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第32話 「白衣と太陽光とタガログ語」

ラタンディア派遣2日目の朝、ゆぃゆぃは診療所に着くなり、器具棚を開けて眉をひそめた。

 通訳として帯同したアリーは、医療知識はほとんどないが、

現地語と日本語を橋渡しする重要な役割を担っている。


「…昨日、器具の消毒どうしたの?」

「ゆぃさん、現地スタッフが全部やったって言ってましたよ?」とアリー。

 だが中を覗くと、アルコールの匂いはせず、水滴が残ったままの導管やカップが並んでいた。


「これじゃ雑菌の温床よ!急性前立腺炎でも起こしたらどうするの!」

 怒るゆぃゆぃの声に、アリーが慌てて現地語で指示を飛ばす。

 どうやら彼らは「熱湯をかければ十分」という認識だったらしい。


「熱湯殺菌もいいけど、器具によっては変形するのよ」

「ゆぃさん、現地は電気も水も不安定ですから…」

「なら日光殺菌とアルコールを併用しましょう。紫外線は意外と強力なのよ」


 紫外線照射は、細胞内のDNA鎖に直接ダメージを与え、複製を不能にする働きがある。

波長254nm付近のUV-Cは殺菌灯に使用され、5~15分照射で多くの細菌が死滅する。

太陽光でもUV-AとUV-Bが表面殺菌に効果を持ち、特に乾燥と併用すると細胞膜が破壊されやすい。

湿度の高い地域では細菌増殖速度が加速するが、

逆に直射日光下での乾燥殺菌は短時間で高い成果を上げる。

医療現場では電力不足地域での器具管理に有効とされ、多くの国際医療チームが採用している。


 午前の診療が始まる。

 1人目の患者は農夫の青年。

 診察ベッドに横たわりながら、恥ずかしそうに現地語で何か言っている。


「Sana dahan-dahan lang po…」(できれば優しくお願いします…)

「もちろんよ。今抜きますからね~、がんばってください!すぐ楽になりますよ!」


 ゆぃゆぃの日本語は青年には分からないはずだが、不思議と安心した表情を見せた。

 聴診器で胸郭の動きを確認し、横隔膜の可動域を確かめる。呼吸は浅く速い。

 腹部を軽く触診すると、膀胱上部に明らかな圧痛点と強い張り。

筋膜の硬直が手袋越しでもわかる。内圧計の測定値は2.4 kPa。臨界域ぎりぎりだ。


 慎重に導管を挿入し、外径に合わせて角度を調整する。

「吸ってー…吐いてー…そのまま」

 呼吸同期のリズムを作ると、青年の腹部の緊張がわずかに緩む。

 内圧は2.4から2.1へ下降。筋収縮波形も乱打型から緩徐型へ変化していく。


 しかし処置の途中で問題発生。

 導管の先端が経年劣化で外れてしまい、ゆぃゆぃの白衣に盛大に飛び散った。


「うわっ…!」

「ゆぃさん、それ…顔に…!」


 頬から顎まで滴る白濁に、周囲の現地スタッフが一斉に目を逸らす。

 青年は顔を真っ赤にし、震える声で叫んだ。


「Pasensya! Hindi ko sinasadya!」(ごめんなさい!わざとじゃないんです!)


「…別に恥ずかしがらなくていいのよ。仕事なんだから」

 涼しい顔でタオルで拭き取り、導管を再装着し、圧を一定に保って処置を最後までやり切った。

 滲出液は合計22 mL。排出後の内圧は1.1 kPaまで正常化。

 青年は全身の力が抜けたように深く息を吐いた。


 午後、別の患者で通訳トラブルが起きた。

 高齢男性が診察台に座り、早口でまくしたてる。

 アリーが困った顔で「抜かなくてもいいって言ってます」と訳したが、ゆぃゆぃは首を傾げた。


「それ、本当にそう言った?」

「ええ…多分…」


 再度聞き直すと、実際には

「Kung magpapalabas, sana ’yung mas bata ang gagawa…」

(抜くなら若い看護師にしてほしい)

という要求だった。


「おいコラ、それは失礼だって伝えなさい!」

 アリーが困惑しつつ訳すと、高齢男性は大笑いしてすぐOKを出した。


 導管挿入、陰圧調整、筋反射の観察、流量管理。

 処置はわずか3分で完了し、男性は安堵の笑みを浮かべた。


「Maraming salamat, Doktora.」(本当にありがとう、先生)

 彼は感謝の握手を求めてきたが、その手のひらにはビーズのような小さな護符が乗っていた。


「これは?」

「現地で、施術してくれた人の健康と技術向上を祈るお守りです」

「まあ…嬉しいわね」


 日本に持ち帰ったら、クリニックのカウンターに飾ろうとゆぃゆぃは心の中で決めた。


 診療終了後、スタッフとお茶を飲みながらアリーが笑い話を始めた。

「ゆぃさん、今日の『今抜きますからね~』って言葉、

現地語だと『今盗みますからね~』に聞こえるそうですよ」

「…どうりで笑いが起きるわけね」

「でも、患者さんは嫌な顔してませんでしたよ」

「それは…きっと“スッキリ感”が勝ったからでしょうね」


 こうして、トラブルだらけの2日目も、笑いと感謝の中で幕を閉じた。



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