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第37話 「東京非常事態」

西暦2200年7月12日、東京。

 昼前の空は重く濁り、湿気を含んだ空気が肺の奥にまとわりついてくるようだった。

 気象庁の予報は「終日高温多湿」。しかし、その日のニュースは天気どころではなかった。


 《変異型E.O.S.感染者、都内で急増 救急搬送要請数が過去最多》


 外来フロアのざわつきが、普段の救急の喧騒とは明らかに違っていた。

 呼び出しベルの電子音が、青白い照明の壁に鋭く反射して跳ね返る。

 夜勤入り前、私たちは医局の狭いブリーフィング室に集められていた。


「都内全域から同時搬送依頼が来ている。最低十一名。到着はほぼ同刻になる可能性が高い」

 医長の言葉に、室内の空気が一瞬固まる。


「ヘブンズゲート科は三チーム体制。あいか君は四名、お美々は三名。他チームで残りを分担する。

 時間との勝負だ」


 お美々が小さく息を飲む音が聞こえた。

 私は両手を握り、手袋を確かめ、指の関節をひとつずつ鳴らした。


(怖くていい。でも立ち止まらない)


 緊急無線が鳴り響いた。


《成人男性十一名、全員変異型疑い。到着まで二分》


 処置室のアラームが一斉に点滅し、廊下の奥から救急担架の金属音が連続して近づいてくる。

 その打撃のような音だけで、背筋が冷たくなる。


「いいか、みんな落ち着いて。今日ばかりは“綺麗に終える”なんて考えるな。生かす。それだけだ」

 医長が一喝する。


「はい!」

 声は震えたが、足は止まらなかった。


 そして、地獄の扉が開いた。


* * *


 一台目が処置台へ滑り込む。

 患者は二十代半ば。

 顔色は青白さを通り越し灰色。

 下腹部は脈打つように膨張し、皮膚表面には微細な亀裂が走っていた。

 触れなくても熱が伝わるほど高温。

 モニターは、膨張率を異常に跳ね上げていた。


 3.6……3.8……4.0域。


(おかしい、Stage2初期ならここまで上がらない)


「今抜きますからね~、がんばってください!すぐ楽になりますよ!」


 患者へ声をかけ、最大濃度ジェルを滑り込ませる。

 手袋越しの感触が、いつもと違う。

 柔らかな粘りではなく、重い、指にまとわりつくような反発力。

 器具が押し戻される。


 ゲージが跳ね上がる。

 4.1……4.3……4.5


「膨張率4.5!? 上がってる!?」


「回せ!止まるな、通せ!」

 医長の背後からの声が飛ぶ。


 器具をミリ単位で回転させ、圧の峠を崩していく。

 内部から金属音のような震えが手首に響く。

 喉が渇くような感覚。手が痺れて握力が落ちる。


 そして──


 ドゥルッと濃黄色の液体がタンクに流れ込んだ。

 まるで液体ではなく、溶けた飴のような粘度。

 タンクの底に落ちず、表面を揺れながら張り付く。

 強烈な甘い匂いが、マスク越しに鼻腔へ突き刺さった。


(南国フルーツ……いや、もっと鉄の匂いが混ざってる)


「1.8まで落ちた、安定!搬送!」


 二台目が滑り込む。


* * *


 二人目、三十代後半。

 皮膚は赤黒く、血管が浮き上がり、汗が滝のように滴る。

 膨張率表示は最初から狂っていた。


 3.9……4.2……4.4域。


「今抜きますからね~、がんばってください!すぐ楽になりますよ!」


 挿入した瞬間、内部が石のように硬く閉じた。

 ジェルだけでは流れない。


「生食50mL、流路開通!」


 補助が容器を渡す。

 私は素早く接続して注入する。


【生食:生理食塩水。0.9%の塩化ナトリウムを精製水に溶かした液体。

 体液とほぼ同じ浸透圧のため、粘膜や組織を刺激せず、

 詰まりや高粘度を流して通路を開くために使用する。】


 注入直後、内部圧が爆発するように跳ねた。


「わっ──!」


 濃黄色、糸を引く粘り。

 器具全体が揺れるほどの逆噴射。

 視界が跳ね、ゴーグルの表面に重い滴がぶつかった。


「集中しろ! ここで止めたら破裂だ!」


 医長の声で意識を引き戻し、スナップを刻み続ける。

 手首が軋む。

 呼吸が浅くなる。


「……出ま……す……」

 患者が苦しい声で絞り出す。


「はい、出しましょうね。もう少しですから……」


 タンクが濁り、振動とともに数値が下がり始める。

 2.8……2.0……1.2……安定。


* * *


 三人目、四人目。

 腕は震え、指の感覚が薄れ、制服はジェルと排液と汗で重く沈んでいく。

 床は甘い匂いと金属臭で満ち、空気が重く粘りつく。


「もう一息……あいか先輩、いける……!」

 お美々の声。


(ここで折れたら死ぬ)


「出しましょうね……吸って、吐いて……大丈夫ですから……!」


 最後のゲージが1.0まで下がった瞬間、体の力が抜け、壁にもたれた。


 そのとき、無線。


《追加搬送三名、全員変異型。内二名、膨張率4.8超過!》


(4.8……?ありえない。Stage2で……?)


 膝が震えた。

 でも止まれない。


* * *


 全てが終わったのは深夜三時。

 計八名の命を繋いだ。


 処置室は甘い匂いと薬品と金属の混ざった空気で満ち、

 床には黄色い滴が散り、照明を鈍く反射していた。


「……よくやった。二人とも」

 医長の声は震えていた。


 お美々はへたり込み、手袋を握りしめていた。

 私は壁に背中を預け、長く息を吐く。


(今日の排液の粘度、色、匂い──全部が異常だった。

 自然の変異じゃない。誰かが、意図的に……)


 冷たい感覚が背中を走った。


(始まった)


 静かに、深く、見えない手で。


 ◇


 非常灯だけが照らす、処置区画を見下ろすガラス窓。

 黒いフードの男は、静かに腕を組んで現場を眺めていた。

 床に飛び散る濃黄色の滴、ジェルと混ざり合う粘度。

 壁面に反射する膨張率の数値が、赤い警告灯の中で明滅を繰り返す。


 4.5……4.8……5.0域に触れる波形すら、一瞬だけ見えた。

 男はほとんど瞬きもせず、唇の端だけをわずかに上げた。


「成功だ。今の時点で八名処置完了、後三名が向かっている。予定通り十名以上。

 変異型の膨張挙動──理想的だ。粘性は予測値の一・三倍。

 加圧後の逆流反応も確認。排液路の閉塞率、異常な高さだ」


 男は、古いアナログ式の携帯端末を取り出し、静かに番号を押す。

 数秒の沈黙のあと、抑えた声で報告を続ける。


「排液色は深黄。糸状伸展性、二十一センチ以上。

 匂いは甘臭と金属臭の混合。膨張度は限界突破ギリギリまで保持可能なことも確認。

 現場は対応能力を超えかけている。いい兆候だ」


 相手の声は聞こえない。

 男は小さく笑った。喉の奥で、短く低く。


「さあ、崩れろ。開始はここからだ」


 端末を切り、足音も立てずに闇の廊下へ姿を消した。

 閉まる自動扉の音だけが、病院の深夜に乾いた余韻を残した。

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