表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
39/100

第35話 「黄色い波が跳ねた日」

午前の外来が一息つきかけた頃だった。

 処置室のモニターは、さっきまでの患者たちの「膨張率」を記録したまま、

青白い線を静かに揺らしている。アルコール綿の匂いと、わずかにこもった消毒薬のにおい。

いつもの、ヘブンズゲート科の空気。


「次の患者さん、処置室にご案内しました」

 カルテを抱えたお美々が、小走りで戻ってきた。

春日かすが 悠斗ゆうとさん、25歳。ステージ2の初期。前回は経過観察だけだった方です」


「春日さんね。ありがと、お美々」

 私はカルテを開き、前回の記録に目を走らせる。


 ――自覚症状:下腹部の張り。

 ――膨張率:2.0~2.2域で推移。

 ――発作頻度:軽度。日常生活自立。


(今日は軽く排液処置して、“張り感”を落としてあげれば終わりかな)


 そう思いながら処置室のカーテンを開けると、ベッドの縁に座った春日さんが、

膝の上で両手を組んでいた。

 背は高いが、肩はこわばり、目は落ち着かず、視線だけが部屋のあちこちを泳いでいる。


「春日さん、こんにちは。担当の看護師、あいかです」

「……よろしくお願いします」


 声は思ったより小さく、掠れていた。

 胸郭の動きは浅く速いが、明らかな呼吸困難ではない。

ただ、下腹部――精排液起点部のあたりに、

見ているこちらまで息苦しくなるような緊張が張り付いている。


「今日は、前回と比べて、どんな感じですか?」

「その……前は、張ってても“そのうち落ち着くかな”って思えてたんですけど

……ここ数日は、ずっと中が重いというか、引っ張られてる感じが続いてて……」

 言葉を探しながら、春日さんは自分の下腹部をちらりと見下ろした。

「仕事中も、ふとした拍子にズキッてくるんで……さすがに怖くなって来ました」


「怖くなって来てくれて、よかったです」

 私は微笑みを添える。

「怖いのに我慢して放っておくほうが、E.O.S.にとってはいちばん危険ですから。

ちゃんと来てくれた時点で、春日さんはすごく“正解”してます」


 お美々が、そっとモニターの準備を始める。

「血圧146の92、脈拍106、SpO₂97%です、あいか先輩」

「ありがと」


 膨張率の測定ユニットを接続しながら、私は声のトーンを意識的に落とした。

 不安の強い患者ほど、こちらの速度と声色に敏感だ。


「これから、身体の“張り具合”――膨張率を数字で見ていきますね。

 難しい言葉は、こっち側だけで使いますから、春日さんは“苦しいかどうか”だけ教えてください」

「……はい」


 触診に移る。

 下腹部の表面温度はやや高く、筋膜の張りが指先に跳ね返ってくる。

 ステージ2初期としては、強め――だけど、数値だけ見ればギリギリ教科書の範囲内。


(でも、この張り方……最近、ちょっとずつ増えてきてる“嫌なパターン”だ)


