第35話 「黄色い波が跳ねた日」
午前の外来が一息つきかけた頃だった。
処置室のモニターは、さっきまでの患者たちの「膨張率」を記録したまま、
青白い線を静かに揺らしている。アルコール綿の匂いと、わずかにこもった消毒薬のにおい。
いつもの、ヘブンズゲート科の空気。
「次の患者さん、処置室にご案内しました」
カルテを抱えたお美々が、小走りで戻ってきた。
「春日 悠斗さん、25歳。ステージ2の初期。前回は経過観察だけだった方です」
「春日さんね。ありがと、お美々」
私はカルテを開き、前回の記録に目を走らせる。
――自覚症状:下腹部の張り。
――膨張率:2.0~2.2域で推移。
――発作頻度:軽度。日常生活自立。
(今日は軽く排液処置して、“張り感”を落としてあげれば終わりかな)
そう思いながら処置室のカーテンを開けると、ベッドの縁に座った春日さんが、
膝の上で両手を組んでいた。
背は高いが、肩はこわばり、目は落ち着かず、視線だけが部屋のあちこちを泳いでいる。
「春日さん、こんにちは。担当の看護師、あいかです」
「……よろしくお願いします」
声は思ったより小さく、掠れていた。
胸郭の動きは浅く速いが、明らかな呼吸困難ではない。
ただ、下腹部――精排液起点部のあたりに、
見ているこちらまで息苦しくなるような緊張が張り付いている。
「今日は、前回と比べて、どんな感じですか?」
「その……前は、張ってても“そのうち落ち着くかな”って思えてたんですけど
……ここ数日は、ずっと中が重いというか、引っ張られてる感じが続いてて……」
言葉を探しながら、春日さんは自分の下腹部をちらりと見下ろした。
「仕事中も、ふとした拍子にズキッてくるんで……さすがに怖くなって来ました」
「怖くなって来てくれて、よかったです」
私は微笑みを添える。
「怖いのに我慢して放っておくほうが、E.O.S.にとってはいちばん危険ですから。
ちゃんと来てくれた時点で、春日さんはすごく“正解”してます」
お美々が、そっとモニターの準備を始める。
「血圧146の92、脈拍106、SpO₂97%です、あいか先輩」
「ありがと」
膨張率の測定ユニットを接続しながら、私は声のトーンを意識的に落とした。
不安の強い患者ほど、こちらの速度と声色に敏感だ。
「これから、身体の“張り具合”――膨張率を数字で見ていきますね。
難しい言葉は、こっち側だけで使いますから、春日さんは“苦しいかどうか”だけ教えてください」
「……はい」
触診に移る。
下腹部の表面温度はやや高く、筋膜の張りが指先に跳ね返ってくる。
ステージ2初期としては、強め――だけど、数値だけ見ればギリギリ教科書の範囲内。
(でも、この張り方……最近、ちょっとずつ増えてきてる“嫌なパターン”だ)
そう感じながらも、私はいつも通りの手順で導管を準備し、膨張率測定ユニットのゼロ点を合わせた。
「春日さん、少し違和感のある検査と処置をします。
ちゃんと全部説明しながら進めますので、“わからない”“怖い”は、口に出していいですからね」
「……怖いですけど、お願いします」
導管を慎重に挿入し、角度と深さを微調整する。
機械が、最初の数値をはじき出した。
「膨張率、2.5域です」
お美々の声が、すぐ後ろから聞こえる。
「前回より、0.3くらい高いですね」
「ふむ……」
ステージ2の初期としては高め。それでも“ここまではコントロール可能”とされるラインだった。
ただ、画面の揺れ方が、どこか嫌な予感を含んでいる。
「春日さん、今、身体の中の“膨らみ具合”を数字で見ています。
2.5というのは、まだ私たちが安全に“抜けるように整えられる”範囲です」
「……本当に、大丈夫なんですか」
春日さんの指先が、シーツを強く握った。
「本当に、です」
私ははっきりと言い切る。
「ただ、少しでも“無理してこらえる”と、膨張が逆に跳ね返ってしまいます。
ここからは、頑張って我慢するんじゃなくて、“上手に出す”ほうを一緒に目指しましょう」
呼吸誘導に入る。
「吸って……吐いて……。
もう一度、吸って……そのままキープ。
はい、ゆっくり吐いて」
横隔膜の動きに合わせて、モニターの波形が少し丸くなる。
膨張率は2.5から2.3へ。
「膨張率、2.3まで下降してます、あいか先輩」
「いい感じ。ここから排液の“出口”を開いていくね」
私は排液路の準備に移ろうとした――その時だった。
最初の変化は、臭いだった。
いつもの、やや金属臭を含んだ体内排液の匂いとは違う。
重く、どこか粘り気を連想させるような、濃い黄色を思わせる臭いが空気に混ざる。
「……お美々、この匂い、わかる?」
「はい……ちょっと、いつもより“濃い”感じですね」
透明なはずの排液路チューブの中に、ねっとりとした黄色がゆっくりと満ちていく。
普通なら流れ落ちていくはずの液が、チューブの内壁にまとわりつき、
螺旋を描きながら重たく進んでいく。
「膨張率、どう?」
「2.3から……あれ、2.4に戻り始めています」
本来なら、排液が始まれば膨張率は落ち続ける。
だが、画面上の数字は、下がりかけたところから、再びじわりと上昇し始めていた。
「春日さん、今、少しお腹の奥の感じ、変わってきてませんか?」
「……なんか、さっきより中が詰まってるというか……熱くて、重たい感じが強くなってます……」
そのときだった。
