第36話 「遠くの椅子へ」
午後の外来が終わり、処置室の照明が落とされた。
清拭のアルコールと乾いたゴム手袋の匂いが、まだ空気に残っている。
白衣と手袋を外した指先は、さっきまでの緊張が残っているように、じんと痺れていた。
春日さんの排液処置から三時間が経つ。
けれど、さっき全身に浴びた濃い黄色の感触は、まだ皮膚の奥に残っているように感じていた。
思い返すだけで、胸の内側がわずかにざわつく。
「……あいか先輩」
お美々が声をひそめる。
「私、今日のケース、誰にも言いたくないような、
でも誰かに相談しないといけないような……そんな感じで」
「わかる。たぶん、“変だった”って声に出していい気がする」
私はゆっくりと答えた。
「でも、まず整理しよう。感情じゃなくて、事実を」
処置室奥のデスクへ移動し、院内端末にログインする。
排液波形の履歴、膨張率の時間変化、体表温の推移、皮膚色変化の写真。
すべてが並ぶ画面を見つめながら、背中を正す。
「お美々、排液量、最終的に何mL?」
「425mLでした。ステージ2初期で、こんなの……」
「普通じゃない、よね」
黙り込む処置室。
電子音すら止まり、世界が静かに沈む。
(ここまで膨張しても破裂に向かわず、むしろ粘度に偏るなんて……
医学的には説明がつかない)
私は深呼吸をして、端末を切り替える。
画面に、ひとつだけ開きっぱなしのフォルダーがあった。
《ゆぃ先輩/海外派遣連絡:フィリピン》
ゆぃゆぃ先輩。
今、国境の向こうで、同じE.O.S.と向き合っている人。
(……聞きたい。というより、確かめたい)
「ちょっと、メール送る」
そう告げて、私はキーボードに指を置いた。
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件名:【現場共有】Stage2初期症例で高粘度排液の異常波形
ゆぃゆぃ先輩へ
(現地、落ち着いてますか?)
ヘブンズゲート科、あいかです。
今日の症例、共有します。
医学データとして、現時点で把握している事実だけ送ります。
・患者:春日 悠斗
・病期:Stage2(初期)
・事前膨張率:2.0〜2.2域
・来院時膨張率:2.5
・排液処置開始後:一時低下2.3 → 再上昇2.7
・排液路途中で停滞、おそらく高粘度による流路抵抗増大
・生食50mL流路洗浄後、逆噴射排液(高粘度・濃黄色)
・最終排液量:425mL(通常比150〜160%)
・排液後膨張率:0.9安定域
所見:
排液路粘度上昇により排液進行が逆転、
膨張率が再上昇する不整波形を確認。
波形は乱高型 → 直後に急降下型へ移行。
粘度は視覚的に高く、糸状伸展性あり。
※参考:最近、同様の濃色排液が増加傾向。
※Stage2初期での粘度上昇は、従来知識とは整合しない印象。
現場での危険因子:
「膨張臨界まで気付かない」可能性あり。
先輩、現地では、
この手の粘度変化や排液波形の乱れ、ありますか?
―――――――――――――――――――
打ち終え、送信ボタンを押す。
画面に指の跡が残るほど、強く押してしまっていた。
静まり返った処置室で、微かな風の音さえ響いた気がした。
返事までの、わずかな時間が永遠のように長く感じられる。
「……返ってこないですね」
お美々が呟く。
「時差あるし、忙しいだろうしね」
そう言ったものの、胸には小さな石が落ちたような重さ。
ふいに、端末の通知音が鳴った。
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返信:ゆぃ
件名:Re: Stage2初期症例で高粘度排液の異常波形
あいかちゃん
そっち大変そうね。お疲れさま。
こっちはフィリピンの診療所、
今のところStage2初期で粘度上昇は見てないよ。
排液は全部標準範囲の乳白〜透明。
波形も安定してて、逆流も停滞もなし。
425mLって……
「全身排液まみれになったの?笑」
動画撮ってくれたらこっちのスタッフ大爆笑よ?
もし不安なら、少し休んだほうがいいんじゃない?
