第31話 「国境なき抜き屋、ゆぃゆぃ先輩出陣!」
昼休み、ナースステーションに突然の電話が鳴り響いた。
「はい、ヘブンズゲート科です」
受話器を取った私の耳に、聞き慣れた低くハキハキした声が届く。
「ええ、私が緑川唯です。…はい、派遣要請ですか?」
その声色だけで、隣のスタッフが背筋を伸ばす“現場音”。
彼女の喋り方は、いつだって手術室みたいに温度が落ちる。
それは、冗談好きな先輩の奥にある“使命の柱”みたいなもの。
――あ、この人、本気モードだ。
電話を切ったゆぃゆぃ先輩は、信じられないという顔でこちらを見た。
「国境なき医療団から、精液過多症の現地支援依頼が来たの」
「え、そんな症例、海外にもあるんですか?」
「あるどころか、日本より多いらしいわよ。気温と湿度で腺機能が活発になる地域があってね」
話によると、派遣先は東南アジアのフィリピン。
人口の3割が慢性的に精液貯留で苦しみ、医療資源不足で適切な処置が受けられないらしい。
数値だけ見れば医療統計だ。
でも、そこに暮らす人の息づかいを考えると胸がざわめく。
“溜まる苦しさ”は本人しか知らない。
それが日常で、しかも放置される――。
医療はいつも、遠い場所の“当たり前じゃない苦痛”と向き合う。
「先輩、私たちも行くんですか?」
「今回は私だけ。あなたたちは留守番で外来を守ってちょうだい」
「うわー、置いてけぼり…」とお美々が口を尖らせた。
その日の夜、病院裏の小さなカフェで、急遽送迎会が開かれた。
白衣のままではなく、みんな私服。いつもより柔らかい空気。
丸テーブルの上には紙コップのコーヒーとコンビニケーキ。
豪華じゃなくても、温度は十分だった。
「先輩、怖くないんですか?」
「怖いよ?」ゆぃゆぃ先輩は笑って答えた。
「でも、怖さよりやるべきことのほうが大きい。それが医療でしょ?」
お美々が鼻をすすりながら言う。
「先輩いないと、外来の空気変になるんですからね」
「大丈夫、あいかちゃんがいるじゃない。あいかちゃんは強い子だから」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと縮む。
私、そんなに強くない。
でも、強く見えるように背筋を伸ばした。
「──帰ってきたら、留守番評価してあげるから」
いつもの調子で笑う先輩の目は、うっすら泣きそうだった。
私も、それを見ないふりをした。
翌週。
成田空港で、ゆぃゆぃ先輩は白衣ではなく、現地用の軽装シャツ姿。
「ねえ、あいかちゃん。
私、向こうでも『大丈夫。こらえないで——全部出しちゃいましょう』って通じるように、
現地語覚えてきたのよ」
「……発音合ってます?」
「まあ、笑われたらそれはそれで盛り上がるでしょ」
旅立つ背中はどこか小さく見えた。
白衣じゃない先輩は、ただの人間に見える。
でも目は、国家試験の時より落ち着いている。
強い。迷わない人の目だ。
「行ってらっしゃい」
「うん。任せたわ」
フィリピンに到着すると、湿気を含んだ空気と独特のスパイスの香りが全身を包んだ。
診療所はプレハブ造りで、ベッド2台と簡易器具だけの簡素なもの。
「器具は古いけど、最低限の導管確保はできるわね」
現地ナースたちは、興味津々でゆぃゆぃ先輩の動きを見つめる。
初診の患者は、やせ細った中年男性。
通訳によると「半年以上排出できず、腰痛と発熱が続いている」とのこと。
触診で下腹部の張りが確認され、精圧は驚異の数値を記録した。
「Masakit… hindi ko kaya…」
(痛い…もう無理です…)
ゆぃゆぃ先輩は患者の頭側へ回り、ゆっくり声をかけた。
「Huwag pigilan—hayaan mong ilabas lahat.」
(こらえないで——全部出して)
「これは…限界ね。今抜きますからね~、がんばってください!すぐ楽になりますよ!」
日本語の響きに、患者はキョトンとした後、通訳を介して笑い出した。
異国の患者の皮膚は熱く、乾き気味だった。
触れる手に伝わる、独特の“体の訴え”。
医療行為に国境はない。
痛みも、滞りも、羞恥も、救われた安堵も――全部同じ色だ。
処置は迅速だった。
導管確保後、カップが足りないため地元の計量容器を代用。
「はい、きっちり抜いて、スッキリさせてあげなさい!」
勢いよく溜まった液体が容器を満たし、現地スタッフから感嘆の声が上がる。
処置後、患者は立ち上がり、涙を流しながら手を握ってきた。
通訳が訳す。
「あなたは私の命の恩人だ」
後日送られてきた動画の中で、ゆぃゆぃ先輩はさらりとそう答えていた。
「大げさじゃないのよ、こういうのは。詰まれば命に関わるの」
その声は強く、でも少しだけ震えて聞こえた。
救った命の温度は、手袋越しでも消えない。
医療者は、そうやって少しずつ強くなる。
その日の夕方、現地の新聞社が取材に来た。
「記事タイトルは…『日本から来たヌキ屋天使』」
「ちょっと!天使はいいけど、ヌキ屋はダメ!」と笑う先輩。
派遣初日は、予定の3倍の患者を処置して終了した。
疲れ切ったゆぃゆぃ先輩は宿のベッドに倒れ込み、
「…やっぱり、日本より湿度が高いと、本当に量が増えるのね」
とだけ呟いて眠りについた。
画面越しに届いた短い報告LINE。
《元気。汗すごい。器具足りない。けど皆優しい》
それを見て、胸が静かに熱くなる。
世界は広い。でも、人が救われる顔はどこも同じ。
私も、いつかそこへ行くのだろう。
その日の夜、タオルを握りしめながら眠った。




