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第34話 「ゆぃの椅子が残したもの」

朝のヘブンズゲート科は、いつもより少しだけ静かだった。

外来受付前のベンチには、いつものように問診票を抱えた患者さんたちが並んでいるのに、

ナースステーションの一角だけがぽっかりと空いている。


ゆぃゆぃ――ナースリーダー、緑川唯の席だ。


 そこには彼女の白い椅子と、癖のついたボールペン、少しだけインクが薄くなったスタンプ。

何度も彼女の「大丈夫よ~」という声を聞いてきたモニターの画面が、

今日は黙ったまま青色のログイン待ち画面を映している。


「先輩の席、ほんとに空いてると変な感じですね……」

 隣で電子カルテを立ち上げながら、お美々がぽつりとつぶやいた。

「ね。いつもだったら、もう朝イチの排液担当割り振りの声かかってる時間だもんね」


 その言葉が胸の奥で静かに響く。

 国境の向こうで、ゆぃゆぃ先輩は今まさに、その技術で人の命を守っている。

 今日、この外来を守るのは――私たちだ。


「お美々、外来リスト確認した?」

「はい、あいか先輩。再診の方、ちょっと多めです」

 モニターには一覧が並ぶ。

 その中の一人の名前が、自然と目に留まった。


 患者:及川おいかわ 達也たつや42歳


 前回ゆぃゆぃ先輩が担当した症例で、カルテには丁寧な手書きメモが残っている。


《次回、排圧のパターンと生活背景をもう一歩深掘り。

 “怖くない外来”のイメージ固定が最優先》


「……先輩って、ほんとに全部ちゃんと見てますよね」

「うん。預かってるんだよね、この人たちのこと」


 その時、診察室のドアが軽くノックされた。

 及川達也さんが入ってきた。


 視線は落ち着かず、握った問診票は指先の汗でよれている。

 背中が少し丸く、呼吸も浅い。

 心の奥に張り付いた“不安”が全身に滲んでいた。


「おはようございます、及川さん。今日はどんな具合ですか?」

 声をかけると、彼は一瞬ためらい、それから静かに口を開いた。


「前に担当してくれた……明るくて、元気な看護師さんは……今日は?」


 空気が、一度止まった。


「ナースリーダーの緑川のことですね」

 私はゆっくり言葉を選ぶ。

「今、遠い国で、同じように苦しんでいる人たちの排液処置をしています。

でも、今日の外来は私たちが預かります。及川さんのことも。」


 及川さんの表情に、小さな揺れが走る。

 その瞳は、迷子のようでもあり、必死に支えを探しているようでもあった。


「……あの人の声に、本当に助けられたんです。正直、今日ここへ来るのも怖かった。

でも……来てよかったのかもしれない。ちゃんと説明してもらえて……少しだけ、安心しました」


 その言葉は震えていたが、確かな強さがあった。


「処置室にご案内しますね」

「はい……お願いします」


 処置室へ向かう足取りはまだぎこちない。

 “また苦しい想いをするのではないか”という恐れが、肩に重く乗っているのがわかる。

 それでも、先ほどよりわずかに背中が伸びていた。


 処置室に入ると、モニターの電子音が規則正しく響く。

 血圧140/86、脈拍92、SpO₂98%。

 数字は、緊張の高さを正直に映している。


「お美々、内圧ゼロ点合わせお願い」

「はい、あいか先輩」


 手袋の装着、導管の準備、潤滑剤の分量調整。

 腹部触診を始めると、下腹部の筋膜が強く張り、指先に震えが伝わった。


「冷たくないですか?」

「……はい。少し、怖いです」


 その一言は、子どものように素直だった。


「大丈夫。ここから全部説明します。置いていきません」


 吸気と呼気のリズムの誘導。

 胸郭の上下と筋電波形が徐々に一致していく。

 内圧は2.2 kPaから2.0へ。

 シーツを握る指先の力が少しずつ弱くなる。


「そのまま、逃げなくて大丈夫ですよ。

 身体が“もう出していい”って言う瞬間、必ず来ますから」


 波形が柔らかくなり、排圧直前の兆候が現れる。

 呼吸が深くなり、肩のラインが緩む。


「……っ、あ……」

 静かな声。

 その瞬間、内圧は1.1へ下降。


「終了です。排液量は規定値達成しました。内圧も安定しています」

「……よかった……本当によかった……」


 及川さんは、しばらく言葉を失ったまま天井を見つめ、そして静かに微笑んだ。


「緑川さんじゃなくても、安心……できました」

 その声は震えていたが、もう堅さはなかった。

 不安の色が少しずつ消え、穏やかな表情へ変わっていく。


「ありがとうございます。本当に、助かりました」


 その一礼は深く、長かった。


 休憩室に戻ると、壁に小さな紙が貼ってあった。

 見慣れた丸い字。


《外来、頼んだよ。

 “怖くない場所”のままでいてね。――ゆぃ》


「……ずるいですよね、こういうの」

「泣かせに来てますよね、完全に」


 二人で小さく笑う。

 あたたかくて、少ししょっぱい笑い。


 ゆぃゆぃ先輩の椅子は今日も空のまま。

 けれど、その空白は穴ではなく――

 誰かに守られる安心感の“形”そのものだった。


 空いている椅子が、今日いちばん、うるさかった。


~あいかの呟き~


 排液処置は、力技ではない。

 身体の反応を読み取り、自律神経と内圧の“会話”を整える行為だ。

 恐怖や羞恥は脳の痛覚領域で処理され、不安が強いほど筋膜と横隔膜は固くなる。

 だから医療者の声かけは、ただの慰めではなく、副交感神経を優位にする生理学的介入となる。

 「大丈夫です」より「内圧が2.2から2.0に下がっていますよ」のほうが、脳は客観情報に安心し、排圧のリズムが整う。

 医療は“手”と同じだけ、“声”で成り立っている。


 それと――最近、排液の色が濃い患者さんが増えた気がする。

 とろみの強い粘度、わずかに黄みがかった色調。

 データ上は許容範囲でも、触診した指先が覚えている“違和感”は消えない。

 身体の中で何かが変わり始めているのだろうか。

 そう考えると、胸の奥に小さく冷たい塊が生まれる。

 「気のせい」と言い切るには、あまりに直感が騒ぎすぎていた。

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