疲れとストレスで“重く感じる”ときあるし。
こっちはのんびり。
ゆぃ。
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「……ゆぃゆぃ先輩らしいですね」
お美々が苦笑する。
「うん。でも――違うんだよね」
私はもう一度メール画面を開き、短く打ち込む。
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ゆぃ先輩。
今回は“感じた”じゃない。
“見た”の。
排液路にまとわりついて流れを止めかけた、
重たい黄色い排液を。
波形も、数字も、匂いも、温度も、全部違った。
もしそっちで変化が出たら、すぐ知らせてください。
お願いします。
あいか
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送信。
返事は来ない。
でも、求めているのは言葉じゃない。
事実 だ。
「お美々、検体、ラボに回ったよね」
「はい。追加で粘度と成分の詳細も依頼しました」
「結果、急ぎで引っ張る。
データが揃ったら、院内カンファレンスかける」
処置室の照明を落とす。
青白い緊急ランプだけが壁を照らし、
静かな影が長く伸びた。
(これは、たまたまじゃない)
背筋を走る冷たい感覚。
言葉にできない違和感が、皮膚の下で脈打つ。
その夜、院内の廊下には、
いつもより長く残る消毒液の匂いが漂っていた。
誰も気付かないうちに、
何かが静かに始まりつつある。
◇
【ラボの夜】
検体搬送ラインの自動扉が開くと、ラボ特有の無機質な冷気が頬を撫でた。
ステンレスの機器と、整然と並んだ遠心分離器。
処置室とはまったく違う、静かな戦場。
「ヘブンズゲート科から検体です」
お美々が専用ケースを掲げると、受付カウンターの向こうで白衣姿のスタッフが顔を上げた。
研修3年目の臨床検査技師、三木が近づいてくる。
「Stage2初期で、検体分析?珍しいですね」
「珍しいどころじゃないよ。見ればわかると思う」
私はケースを静かに差し出した。
三木が蓋を開けた瞬間、目を見開いた。
「……何これ。粘度、ゼリー状じゃないですか。濃度の層ができてる……?」
透明な体液と違い、検体は深い黄色を帯び、ゆっくりと重たく揺れた。
ピペットで吸い上げようとすると、細く伸びて切れない。
ガラス面に落ちる際には、糸を引くように付着する。
「Stage2初期で、この粘度……?
こんなの、検査室では……いや、文献でも見たことないです」
その言葉に、お美々が肩をすくめる。
「ですよね。処置室も大混乱でした」
私が補足しようとしたとき、別の男性スタッフが近づいてきた。
研修明けの若い技師、石堂。
ケースの中身を覗いた途端、口角を上げながら言った。
「うわ、これ浴びたら最悪ですね。
二人とも、全身ベタベタになったって噂、ほんとです?」
その声音に、微かな下卑た笑いが混ざった。
処置室の空気と真逆の、軽い、無責任な温度。
胸の奥で、何かが強く弾けた。
私は一歩前に出た。
「石堂さん」
声は自分でも驚くほど低かった。
「これは“浴びた”“汚れた”って笑うものじゃありません。
破裂一歩手前の膨張状態を制御して、患者さんの命を繋いだ現場の痕跡です」
石堂は一瞬たじろいだが、苦笑のまま肩をすくめる。
「いや、別に笑って馬鹿にしたわけじゃ……」
「じゃあ、もう一度言います」
言葉を切り、視線を真正面からぶつける。
「私も、お美々も、患者さんも、そのとき本気で死と向き合っていました。
あの濃度は、処置の失敗なら“破裂”に直結していた。
命の重さを理解できないのなら、検査室にいる資格はない」
空気が固まった。
石堂の顔から血の気が引き、ゆっくり頭を下げた。
「……すみませんでした」
三木が、私たちへ深く頭を下げる。
「僕たちが軽く扱ってはいけないものだと、理解しました。
結果、必ず急ぎます」
検体は静かに遠心分離器へと運ばれていく。
黄色い液体は、光を鈍く反射させながら、まるで何かを訴えるように揺れ続けていた。
「先輩……ありがと、言ってくれて」
隣で、お美々が小さく息を吸った。
「ううん。正しいこと言っただけ」
それでも、胸の中にはひりつく感触が残っていた。
あの黄色い濃度は、ただの異常ではない。
誰かが軽く触れられるような、そんなものじゃなかった。
(この粘度の意味を、必ず突き止める)
ラボの蛍光灯が、検体ケースの銀色を冷たく照らした。




