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第29話 「化学とリズムと──代替手段の夜」

梅雨明け前の湿気が病棟の窓辺にまとわりつく朝。

ナースステーションでは朝礼が終わり、あいかはその日のスケジュールを端末で確認していた。

お美々は昨夜ゆぃゆぃ先輩から渡された復習プリントを何度も繰り返し読み、

ゆぃゆぃ先輩は例によって資料の束を膝に広げている。


 「今日は午後が混むわよ。ステージ2管理、特に内圧の変動が大きい人が多いから。

お美々、午後はルート管理と前処置のチェックをお願い」

 「はーい!」

 お美々の声は明るいが、手元のメモは緊張で角ばっていた。


 午前外来が落ちついたころ、救急無線が低く鳴る。

 《成人男性・通院中。ステージ2管理、塗布ジェルでアレルギー反応疑い。到着5分。》

 あいかが端末を覗き込む。「田中さん……近隣高校の化学教諭の方。」

 実験好きで、溶媒の話や教材のネタをよく持ち込む“常連枠”の一人だ。


 到着した田中は、前腕の鮮やかな紅斑と強い掻痒を訴えていた。モニターは安定。

内圧はステージ2標準の1.8。

ただし皮膚反応が明らかに“ジェル塗布を嫌がっているタイプ”で、表皮がやや浮腫状になっていた。


 ゆぃゆぃ先輩は紅斑の形を指でなぞり、短く判断する。

 「これはジェルの浸透圧じゃない。前処置の段階で有機溶媒の残渣が皮膚のバリアを薄くしてる。

塗ったら増悪するわね。代替手段に切り替えましょう」


 ここで、彼女はお美々に簡潔な講義を入れる。

 「うちのジェルの主成分は高分子ポリマーと生理活性成分。

粘度の“抵抗”を利用して精管周囲の平滑筋を揃えて動かす仕組み。

だから、pHと浸透圧がズレた皮膚に乗せると強刺激になるの。覚えといて」

 お美々はうんうんと頷き、急いでメモを取る。


 ゆぃゆぃ先輩の指示は迅速だった。

 「塗布は中止。非接触圧排法で内圧をコントロールしながら、

低濃度ジェルを後半で“外側から流すだけ”にするわ」

 非接触圧排法──ベルト圧と呼吸誘導で内圧を落とす、塗布刺激ゼロの補助法。

特に“外因性アレルギー疑い”の日には相性がよい。


 あいかはすでに機材を並べていた。段階圧迫ベルトの位置を調整し、

ゲージの針の動きに合わせて圧を「緩やか→中速→リズム早め」と波状に変化させる。

圧が急に跳ねないよう、呼吸誘導で副交感神経を優位にする。


 「吸って──はい、吐いて。トントン……すこし、トクトクトク……」

 あいかの柔らかなリズムは、機械音と重なって処置室に奇妙に落ち着いた空気を生む。


 皮膚反応は増悪せず、内圧は狙い通り下降していく。

 そのとき──予期せぬトラブルが起きた。

 田中が突然「へっ……くしっ!」と大きなくしゃみをしたのだ。

腹部が跳ね、ベルトがわずかにズレる。

 「危ないっ!」

 お美々が瞬時にベルトを押さえ込んだが、その反作用で旧型補助ノズルの先端から、

ほんの一滴、低濃度ジェルが“面張力のゆるみ”でポタリとこぼれた。


 それが、よりによってあいかの腕、そして胸元へ。

 「あいか先輩っ、ごっ、ごめんなさいぃ!」

 顔を真っ赤にしたお美々の声は裏返っていた。


 だが、ゆぃゆぃ先輩の檄がすぐ飛ぶ。

 「動揺しない! はい、抜きなさい!!」

 声こそ荒いが目は冷静そのもの。

 お美々は深呼吸し、器具の角度を立て直す。

あいかは胸元をさりげなくガーゼで拭き、姿勢を保ったまま処置に集中する。


 最終段階。低濃度ジェルを皮膚上に“外側から薄く流す”だけの工程に入り、

刺激は最小限に抑えられた。内圧はじわりと1.5へ。


 全工程が終わると、田中は深々と頭を下げた。

 「すみません……溶媒の残渣が原因とは……」

 「化学教諭なら、次は手袋二重にして。あと溶媒のpH記録は毎回残すこと」

 ゆぃゆぃ先輩は事務的だが優しい声でそう言った。


 処置後のミニ・ブリーフィングでは、ジェルの粘度とpHの“管理幅”の講義が入った。

 「通常は60〜80%濃度。変異型の皮膚反応が出る時は80〜120%。

でもね──数字だけ覚えても意味ないの。判断するのは“目”と“触り心地”だから」

 お美々は「触り心地……」と真剣にメモする。どこか可愛らしい。


 休憩室に戻ると、お茶をすすりながら談笑が始まる。

 「あのくしゃみ、ほんとタイミング悪すぎ」あいかが笑うと、

 「先輩の胸に垂れちゃって……ほんと……すみません……」

 お美々は縮こまっていた。


 ゆぃゆぃ先輩はふいにあいかの肩に手を置いた。

 「今日の判断、良かった。あの落ち着きは海外でも通用するわよ」

 その言葉に、あいかは驚き、その後ふっと柔らかく笑った。


 夜。帰り際、ジェル保管庫の前に立ち止まるあいか。

 冷暗所のプレート、「pH記録・粘度記録必須」の注意書き。

 医療は化学とリズムでできている──その言葉の意味を、今日ほど深く理解した日はなかった。


 スマホを見ると、ゆぃゆぃ先輩から短いメッセージが届いていた。

 「来週、候補地の打診が来るわ」


 外へ出ると夜風が涼しい。

 仲間と、技術と、化学の知識があれば──

 どの国でもやっていける。

 あいかは静かに微笑んだ。



☆おまけ☆ ~更衣室トーク「アレって何さ?」~

勤務を終え、あいかとお美々は更衣室で制服を脱ぎ、汗をタオルで拭いながら一息ついていた。

夕方の湿った空気と、消毒液の香りが混ざる。


お美々は小さく息を吐き、ちょっと照れくさそうに言った。

「あの…先輩、質問いいですか?」


あいかは首をかしげる。「んっ?何を?」


「えっと、その…アレ、かけられたことありますか?」


あいかは眉を上げる。「アレって何さ?」


お美々は顔を赤くして小声で続ける。「えっと…彼氏とかに、その…こう…ぴゅって、なんか…ね?」


あいかは思わず吹き出す。「あははっ!」


お美々は俯いて手でタオルをぎゅっと握る。「私はまだ…未経験で…」


あいかは肩を揺らしながら笑った。

「お美々、真面目に悩むことないのよ。こういうのって結局、“笑えるネタ”に変えるのが一番安全」


「でも、先輩は…かけられたことあります?」お美々は思わず聞く。


「んー…まあ、そういうのはあるけど、結局、拭いて笑って済ませる。それでおしまい!」

あいかは両手を広げ、やや大げさにおどける。


お美々もつられて大きく笑い、「先輩…さすがです。お馬鹿に笑える人は最強ですね!」


二人は制服を畳みながら、肩を軽くぶつけ合い、笑い声を更衣室に響かせる。

緊張の病棟から離れた場所で、意味深な話題もあっという間にお馬鹿になり、

平和な時間が満ちていった。

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