P-034試験記録/過負荷性生殖系疾患用感度増幅剤》

 かつて研究段階で廃棄されたはずの試験データ。

 そこに、緑川の論文で提案された“安全域の波形”が上書きされていく。

「安全域ギリギリまで膨張率を保持し続ける……か。

 なら、破裂寸前まで“引き延ばす”ことも、理屈の上では可能だ」

 男の隣で、無表情の助手がメモを取る。

「P-034の旧仕様では、急性破裂例が多すぎた。市場には出せない粗悪品だ。

 だが、この新しい波形データと粘度評価を組み合わせれば──」

 青い液体と透明な液体が、慎重に混合される。

 攪拌機の音が、低く変調した。

「“緩やかに、しかし確実に膨張率を底上げする”増幅剤に作り替えられる。

 破裂させる必要はない。臨界手前を長く維持できれば、それだけで医療システムは崩壊する」

 スクリーンの別窓には、東京の地図。

 複数の病院に印がついている。

「我々が欲しいのは、“完治しない患者”と“永続する恐怖”だ。

 破裂は、ただの終点に過ぎない」

* * *

 同じフロアの別室。

 薄暗い監視室では、複数のモニターに世界各地の医療機関のデータが映し出されていた。

「東京、試験ロット投与完了。対象は変異型E.O.S.疑いの市中感染者群。

 都内の一病院が、ヘブンズゲート科という特殊部署を持っている」

 報告するのは、黒いフードの男。

 先ほどと同じ声。だが姿は、監視カメラの死角に紛れて見えない。

 通信端末越しに、研究衣の男の声が返る。

「処置状況は?」

「成功だ。今の時点で八名処置完了、後三名が向かっている。予定通り十名以上。

 変異型の膨張挙動──理想的だ。粘性は予測値の一・三倍。

 加圧後の逆流反応も確認。排液路の閉塞率、異常な高さだ」

 研究衣の男が満足げに目を細める。

「膨張率のピーク値は?」

「4.8……一部、5.0域に触れた波形もある。

 だが、緑川のプロトコルに沿っているのか、ぎりぎりで破裂は回避された。

 現場は、死の手前で踏みとどまっている」

「それでいい。

 我々が欲しいのは、“破裂例”ではなく、“太刀打ちできない数の重症例”だ。

 救命ラインが悲鳴を上げ始めたら、次のフェーズに移る」

 フードの男は、ガラス越しに東京の処置室の映像を見つめる。

 濃黄色の排液、汗まみれで腕を震わせるナースたち。

 モニターに映る、乱高型の膨張率波形。

「緑川 唯。

 君の論文は、とても“役に立っている”よ」

 誰に聞かせるでもなく、男はそう呟く。

 監視室の照明が一瞬だけ明滅し、静寂が戻った。

* * *

 同じ頃、フィリピンの診療所。

 ゆぃゆぃ先輩は、まだ机に向かっていた。

「……あいかちゃんのデータも入れておこう。

 膨張率の異常上昇と粘度の変化、日本側で何か起きてるのかな」

 そう呟きながら、キーボードを叩く。

「ゆぃさん、もう寝ないと倒れますよ」

「大丈夫大丈夫。倒れたら、そのままあなたにヌキ屋交代してもらうから」

「だから、その冗談こわいんですって!」

 笑い声が、診療所の夜に溶けていく。

 ゆぃゆぃ先輩は、自分の書いている論文が、

 遠く離れたどこかで、まったく別の意図に利用されつつあることをまだ知らない。


 ◇

 

 ――処置室の片隅、夜勤明け。

私とお美々は、紙コップのコーヒーを両手で包むように持っていた。

疲労で手が震えているのに、声だけはまだ明るかった。


「ねぇあいか先輩、さっきの症例……ちょっと匂い、違いましたよね?」

お美々がマスクを外しながら眉を寄せる。


「うん。甘いっていうか、ツンとくる感じ。あれ、ケトン臭ね。代謝が極限まで乱れた時に出る匂い。

体がもう限界よって叫んでるサインなの」


「えっ、匂いで分かるんですか?」

お美々の目が丸くなる。


「分かる。ジェルの匂いとも汗とも違う。あれが混じると、どんなにモニターが静かでも油断できない。

数字より先に来る“警告”みたいなもの」


「へぇ……なんか、現場の勘って感じでカッコいい……」

お美々が少し笑うと、横で私も苦笑した。


「勘じゃないよ。命のギリギリって、意外と音じゃなく匂いで分かるの。

それに……今日のは粘度もおかしかった。手袋越しでも分かるほど重たかった」


「確かに……排液というより、ほとんどゼリーでしたよね。ぐっと引っかかる感じ」

お美々は手首をさすりながら続ける。

「いつもの倍の重さでした。あんなの初めてです」


「粘度が高くなるってことは、血漿が濃縮されてる証拠。細胞が壊れて中身が流れ込んでくると、急に重くなる。

つまり、膨張度の加速カーブが跳ね上がる。こっちのミスなんて待ってくれない。

ほんの数秒遅れただけで破裂ラインに入る」


「……怖いですね」

お美々の声が少し低くなった。


「怖いよ。でもね」

私はコーヒーを一口飲んだ。

「数字じゃ救えない患者がいる。

機械より、マニュアルより、最後は“手首の感覚”と“匂いの変化”。

医療って、科学と勘の境目で踏ん張る仕事だと思う」


そのとき、タブレットの通知音が鳴る。

ゆぃさんからの短いメッセージだった。


《そっちはどう?甘い匂いがしたら逃げろ~笑》


「……逃げたいのはこっちだよ」

思わず笑って、でも次の瞬間には真顔に戻った。


「もし、あの粘度が常態化したら……日本だけじゃ済まないかもね」


「え?」

お美々の目が揺れる。


「危機って、最初は匂いと重さで来るのよ」

窓の外はもう朝だった。


コーヒーの湯気だけが、妙に静かに立ちのぼっていた。



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