チューブの途中で、黄色い波がふっと止まった。
「……あいか先輩、流れが鈍ってます。
チューブ内で、粘度の高い部分がひっかかってるかも」
「膨張率、2.6域。波形、荒れ始めています」
お美々の声が、わずかに早口になる。
「大丈夫。ここからが踏ん張りどころだよ」
私は春日さんの肩にそっと手を置いた。
「春日さん、今、身体の中から“出てこようとしているもの”が、少し重たくて粘っこい状態です。
それを無理に抑え込むと、膨張度が中に跳ね返ってしまいます。
ここからは、“こらえないほうが安全”って覚えておいてください」
「……こわいです」
「怖くていいんです。怖いってちゃんと言えるのは、とても大事なことですから。
怖いって言いながらでいいので、一緒に“出していくほう”を選びましょう」
膨張率は2.6から2.7へ。
モニターの波形が、一段と大きく跳ね上がる。
「お美々、排液路の角度、5度だけ下げて。
狭くなっているところに負担をかけないようにする」
「はい、あいか先輩」
「そのあと、生食50 mL準備。
粘度を少しだけ散らして流れやすくするよ」
「了解です」
チューブの角度が変わり、わずかに流路が広がる。
生理食塩水を少量ずつ流し込み、重たく固まりかけた排液を押し流す準備を整える。
その瞬間――
詰まりかけていた黄色い塊が、一気に勢いを取り戻した。
「っ――!」
チューブの途中から、逆噴射するように黄色い波が跳ね上がる。
接続部から噴き出した高粘度の排液が、私たちの白衣とフェイスシールド、
マスクに容赦なく降りかかった。
体温より少し高い温度。
重たく、糸を引くような粘り。
濃い黄色が、スローモーションのように視界を染める。
「わっ……!」
「っ……!」
思わず目を閉じそうになるのを、私は歯を食いしばってこらえる。
ここで視線を逸らしたら、モニターからも春日さんからも、目を離してしまう。
「お美々、膨張率!」
「2.8から……2.3まで急降下! 波形、乱高型から一気に平坦化に向かってます!
心拍128、血圧158の96、SpO₂95%維持!」
ピークを越えた。
膨張臨界の手前で、なんとか排液路が開いた証拠だった。
「春日さん、大丈夫です。
今、いちばん“苦しい山”を越えました。
あと少し、呼吸だけ一緒に整えましょう。吸って……吐いて……」
黄色い排液はなおも流れ続け、トレーの中で重たく波打っている。
量も粘度も、明らかに“想定内”を超えていた。
「排液量、通常の約1.5倍です……」
「全部、出しきるよ。ここで止めるほうが、よっぽど怖いからね」
やがて流れが細くなり、チューブの中の黄色が薄れていく。
膨張率は2.0、1.5、1.1……0.9。
波形が、穏やかな揺れに変わった。
「……はぁ……はぁ……」
春日さんの呼吸が、ようやく深くなる。
さっきまで石のように固まっていた眉間の皺が、ゆっくりほどけていく。
「春日さん、お疲れさまでした。
膨張率は完全に安全域まで下がっています。
身体が、“とりあえず今は大丈夫”ってサインを出してくれてますよ」
「……途中、本当に“もうダメだ”って思いました。
でも、ずっと数字と一緒に説明してくれて……
あれだけ、看護師さんたちの体にかかっても、誰も逃げなかったから……
“まだ大丈夫なんだ”って、なんとか信じられました」
その言葉を聞いたとき、胸の奥がじん、と熱くなった。
「こちらこそ、怖いって言いながら、最後まで一緒にいてくださってありがとうございました」
春日さんを送り出し、ドアが静かに閉まる。
処置室に残ったのは、モニターの電子音と、
私たちの白衣にこびりついた黄色い跡だった。
「……あいか先輩」
お美々が、フェイスシールドを外しながらつぶやく。
「これ、私たち……外から見たら落ち着いてました?」
「うん。
ちゃんと、“頼れるナース”に見えてたよ」
「よかった……。
でも、正直、あんな色と粘度、初めてです。
ステージ2の初期って、もっと“軽い”イメージでしたよね……」
「……そうだね」
私はグローブ越しに、自分の腕についた排液を見つめる。
タオルで拭っても、なかなか感触が消えない重さ。
最近増え始めている“色の濃い排液”が、ここでもまた姿を見せた。
「検体、ラボに回そう。
いつものパネルだけじゃなくて、粘度と成分の細かい分析も追加でお願いしておこう」
「了解です。検体ラベル、ステージ2・初期・異常粘度、と追記しておきますね」
黄色い液の一部を検体容器に移す。
その表面は、普通の体内排液にはない重たい揺れ方をしていた。
(たまたま、じゃない。
最近、こういう“濃い排液”が、少しずつ増えている)
胸の奥で、小さなざわめきが広がる。
でも、今はまだ、それに名前をつけることはできない。
「着替えてから、午後の外来に備えようか」
「はい……。あいか先輩」
お美々が、自分の白衣を見下ろして、苦笑いを浮かべた。
「ステージ2の初期って、こんなに“浴びる”こと、ありましたっけ」
「私が知ってる限りでは――今日が初めて、かな」
言いながら、背筋にうっすらと冷たいものが走る。
外から見れば、ただの“排液トラブル”の一日。
けれど、その黄色い重さは、何かの始まりを静かに告げているように思えた。
それが何なのかを知るのは、もう少し先の話だ。
(※この物語の排液描写は医療行為です。性的意図はありません)