 そう感じながらも、私はいつも通りの手順で導管を準備し、膨張率測定ユニットのゼロ点を合わせた。


「春日さん、少し違和感のある検査と処置をします。

 ちゃんと全部説明しながら進めますので、“わからない”“怖い”は、口に出していいですからね」

「……怖いですけど、お願いします」


 導管を慎重に挿入し、角度と深さを微調整する。

 機械が、最初の数値をはじき出した。


「膨張率、2.5域です」

 お美々の声が、すぐ後ろから聞こえる。

「前回より、0.3くらい高いですね」


「ふむ……」


 ステージ2の初期としては高め。それでも“ここまではコントロール可能”とされるラインだった。

 ただ、画面の揺れ方が、どこか嫌な予感を含んでいる。


「春日さん、今、身体の中の“膨らみ具合”を数字で見ています。

 2.5というのは、まだ私たちが安全に“抜けるように整えられる”範囲です」

「……本当に、大丈夫なんですか」

 春日さんの指先が、シーツを強く握った。


「本当に、です」

 私ははっきりと言い切る。

「ただ、少しでも“無理してこらえる”と、膨張が逆に跳ね返ってしまいます。

 ここからは、頑張って我慢するんじゃなくて、“上手に出す”ほうを一緒に目指しましょう」


 呼吸誘導に入る。


「吸って……吐いて……。

 もう一度、吸って……そのままキープ。

 はい、ゆっくり吐いて」


 横隔膜の動きに合わせて、モニターの波形が少し丸くなる。

 膨張率は2.5から2.3へ。


「膨張率、2.3まで下降してます、あいか先輩」

「いい感じ。ここから排液の“出口”を開いていくね」


 私は排液路の準備に移ろうとした――その時だった。


 最初の変化は、臭いだった。


 いつもの、やや金属臭を含んだ体内排液の匂いとは違う。

 重く、どこか粘り気を連想させるような、濃い黄色を思わせる臭いが空気に混ざる。


「……お美々、この匂い、わかる?」

「はい……ちょっと、いつもより“濃い”感じですね」


 透明なはずの排液路チューブの中に、ねっとりとした黄色がゆっくりと満ちていく。

 普通なら流れ落ちていくはずの液が、チューブの内壁にまとわりつき、

 螺旋を描きながら重たく進んでいく。


「膨張率、どう?」

「2.3から……あれ、2.4に戻り始めています」


 本来なら、排液が始まれば膨張率は落ち続ける。

 だが、画面上の数字は、下がりかけたところから、再びじわりと上昇し始めていた。


「春日さん、今、少しお腹の奥の感じ、変わってきてませんか?」

「……なんか、さっきより中が詰まってるというか……熱くて、重たい感じが強くなってます……」


 そのときだった。

 チューブの途中で、黄色い波がふっと止まった。


「……あいか先輩、流れが鈍ってます。

 チューブ内で、粘度の高い部分がひっかかってるかも」

「膨張率、2.6域。波形、荒れ始めています」


 お美々の声が、わずかに早口になる。


「大丈夫。ここからが踏ん張りどころだよ」


 私は春日さんの肩にそっと手を置いた。


「春日さん、今、身体の中から“出てこようとしているもの”が、少し重たくて粘っこい状態です。

 それを無理に抑え込むと、膨張度が中に跳ね返ってしまいます。

 ここからは、“こらえないほうが安全”って覚えておいてください」


「……こわいです」

「怖くていいんです。怖いってちゃんと言えるのは、とても大事なことですから。

 怖いって言いながらでいいので、一緒に“出していくほう”を選びましょう」


 膨張率は2.6から2.7へ。

 モニターの波形が、一段と大きく跳ね上がる。


「お美々、排液路の角度、5度だけ下げて。

 狭くなっているところに負担をかけないようにする」

「はい、あいか先輩」


「そのあと、生食50 mL準備。

 粘度を少しだけ散らして流れやすくするよ」

「了解です」


 チューブの角度が変わり、わずかに流路が広がる。

 生理食塩水を少量ずつ流し込み、重たく固まりかけた排液を押し流す準備を整える。


 その瞬間――


 詰まりかけていた黄色い塊が、一気に勢いを取り戻した。


「っ――!」


 チューブの途中から、逆噴射するように黄色い波が跳ね上がる。

 接続部から噴き出した高粘度の排液が、私たちの白衣とフェイスシールド、

 マスクに容赦なく降りかかった。


 体温より少し高い温度。

 重たく、糸を引くような粘り。

 濃い黄色が、スローモーションのように視界を染める。


「わっ……!」

「っ……!」


 思わず目を閉じそうになるのを、私は歯を食いしばってこらえる。

 ここで視線を逸らしたら、モニターからも春日さんからも、目を離してしまう。


「お美々、膨張率!」

「2.8から……2.3まで急降下! 波形、乱高型から一気に平坦化に向かってます!

 心拍128、血圧158の96、SpO₂95%維持!」


 ピークを越えた。

 膨張臨界の手前で、なんとか排液路が開いた証拠だった。


「春日さん、大丈夫です。

 今、いちばん“苦しい山”を越えました。

 あと少し、呼吸だけ一緒に整えましょう。吸って……吐いて……」


 黄色い排液はなおも流れ続け、トレーの中で重たく波打っている。

 量も粘度も、明らかに“想定内”を超えていた。


「排液量、通常の約1.5倍です……」

「全部、出しきるよ。ここで止めるほうが、よっぽど怖いからね」


 やがて流れが細くなり、チューブの中の黄色が薄れていく。

 膨張率は2.0、1.5、1.1……0.9。

 波形が、穏やかな揺れに変わった。


「……はぁ……はぁ……」

 春日さんの呼吸が、ようやく深くなる。

 さっきまで石のように固まっていた眉間の皺が、ゆっくりほどけていく。


「春日さん、お疲れさまでした。

 膨張率は完全に安全域まで下がっています。

 身体が、“とりあえず今は大丈夫”ってサインを出してくれてますよ」


「……途中、本当に“もうダメだ”って思いました。

 でも、ずっと数字と一緒に説明してくれて……

 あれだけ、看護師さんたちの体にかかっても、誰も逃げなかったから……

 “まだ大丈夫なんだ”って、なんとか信じられました」


 その言葉を聞いたとき、胸の奥がじん、と熱くなった。


「こちらこそ、怖いって言いながら、最後まで一緒にいてくださってありがとうございました」


 春日さんを送り出し、ドアが静かに閉まる。

 処置室に残ったのは、モニターの電子音と、

 私たちの白衣にこびりついた黄色い跡だった。


「……あいか先輩」

 お美々が、フェイスシールドを外しながらつぶやく。

「これ、私たち……外から見たら落ち着いてました?」


「うん。

 ちゃんと、“頼れるナース”に見えてたよ」


「よかった……。

 でも、正直、あんな色と粘度、初めてです。

 ステージ2の初期って、もっと“軽い”イメージでしたよね……」


「……そうだね」


 私はグローブ越しに、自分の腕についた排液を見つめる。

 タオルで拭っても、なかなか感触が消えない重さ。

 最近増え始めている“色の濃い排液”が、ここでもまた姿を見せた。


「検体、ラボに回そう。

 いつものパネルだけじゃなくて、粘度と成分の細かい分析も追加でお願いしておこう」

「了解です。検体ラベル、ステージ2・初期・異常粘度、と追記しておきますね」


 黄色い液の一部を検体容器に移す。

 その表面は、普通の体内排液にはない重たい揺れ方をしていた。


(たまたま、じゃない。

 最近、こういう“濃い排液”が、少しずつ増えている)


 胸の奥で、小さなざわめきが広がる。

 でも、今はまだ、それに名前をつけることはできない。


「着替えてから、午後の外来に備えようか」

「はい……。あいか先輩」

 お美々が、自分の白衣を見下ろして、苦笑いを浮かべた。

「ステージ2の初期って、こんなに“浴びる”こと、ありましたっけ」


「私が知ってる限りでは――今日が初めて、かな」


 言いながら、背筋にうっすらと冷たいものが走る。

 外から見れば、ただの“排液トラブル”の一日。

 けれど、その黄色い重さは、何かの始まりを静かに告げているように思えた。


 それが何なのかを知るのは、もう少し先の話だ。



(※この物語の排液描写は医療行為です。性的意図はありません)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