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第3話 「ゆぃゆぃの教え」

私は時折、夜勤の合間に思い出すことがある。

 まだ新人だった頃。何もかもが怖くて、ただ言われた通り手を動かすしかなかったあの頃のことを。


 配属初日。

 消毒薬の匂いが染みついた処置室で、緑川唯――のちに“ゆぃゆぃ先輩”と呼ぶことになる人が、

私をまっすぐ見据えて言った。


 「ここは甘い世界じゃないわ。あいかちゃん、あなたが遅れれば患者が一人死ぬ。それを忘れないで」


 当時の私は頷くだけで精一杯だった。

 患者の股間の張りを見ても、ゲージの数値を見ても、どう動けばいいか判断が遅れる。

 そんな私の手を、ゆぃゆぃ先輩はぐっと掴んだ。


 「いい? あなたは抜くことだけ考えなさい」

 「……抜くこと、だけ……?」

「そう。余計なことは全部捨てて、患者をスッキリさせる。それがここで生き残る唯一の方法」


 初めての処置で私は手が震え、器具を滑らせそうになった。

 「手首で、そうそう。押すんじゃなくて引き抜く……そう! ほら、もうすぐ出る!」

 先輩の声は鬼軍曹のようでいて、不思議と背中を押す温かさもあった。


 結果はギリギリ間に合い、患者は意識を取り戻した。

 その瞬間、ゆぃゆぃ先輩は初めて私に笑顔を見せた。

 「よくやった。ほら、患者さん、ほっとした顔してる」


 そこからの訓練は、まるで自分の弱さを削り落とす儀式だった。

 内圧ゲージの数値変化を0.1単位で読み取り、血流の戻り方で次の手技を決める。

 “押す手”と“引く手”の役割を明確に分け、指腹の力点を顕微鏡の調整みたいに変える。


 器具の先端角度、皮膚表面の粘膜状態、

ジェルの粘度調整――すべてが一つでも狂えば、排出流が乱れ、

体内圧が逆流して血管損傷につながる。


 だから私たちは、呼吸より正確に手を動かすしかなかった。

 患者が痙攣すれば拘束具のテンションを即座に調整し、

血管浮出が強ければ温度と刺激量で破綻を防ぐ。


 処置台のわずかな振動で、次の危険を察知する。

 命は、一本の管の先に繋がっている。ほんの数秒の遅れが、

取り返しのつかない“崩壊”に変わる世界。


 少しずつ、私は数値から未来を読むようになっていった。

 ゲージの針が揺れる角度、排液の速度、喉の鳴り――そこに“先の状態”が見えるようになった。


 とはいえ、心は折れそうな日ばかりだった。

 制服の袖はジェルで固まり、指先は痺れ、シフト終わりは腕が上がらなかった。

 けれど、あの人の横顔がいつも前にあった。


 ある夜、三件連続搬送が来た。

 二件目を終えた時点で私は膝が笑い、三件目の患者を前に立ち尽くしてしまった。

 そのとき、背中を押す手があった。


 「抜きなさい。あなたの手で、この人をスッキリさせなさい」

 その声が、私の心臓を再び動かした。


 結果、三人とも助かった。

 処置後、ゆぃゆぃ先輩は静かに言った。

 「覚えておきなさい。私たちは奇跡を起こすんじゃない。

ただ、抜くべきものを抜くだけ。それを誰より早く、確実にやる」


 ――今の私があるのは、あの人がいたからだ。

 あの人の厳しさと、時折見せる優しい笑顔が、私をこの現場に立たせ続けている。


 お美々もまた、同じ言葉に救われた一人だ。

 処置後の休憩室で、ジェルまみれの袖をぎゅっと握りながら、涙をこらえて笑っていた。

 「いつか、あいか先輩みたいにできるようになりますから……!」

 その声は震えていたけど、あの日の私と同じ強さを持っていた。


 だからこそ、数年後に先輩が海外へ行くと聞いたとき、胸が締め付けられるほど寂しかった。

でも同時に、あの人の言葉がよみがえった。


 「いずれ、あいかちゃんがチームを率いる日が来る」


 ――ゆぃゆぃ先輩の教えは、今も私の手の中に生きている。

 私はあの人の代わりに、いま、誰かの背中を押している。

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