第33話 「ポポローションで抜きなさい!」
朝の診療所。トタン屋根を叩く雨音と、湿った空気の中、
ゆぃゆぃ――緑川唯は在庫棚を見つめて眉をひそめた。
「……アリー、ジェルがもうないわ」
「えっ!? 昨日の最後の患者さんで使い切ったかも・・・」
滅菌済みのアロエジェルは、海外派遣先での処置に欠かせない。
滑りを良くし、摩擦による痛みを防ぐ命綱だ。
しかし物資の輸送が遅れ、次の補充は三日後になるという。
「どうするんですか、ゆぃさん。これじゃ……」
「排液処置が成立しなくなるわね」
その真剣な顔と口にした単語のギャップに、アリーは吹き出しそうになったが、事態は深刻だ。
すると、診療所の隅で現地スタッフのマニさんが
「Mayroon kaming Popolotion dito!」(ここにポポローションがあるよ!)と笑顔で差し出してきた。
見た目は黄緑色のペットボトル。
ラベルには現地語で「天然発酵パパイヤローション」と書かれている。
肌の保湿や日焼け後のケアに使われるローカル製品だが、砂糖特有の甘い香りがする。
「……食品じゃないわよね?」
「Para sa balat, ligtas pati sa baby!」(肌用・赤ちゃんにも使えるやつ!)とマニ。
試しに手に取ると、とろみはジェルよりやや緩く、糸を引くような粘性がある。
「アリー、成分表読める?」
「えっと……パパイヤ果汁、水、ヤシ油、砂糖……え、砂糖入ってます?」
「……砂糖?」
医療現場で砂糖入りローションを使うのは聞いたことがない。だが、時間は待ってくれない。
外では患者の列が既にできていた。
「アリー、今日はこれで行くわ」
「大丈夫なんですか?」
「滅菌してから使えば理論上は問題ない……はず」
ゆぃゆぃはポポローションのボトルを煮沸し、中身を清潔な容器に移し替えた。
煮沸によってほとんどの一般細菌は死滅する。
砂糖成分は水分調整を行うため、浸透圧により細菌内部の水分を奪い増殖を抑制する。
ローションの粘性は導管挿入時の摩擦抵抗を低減し、粘膜損傷を防ぐ。
副交感神経刺激で排圧反射が起こり、排液効率が高まるのは既知の生理現象だ。
最初の患者は中年男性。
症状は典型的な精液過多症で、溜まりすぎによる腹部圧迫感を訴えている。
ローションを手に取ると、砂糖特有の甘い香りがふわっと立ちのぼった。
「Doktora… mabilis po ang tibok ng puso ko…」(先生…心臓がバクバクしてます…)
「吸ってー…吐いてー…横隔膜まで深く。排圧に同期させるわよ」
ゆぃゆぃは横隔膜の可動域を確認し、腹部筋膜に沿って滑らせるように導管を挿入した。
摩擦がほとんどなく、管内圧は2.3 kPaから2.0へ下降。筋電波形は過緊張型から緩和型へ移行した。
排圧直前、表情筋の緊張がゆるみ、指先から力が抜けた。
しかし処置の途中で問題発生。
ローションの粘性が予想より低く、導管入口から溢れた液体が先輩の白衣に盛大に跳ねた。
「うわっ…!」
「ゆぃさん、それ…顔に…!」
周囲の現地スタッフが一斉に目を逸らす。
男性は震えながら叫んだ。
「Pasensya! Hindi ko sinasadya!」(すみません!わざとじゃないです!)
「恥ずかしがらなくていいのよ。排液処置は医療行為なんだから」
涼しい顔でタオルで拭き取り、内圧を一定に保ったまま処置を完遂した。
排液量は18 mL、終了後の内圧は1.1 kPa。
男性は深く息を吐き、胸郭の緊張が完全に落ちた。
午後、別の患者で通訳トラブルが発生した。
青年が診察台で落ち着かず、早口でまくしたてる。
「Aminin ko, parang amoy ng pagkabata ko ’to… nakakakiliti!」
(正直これ、子どもの頃の匂いみたいで…くすぐったい!)
アリーが困惑して「リラックスしすぎてるらしいです」と訳す。
治療なのか癒やしなのか、境界線が曖昧になりつつも、排圧は確実に抜かれた。
午後になると、湿度と甘い香りで診療所全体が南国スイーツ店のような空気になった。
窓の外では子どもたちが「Ang bango!」(いい匂い!)と騒ぎ、診療所まで押しかけてくる。
中には近所の青年が「Gusto kong magpa-check!」(検査受けたいです!)と偽って列に並んでいた。
「アリー、あれ絶対症状ないわよね」
「でも、診断だけなら…」
「仕方ないわね。必要のない排液処置は絶対にしない。これは医療だから」
夕方、最後の患者を見送ると、ゆぃゆぃはぐったりと椅子に腰を下ろした。
「今日は甘さとの戦いだったわ…」
アリーも疲労困憊で、「もう当分、パパイヤは食べたくないです」と笑った。
それでも、限られた物資で一日を成立させたことに、ゆぃゆぃは小さな誇りを感じた。
「アリー、覚えておきなさい。ジェルがなくても、工夫すれば排液できる」
「はい、ゆぃさん」
「そして――抜きなさい!」
夕暮れの診療所に、甘い香りと共にその声が響いた。
◇
【医療的観点から見た砂糖配合ローションの利点と危険性】
■メリット
・浸透圧作用による一時的な殺菌効果
高濃度糖類は細菌内部の水分を奪い、増殖を抑制する。短時間の処置では感染抑止に寄与。
・保湿性と滑走性の向上
粘度特性により摩擦抵抗を減らし、導管挿入時の粘膜損傷を軽減する。
・副交感神経刺激による緊張緩和
嗅覚刺激を介した神経反応で筋緊張が緩和され、排圧効率の向上が期待できる。
■デメリット
・細菌・真菌の栄養源になりうる
残留した糖分は、処置後に急速な細菌増殖を引き起こす可能性があり、感染症リスクとなる。
・長時間残留による粘着摩擦の発生
乾燥後は粘性が上昇し、表皮剥離や局所炎症を誘発する恐れ。
・pHバランスの乱れ
粘膜環境の変化に敏感な患者ではヒリつき、赤み、炎症反応を伴う可能性。
▼まとめ
使用する場合は短時間・滅菌環境・直後の洗浄が絶対条件。
代替材としては有用だが、常用には適さない。
※この物語の排液描写は医療行為です。性的意図はありません




